平清盛の死因あつち死とは?感染症?インフルエンザ?怨霊?最期の姿はどうだった?
平清盛は、平安時代末期の武将で、平氏の最盛期を築き上げた人物です。
平安から鎌倉へと移りゆく時代を語る上で、非常に重要な人物でもあります。
古典軍記の「平家物語」にも、一主人公として描かれています。
平清盛は、「平家物語」の中であつし死といわれる壮絶な最後を迎えています。
実際の平清盛の死因は、どのようなものだったのでしょうか。
実際の平清盛の死因としては、感染症やインフルエンザ、怨霊など様々な説が存在しています。
今回は、平清盛の死因はなんだったのか?さまざまな説を検証しながら、最後の様子も簡単に解説していきます。
目次
平清盛の死因は何?
平清盛は、1181年3月20日(治承5年閏2月4日)に64歳でこの世を去りました。
平清盛を蝕んだ死因は何だったのでしょうか?
平清盛の壮絶な最後の様子は記録に残されていますが、明確な死因は今もはっきりと断定されておらず、謎に包まれています。
今回は、平清盛の死因として考えられている5つの説について、それぞれ見ていきたいと思います。
【平清盛の死因として考えられているもの】
- 「あつし死」説
- 「感染症」説
- 「インフルエンザ」説
- 「怨霊」説
- 「マラリア」説
平清盛の死因はあつち死?
平家物語では、平清盛は高熱により「あつち死」をしたと描かれています。
現代では聞きなれない言葉である「あつち死」とは、どのようなものなのでしょうか?
「あつち」は跳ね回るの意味をもちます。
このことから、「あつち死」とは、身もだえし、跳ね回って死ぬことを指しています。
つまり、平家物語で書かれていた「あつち死」は、平清盛の死因ではなく、最後の様子を示していたといえるでしょう。
平清盛の死因は感染症?
平清盛の死因は「A群β溶血性連鎖球菌の全身性感染症」であるとの説が存在しています。
猩紅熱とかつて呼ばれた病気です。
この感染症が死因であるとする説の根拠は、症状が平清盛の最後の様子と一致している部分が多い点です。
【猩紅熱の特徴と平清盛の症状の比較】
猩紅熱 | 平清盛の最後の様子 |
・症状が急に高熱で発熱から始まる | ・水をかけてもたちまち蒸発してしまうほどの高熱 |
・扁桃腺が腫れ、咽頭痛が伴う | ・声が枯れ,呼吸困難におちいった |
・全身の皮膚に赤色の発疹がでる | ・全身に紅斑がひろがる |
・頭痛や吐き気がでることもある | ・強い頭痛 |
・強い感染力 | ・平清盛の側近であった「藤原邦綱」が同時期に同様の症状で亡くなっている |
平清盛の死因はインフルエンザ?
平清盛の死因は「インフルエンザ」の罹患であるとの説が存在しています。
「インフルエンザ」は、インフルエンザウイルスを病原体とする感染症で、今でも毎年流行がみられている、私たちにもなじみのある病気ですよね。
インフルエンザが平清盛の死因であるとする説の根拠は、症状の類似性と平清盛の亡くなった時期がインフルエンザの流行の時期と重なる点です。
インフルエンザ | 平清盛の最後の様子 |
・突然に起こる38度以上の発熱 | ・水をかけてもたちまち蒸発してしまうほどの高熱 |
・くしゃみ、鼻水、咽頭痛 | ・声が枯れ,呼吸困難におちいった |
・頭痛 | ・強い頭痛 |
・強い感染力 | ・平清盛の側近であった「藤原邦綱」が同時期に同様の症状で亡くなっている |
・2月から3月頃に流行する | ・1181年3月20日(治承5年閏2月4日)に死去 |
平清盛の死因は怨霊?
平清盛の死因は「怨霊」のしわざであるとの説も存在しています。
平清盛が急に非常に苦しみながら亡くなったために、怨念によって殺されたのだろうと当時も噂をされていたようです。
平清盛が亡くなった平安時代後期は、「陰陽師」が役職として活躍していた時代です。
今よりも怨霊や悪霊が身近な存在だったと思われます。そんな時代にはめずらしく、平清盛は非常に現実的な考えの持ち主だったといわれています。
人柱を中止させたり、雨ごいの効果を認めなかったりした彼のエピソードがいくつも残されています。
当時の常識とは違った平清盛の行動は「悪行」として周囲に認識されることもあったといいます。
また、亡くなる少し前には、反平氏であるとしていくつかのお寺(東大寺・興福寺など)を焼き払っています。
そんな平清盛が、謎の急死をしたことで、
「悪行の報いが来て、怨霊に殺された」
といわれるようになったというわけです。
平清盛の死因はマラリア?
平清盛の死因は「マラリア」であるとの説も存在しています。
「マラリア」は、マラリア原虫をもった蚊に刺されることで感染する病気です。
公衆衛生の向上で、現代の日本では発生は報告されていませんが、今でも世界では多くの命を奪う感染症のひとつです。
マラリアが平清盛の死因であるとする説の根拠も、症状が一致している点です。
マラリア | 平清盛の最後の様子 |
・悪寒とふるえに続いて発熱 | ・水をかけてもたちまち蒸発してしまうほどの高熱 |
・大量の発汗と共に解熱 | ・大量の汗 |
マラリア説には反対意見も存在しています。
まず、平清盛が亡くなった時期が冬であることです。
マラリアを媒体する蚊は冬には生きていませんから、潜伏期間が14日程であるマラリアに、平清盛が感染することは不可能であるというのです。
また、重症化しやすいのは「熱帯熱マラリア」であり、温帯の日本で発生する可能性のある「3日熱マラリア」は、比較的症状が穏やかな方で、いきなり死に至ることは無いという指摘もされています。
もっとも、平清盛が、亡くなるよりずっと以前にマラリアに罹患しており、その時は治ったように見えても、実は「原虫」が体内に残っていたため、冬の時期だけれど発症してしまったとの考え方もできるため、完全にマラリア説が否定されたわけではありません。
平清盛の最期の様子を簡単に解説
平清盛の最期は、平家物語で「あつち死」と表現されるほど、壮絶な姿であったといわれています。
その死因は、現在も解明されていませんが、死因はともかく壮絶な最期だったようです。
具体的に、どんな最後を迎えたのか?詳しく見ていきましょう。
平清盛の最期は壮絶な姿だった
平清盛の最後は壮絶な姿だったようです。
【平清盛の最後の姿】
- 燃えるような高熱
- 水も喉を通さなかった
- 声が震え,呼吸が弱くなった
- 皮膚が朱をさしたほどに赤くなった
とてつもない高熱を発し、水も喉を通らず、衰弱していった。
まさに、尋常でない程の高熱で一気に弱っていったことが想像できますね。
平氏が栄華を極めていた、その頂点にいた平清盛がそのように衰弱したことで、平氏の士気は下がっていったと想像できますね。
平清盛の最後の言葉
壮絶な姿で亡くなった平清盛ですが、最後の言葉を残しています。
【平清盛の最後の言葉】
「天下の事は平宗盛(平清盛の三男)に任せ、異論あるべからず」
現代訳:
「自分の死後のことは全て、平宗盛に任せています。今後は平宗盛に従い、政治をおこなうように」
平清盛は自分の死期を悟ると、後白河法皇に伝言を送ります。
しかし、後白河法皇からの返事はありませんでした。そのことに憤怒した平清盛が発した言葉が最後の言葉となったというわけです。
亡くなる間際の平清盛の心残りは、平氏の今後の行く末だったのかもしれませんね。
平家物語では、清盛の最期はどう描かれている?
平家物語では、平清盛の最後はどのように描かれているのでしょうか?
平家物語では、平清盛は妻に
「現世での望みについて、ひとつも心残りはない。ただ思い残すことがあるとすれば、伊豆の国に流した源頼朝の首を見ることができなかったことだ。私が死んだ後は、堂や塔を建てての供養は必要ない。源頼朝の首を刎ね、供えてくれ。」
という遺言を残したとされています。
平氏と源氏が争っていた最中ですから、源氏の棟梁である源頼朝を倒すことを最後まで願っていたような言葉です。
平清盛の思いも虚しく、平氏は源氏によって滅ぼされてしまい、無念ですね。
平清盛の子孫はどうなった?
平清盛の活躍により、「平家にあらずんば、人にあらず」とまで言わしめる程の栄華を極めた平家でしたが、平清盛の死を境に没落していきます。
全国各地で相次ぐ反平氏勢力の台頭に手を焼く中、大飢饉にも見舞われ子孫たちはどんどん追い詰められていきます。
そして、平清盛が亡くなってから4年後の「壇ノ浦の戦い」に破れた平清盛の子孫たちは、滅亡したのでした。
かつては栄華を極めた平氏が、平清盛の亡くなったわずか4年後に滅亡したことには、諸行無常を感じずにはいられません。
跡をついだ宗盛が和睦を断り、平氏は滅亡した?
平清盛が亡くなった後、三男の平宗盛が後を継ぎました。
平清盛が亡くなった年の8月、源頼朝が密かに平氏と源氏の和睦を申し入れたとのエピソードが残されています。
客観的にみれば、平氏にとっても悪くない申し出のようにも思えますが、平宗盛はこの和睦提案をバッサリと断り、源頼朝へ強い増悪を示したと言われています。
平宗盛が和睦を断ったことで、源氏と平氏の対立は後戻りできないものとなったことでしょう。つまりこの決断は、平氏滅亡の引き金となったのかもしれませんね。
まとめ:平清盛の死因はマラリアが有力。あつち死という壮絶な最期だった
平清盛の最後の様子は、高熱に悶えた壮絶なものだったことがわかりました。
死因は諸説ありますが、マラリアなどの感染症であることは、間違いないように感じました。
今回の内容をまとめると、
- 平清盛の最後は、「あつし死」という壮絶なものだった
- 平清盛の死因は、明確になっておらず、様々な説が存在する
- 平清盛が亡くなった後、平氏は衰退し、壇之浦の戦いで滅亡した
- 平清盛が望んだ、源頼朝の首は捧げられることはなかった
また、平清盛が亡くなった後は、栄華を極めた平氏が衰退していったことは、諸行無常を感じさせられますね。