聖武天皇の時代の文化は天平文化。特徴は?有名な作品や建築は?遺品が正倉院にある?
聖武天皇(701年(大宝元年)〜756年(天平勝宝8年))は、奈良時代に活躍した第45代天皇です。
仏教を深く信仰していたため、全国に国分寺や国分尼寺を建立したり、東大寺の大仏を建立したりしたことでも知られています。
そんな聖武天皇の頃の文化は天平文化と言われています。
天平文化とは、どのような特徴を持っていたのでしょうか?
また、どのような有名な作品があったのでしょうか?
この記事では、聖武天皇の頃の文化を簡単に解説していきます。
目次
聖武天皇の頃の文化・天平文化の特徴
聖武天皇の頃の文化は、「天平文化」といいます。
奈良時代は、遣唐使の影響などによって、国際色豊かな仏教文化が日本にもたらされました。
その結果、天平文化は、唐を中心にペルシアやインドなど世界各地の影響を包含した文化です。
天平文化は、その名の通り聖武天皇が在位していた天平年間に最盛期を迎えました。
そのため、聖武天皇の仏教政策の影響を受け、国家仏教色が強いのも特徴の1つです。
そして、平城京を中心に、壮大で華麗な建造物や仏像などが次々と建てられました。
また、天平文化の特色の1つには、国史の編纂が始まったことも挙げられます。
律令国家が形成されるに伴って、国家というものが強く意識されるようになり、国の成り立ちやその発展・経過を示すために国史の編纂が行われていったのです。
天武天皇の時代に開始された国史編纂事業は、奈良時代に『古事記』『日本書紀』として完成しました。
この両者を合わせて『記紀』と言います。
聖武天皇の時代の天平文化の有名な作品や建築は?
聖武天皇の頃の文化である天平文化は、国際色豊かな仏教文化でした。
それでは、有名な作品や建築にはどのようなものがあるのでしょうか?
ここでは、奈良時代の文化・天平文化の有名な作品や建築などを簡単に解説していきます。
聖武天皇の時代の天平文化の代表的な歴史書
天平文化では、歴史書の編纂が行われていました。
国史を編纂するだけではなく、政府は地方にも歴史書を編纂するように命じました。
こうして、日本各地の歴史書が生まれていったのです。
・『古事記』
上・中・下の3巻からなり、天地創造、国生み、天孫降臨、神武天皇東征、日本武尊の神話など、全ての始まりから推古天皇までの物語を、漢字で表した国内向けの書物。
・『日本書紀』
全30巻からなり、中国の歴史書に習って時系列順に「編年体」で書かれた国外向けの書物。
こちらは持統天皇までの歴史が書かれています。
・『風土記』
地方にそれぞれ伝わる歴史をまとめた書物。
多くのものは散逸してしまいましたが、まとまったものとしては、常陸、出雲、播磨、豊後、肥前の5カ国の『風土記』が現在まで伝えられています。
中でも、『出雲国風土記』は首尾完備した唯一の完本となっています。
聖武天皇の時代の天平文化の代表的な文学作品
天平文化の間には、著名な歌人が多く生まれ、多くの優秀な作品が生まれました。
それらをまとめた作品は、日本文学の源流として時代を越えて読み継がれていき、後の時代の作品にも大きく影響を与えました。
・『万葉集』
全20巻からなる、幅広い身分・階層の人々によって詠まれた和歌を収録した歌集。
上は天皇・貴族から、下は農民までが作者として名を連ねています。
編者は判明していませんが、身分を問わずに約4500首以上も集めたのは、当時としては画期的な編纂方法でした。
・『懐風藻』
貴族や官人に漢詩文の教養が必要とされた結果、編纂されたのが『懐風藻』です。
現存最古の漢詩集で、大友皇子、大津皇子、長屋王ら64人の漢詩・120編が収録されています。
編者は判明していません。
聖武天皇の時代の天平文化の代表的な建築
寺院や宮殿に礎石・瓦を用いた壮大な建物が多く建てられました。
そのどれもが均整がとれた堂々とした造りとなっています。
ちなみに、この時代の寺院建築は、唐を手本としていたので、靴を履いたまま参観するものがほとんどでした。
靴を脱いで中に入るようになったのは、文化の国風化が進んでからです。
- 法隆寺伝法堂
- 法隆寺夢殿
- 唐招提寺講堂
- 唐招提寺金堂
- 東大寺法華堂
- 東大寺転害門
- 正倉院宝庫
聖武天皇の時代の天平文化の代表的な彫刻
彫刻では、表情豊かで調和のとれた仏像が多く、以前からの金銅像や木像の他に、塑像や乾漆像の技法が発達していきました。
【塑像】
木を芯として、そこに縄を巻き、粘土をつきやすくした上で、粗い土から次第に細やかな土に代えて成形していく技法で作った仏像。
粘土なので扱いやすく、失敗したとしてもすぐに作り直すことができ、値段も安く済ませることができるのが特徴です。
- 東大寺法華堂日光・月光菩薩像
- 東大寺法華堂執金剛神像
- 東大寺戒壇院四天王像
- 新薬師寺十二神将像
【乾漆像】
乾漆像には、原型の上に麻布を幾重にも巻いて漆で塗り固め、後で原型を抜き取る「脱活乾漆像」と、粗彫りした木彫を原型とした「木心乾漆像」の2種類があります。
脱活乾漆像は、中身がない像なので非常に軽くできます。これに対して、木心乾漆像は中身が木なのでそれなりの重さになってしまうのが特徴です。
- 東大寺法華堂不空羂索観音像
- 興福寺八部衆像
- 唐招提寺鑑真像
聖武天皇の時代の天平文化の代表的な絵画
絵画の作例は少ないのですが、唐の影響を受けた豊満で華麗な表現が見られる絵画が多いです。また、絵巻物の源流と呼ばれるようなものも生まれました。
- 正倉院鳥毛立女屏風
- 薬師寺吉祥天像
- 過去現在絵因果経
武天皇の時代の天平文化の代表的な工芸品
工芸品としては、正倉院宝物が有名となっています。
これは、聖武天皇の死後、光明皇太后遺愛の品々を東大寺に寄進したものが中心です。
服飾から調度品、楽器、武具など、約1万点に及ぶ多種多様な工芸品が見られます。
- 螺鈿紫檀五弦琵琶
- 白瑠璃碗
- 漆胡瓶
- 百万塔陀羅尼
聖武天皇の時代の天平文化の代表的なお寺
聖武天皇は鎮護国家を目指していたので、全国に国分寺や国分尼寺を建てました。
こうして、全国的に仏教が浸透していった結果、寺院もどんどん増えていきました。
- 東大寺
- 唐招提寺
- 薬師寺
聖武天皇の遺品は天平文化を反映した美術品として、正倉院に収蔵されている
光明皇后は、聖武天皇の七七忌の忌日にあたり、御冥福を祈念して、遺品(六百数十点)と薬物(六十種)を東大寺の本尊盧舎那仏に奉献しました。
光明皇后の奉献は、前後五回におよび、その品々は同寺の正倉(現在の正倉院宝庫)に収蔵され、永く保存されることとなったのです。
これが、正倉院宝庫の起源となりました。
ここに保存されている聖武天皇の遺品は、天平文化を反映した美術品となっており、当時の文化を知る貴重な史料となっています。
聖武天皇に関するQ&A
聖武天皇に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 聖武天皇は何をした人?やったことを一覧で解説!
- 奈良時代の天皇には誰がいた?
- 奈良時代の権力争いの変遷は?
聖武天皇は何をした人?やったことを一覧で解説!
聖武天皇がしたことは、主に3つのことが挙げられます。
- 全国に国分寺や国分尼寺を建立したこと
- 東大寺の大仏を建立したこと
- 墾田永年私財法を出したこと
それぞれ詳しく解説していきます。
・全国に国分寺や国分尼寺を建立したこと
聖武天皇が天皇になってからというもの、天然痘の流行や災害、飢饉が多く、また政治情勢も非常に不安定であったため、聖武天皇は「どうしたら世の中が安定するのだろう」と常に頭を悩ませていました。
場所が悪いのかもしれないと遷都を繰り返してみたものの、あまり効果はありません。
そんな中、聖武天皇は、次第に仏教への帰依を深めていくのです。
そして、仏教による鎮護国家を目指していくこととなります。
その政策の一歩として掲げられたのが、全国に国分寺や国分尼寺を建てることです。
各寺院には、四天王による御加護が得られる金光明最勝王経が安置されました。
こうすることにより、全国民の仏教への信仰を深めようとしたのです。
・東大寺の大仏を建立したこと
鎮護国家を目指してしたことは、国分寺・国分尼寺の建立だけではありません。
次にしたことは、大仏の造立です。
国家を上げた一大プロジェクトとなった大仏の造立ですが、これを作ることにより、社会の安寧を願い、祈る場所としました。
大仏の大きさは天平当時で15m以上であり、その大仏を納める大仏殿も合わせると、相当な規模だったことが伺えます。
また、仕上げの段階で金鉱脈が発見されたことにより、金メッキ仕上げとなったようで、工事に関わった人員は、延べ260万人以上とも言われています。
聖武天皇自らも、民衆とともに作業を行ったようで、いかにこの事業へ積極的に取り組んでいたのかがわかりますね。
ちなみに、後世大仏は二度の戦火に遭い、現在見られる大仏は江戸時代に修復されたものとなっています。
・墾田永年私財法を出したこと
聖武天皇は仏教のことばかり考えていたわけでもありません。
経済対策として、「墾田永年私財法」を出します。
これは、「新しく耕した土地は永久に私有を認める」という決まりでした。
当時、飢饉や貧しさに苦しんだ農民たちが、土地を捨てて逃げ出した結果、土地は荒れ果て税も取れなくなってしまっていたのです。
このままではいけないと、聖武天皇は墾田永年私財法を出して、土地の個人所有を認めたわけですね。
しかし、大宝律令では、「土地と人民は国のものである」という公地公民制があります。
この墾田永年私財法は、その大前提を崩すものだったのです。
個人所有が認められた結果、「荘園」が発生し、次第に公地公民制は崩れていきました。
以上のように、聖武天皇は、主に鎮護国家を目指して仏教を広めることに尽力していたことがわかります。
奈良時代の天皇には誰がいた?
【奈良時代の天皇一覧】
- 第43代天皇:元明天皇(707年(慶雲4年)〜715年(和銅8年))
- 第44代天皇:元正天皇(715年(和銅8年)〜724年(養老8年))
- 第45代天皇:聖武天皇(724年(神亀元年)〜749年(天平感宝元年))
- 第46代天皇:孝謙天皇(749年(天平勝宝元年)〜758年(天平宝字2年))
- 第47代天皇:淳仁天皇(758年(天平宝字2年)〜764年(天平宝字8年))
- 第48代天皇:称徳天皇(764年(天平宝字8年)〜770年(神護景雲4年))(孝謙天皇重祚)
- 第49代天皇:光仁天皇(770年(宝亀元年)〜781年(天応元年))
- 第50代天皇:桓武天皇(781年(天応元年)〜806年(大同元年))
奈良時代の権力争いの変遷は?
奈良時代の天皇は、天皇中心の政治を作っていこうとしていましたが、実際の権力は、藤原氏とその他が交互に担っていくこととなりました。
簡単に流れを見ていくと、
藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂(恵美押勝)→道鏡→藤原百川
以上のような流れで、激しい権力争いが繰り広げられていました。
この中でも、特に注目したいのが藤原不比等です。
奈良時代初期の元明・元正天皇は女帝で、自然と太政大臣の発言力が強まっていきました。そしてこの際、実質的に最上位の地位にあったのが、右大臣・藤原不比等でした。
奈良時代の基本路線は、この藤原不比等によって作られたと言っても過言ではありません。
さらに、藤原不比等は自身の娘を文武天皇と結婚させるなどして、天皇との結び付きを深めていきました。
このことが、後に絶大な権力を握ることとなる藤原家の基盤となっていくのです。
奈良時代は、平安時代に全盛期を誇る藤原氏の、基礎が出来上がった時代と言い換えることもできるでしょう。
まとめ:聖武天皇の頃の文化は天平文化で、国際色豊かな仏教文化だった
聖武天皇の頃の文化は、天平文化です。そして、天平文化は、遣唐使や聖武天皇の仏教政策などの影響を受け、国際色豊かな仏教文化となっていました。
今回の内容をまとめると、
- 聖武天皇の時代の文化は天平文化
- 聖武天皇の時代の天平文化は国際色豊かな仏教文化だった
- 聖武天皇の遺品は正倉院に保存されており、天平文化を反映した美術品となっている
正倉院に保存されている宝物は、通常時では非公開となっており見ることができません。