最澄は天台宗の開祖。どんな教え?仏教界に与えた影響と特徴を簡単に解説!
最澄(766(天平神護2)or767(神護景雲元年)〜822(弘仁13))は、平安時代初期に活躍した日本の仏教僧です。天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られています。
そんな最澄の天台宗には、どのような教えがあるのでしょうか?
この記事では、最澄の天台宗の特徴などを簡単に解説していきます。
目次
最澄は天台宗を開宗した
最澄は、天台宗の開祖です。
19歳の時に東大寺にて正式に僧になりましたが、当時の仏教のあり方に不満を抱き、故郷に帰って比叡山寺(のちの延暦寺)を建てて、12年もの間1人で修行をしました。
その後、桓武天皇と出会い、最澄は全面的なバックアップを受けることとなり、遣唐使として本格的な天台宗を学びに唐へと渡ります。
そして帰国後に、天台宗を開き、全国的に布教していくこととなりました。
天台宗の教えの特徴は?一隅を照らすとは何?
最澄の天台宗の教えには大きな柱が4つあります。
- 全ての人は皆、仏の子どもと宣言しました。(悉有仏性(しつうぶっしょう))
この世のありとあらゆる生物は、全て仏となるべき性質を備えているということです。
- 悟りに至る方法を全ての人々に開放しました。
座禅でも念仏でも、巡礼でも写経でも、もっと言えば茶道や華道といったどんな方法でも、そこに真実を探し求める心(道心)があれば、悟りに至れる道となるのです。
- まず、自分自身が仏であることに目覚めましょう。
天台宗におけるお授戒は、我が身に仏さまをお迎えすることです。仏さまと共に生きる人を菩薩といい、その行いを菩薩行といいます。
- 一隅を照らしましょう。(一隅を照らす運動)
まず自分自身を輝いた存在としましょう。その輝きが周りも照らします。一人一人が輝き合い、手をつなぐことができれば、素晴らしい世界が生まれるでしょう。
以上のように、天台宗では、全ての人が仏になることができる「法華一乗」の教えを説いています。「乗」とは乗り物のことで、亡くなった者は、身分など関係なく1つの乗り物で仏の世界に導かれるとしているのです。
また、最澄は、天台教学に加え、「四宗」も日本に広めました。
四宗とは、「円、密、禅、戒」のことを指します。
円:法華一乗の誰でも仏になれるという教え
密:護摩などにより加持祈祷する教え
禅:坐禅止観をして心を統一する教え
戒:様々な戒律を守り、規律正しい生活を送るための教え
最澄は遺言で弟子たちに道を示した
最澄は、亡くなる間際、弟子たちに向けていくつか遺言を残しました。
「自分が死んでも喪に服さなくてよい。国家を守護するために、毎日大乗経典の講義を行うように」
「人々を救うために、懸命に努力しなければならない。正しい修行を行い、国家の恩に応えなければならない」
「私は幾度もこの国に生まれ変わって、仏教を学び、一乗の教えを弘めようと思う。私と心を同じくするものは、道を守り、道を修行し、あい思ってその時を待ってほしい」
最澄は、自身が生涯をかけて臨んだ一乗仏教への強い思いを、弟子たちに託したのです。
そして死後、朝廷から最澄は「伝教大師」の諡を与えられています。
最澄の天台宗は後世の仏教に大きな影響を与えた
最澄が建てた比叡山延暦寺では、最澄亡き後も、日本の仏教史に名を刻む多くの名僧が修行を積み、ここから様々な宗派を誕生させています。
このことから、比叡山延暦寺は、「日本仏教の母山」と呼ばれるようになりました。
つまり、現在の日本で行われている仏式葬儀の多くは、天台宗と比叡山延暦寺を開いた最澄の影響を大きく受けていると言っても過言ではありません。
【比叡山延暦寺から誕生した宗派】
- 法然の浄土宗
- 親鸞の浄土真宗
- 日蓮の日蓮宗
- 栄西の臨済宗
- 道元の曹洞宗
最澄に関するQ&A
最澄に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 最澄と空海の関係性は?
- 最澄は女性だった?
- 最澄は日本にお茶を伝えた?
最澄と空海の関係性は?
最澄と空海は、同じ時期に遣唐使になり唐へと渡りましたが、実際は違う船に乗っていたため、そこで出会うことはありませんでした。
2人が正式に出会ったのは、帰国後のことです。
真言密教について学び足りなかった最澄が、真言密教を極めていた空海から教えてもらおうとコンタクトを取ったのです。
そこから、2人は手紙のやり取りをしたり、典籍を貸し借りしたりと良好な関係を築いていきました。
しかし、真言密教において非常に重要な典籍を簡単に借りようとした最澄に対して、空海がキレたことや、最澄の愛弟子が空海のもとへ弟子入りしてしまったことなどがきっかけとなり、一気に2人の関係は悪くなってしまいました。
その後、2人がコンタクトを取ることはなく、絶縁状態となってしまったのでした。
\ 最澄と空海の関係性に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております /
最澄は女性だった?
最澄によって805年(延暦24年)に建立された能福寺には、唐に渡った頃の最澄の姿が像として建てられています。
この最澄像を見てみると、髪型は当時唐の幼い少女たちの間で流行っていた垂練髻をしており、服装も唐の少女たちが着ていた漢服を身につけています。
このことから、最澄は実は女性だったのではないかとする説が存在するのです。
しかし、この他に明確に女性であるとする史料はないため、現時点では、最澄は男性であるとする説が有力となっています。
最澄は日本にお茶を伝えた?
最澄は仏教だけではなく、お茶を日本に伝えたことでも知られています。
最澄が中国より持ち帰ったお茶の種子が、日本におけるお茶の始まりだと言われているのです。
最澄が持ち帰ったお茶の種子は、比叡山の麓の日吉大社に植えられました。
この場所は、日本茶発祥の地として残され、現在でも「日吉茶園」が茶の栽培を手掛けています。
まとめ:最澄の天台宗は後世の仏教に大きな影響を与えた
最澄は、比叡山延暦寺にて天台宗を開宗しました。そこでは、様々な名僧が修行を積み、新たな宗派を誕生させていったのです。このように、最澄の天台宗は後世の仏教に大きな影響を与えました。
今回の内容をまとめると、
- 最澄は比叡山延暦寺にて天台宗を開宗した
- 最澄が開いた天台宗では法華一乗といった「四宗」の教えがある
- 比叡山延暦寺では後世、様々な名僧が修行を積み、新たな宗派を誕生させていった
- 比叡山延暦寺は「日本仏教の母山」と呼ばれている
遺言からも伺えるように、最澄は仏教で、より多くの人々を救いたいと切に願っていたはずです。そんな最澄の建てた比叡山延暦寺が、新たな仏教の宗派を生み出し、より多くの人を救っていると考えると、最澄としても本望であろうと思わずにはいられません。