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田沼意次はイケメンだった?実は悪人ではなかった?エピソードから簡単に解説!

田沼意次(1719(享保4)〜1788(天明8))は、江戸時代中期に活躍した江戸幕府の老中です。第9代将軍・徳川家重と第10代将軍・徳川家治の治世下で側用人と老中を兼任し、幕政を主導しました。

そんな田沼意次は、実はイケメンであったという話があります。
田沼意次は、外見も中身もイケメンであったのでしょうか?

この記事では、田沼意次のイケメンであるエピソードを簡単に解説していきます。

田沼意次はイケメンだった?

田沼意次は、容姿が非常に良い、いわゆるイケメンであったと言われています。

大奥の女中たちからもモテていたとか…。

ここでは、田沼意次のイケメンエピソードを簡単に解説していきます。

田沼意次はイケメンすぎて近寄りがたかった?

当時、大奥の女中たちの中で毎年恒例のイベントがありました。

それは、豆まきのイベントの際、無礼講なのをいいことに、将軍側近などの男性陣の中から1人を「年男」として選び、その年男を簀巻きにしていたずらしていたのです。

田沼意次は、徳川家重の頃から将軍付きの小姓として、大奥の女中たちの目に触れる機会は非常に多かったはずです。

当然ターゲットにされているかと思いきや、一度も年男に選ばれたことがないのです。

その理由は、「あまりにイケメンすぎて、神々しくて近寄りがたかった」からでした。

田沼意次は、現代で言うアイドルのような存在だったのかもしれませんね。

田沼意次は徳川家治の側室にも気に入られていた?

田沼意次は、そのイケメンぶりから大奥の女中たちから非常にモテていました。

中でもすごいのが、第10代将軍・徳川家治の側室にも気に入られてしまっていたことです。

その側室とは、蓮光院という女性です。

この蓮光院は、なかなか正室との間に子供ができなかった徳川家治の長男を生んだ女性でした。

普通、自身が仕えている主人の側室に手を出したとなっては怒られてしまってもおかしくはありませんよね。

しかし、徳川家治は正室一筋の愛妻家で、本当は側室を持つことを嫌がっていました。

後継者を作るために渋々側室を持ったものの、子ができたからと蓮光院は政治にも介入してこようとしていたのです。

そんな時に、田沼意次が蓮光院とデキてしまったということは、徳川家治からしてみれば、蓮光院から離れられる良い口実となります。

田沼意次は、徳川家治から怒られるどころか、むしろ感謝されたのです。

さらに、田沼意次のことを大層気に入った蓮光院は、田沼意次の出世を後押ししました。

田沼意次のイケメンぶりは、将軍から感謝され、出世も成し遂げる、強い武器だったと言えるでしょう。

田沼意次は中身もイケメンだった?

田沼意次は外見が非常にイケメンすぎて、近寄りがたいほどでした。

しかし、モテていたのは外見が良かったからだけではありません。実は中身もイケメンだったのです。

ここでは、田沼意次の中身がイケメンなエピソードを簡単に解説していきます。

田沼意次は大奥の女中たちに贈り物をこまめに送っていた?

田沼意次が大奥の女中たちからモテていたのは、外見がよかったからというだけではありません。

田沼意次は、こまめに大奥の女中たちに贈り物を送っていたのです。

特に、先ほどもお伝えしたように、徳川家治の側室である蓮光院にも気に入られると、大奥中で田沼意次に反対するものはいなくなりました。

このような、こまめな気遣いができる人物であったため、大奥の女中たちは田沼意次に夢中になっていたのでしょう。

田沼意次は部下たちにも気遣いをしていた?

田沼意次は大奥の女中たちだけではなく、部下たちにも気遣いのできる人物でした。

ある寒い日、田沼意次は部下たちを引き連れて登城しようとしていました。

すると、部下たちがあまりの寒さに震えているのが目に入ります。

そこで、田沼意次は部下たちに酒を振る舞い、体を温めさせたのです。

さらに、酒を飲めない人のためには、別に暖かい食べ物も用意してくれたそうです。

このように、細かな気遣いのできるところが、田沼意次の中身もイケメンなところと言えるでしょう。

田沼意次は実は悪い人ではなかった?

田沼意次といえば、「賄賂政治」のせいで悪いイメージを持っている人が多いのではないでしょうか?

しかし、実際は悪い人ではなかったのではないかと考えられてきています。

ここでは、田沼意次が悪い人ではなかったとする説を簡単に解説していきます。

田沼意次のしたことは?

田沼意次は、老中として財政回復を狙った改革を行っていきました。

主にやったことは以下のとおりです。

  • 同業者同士の結成された組合である「株仲間」の奨励
  • 銅座、朝鮮人参座、枡座といった「座」を作って専売制を実施した
  • 運上・冥加と呼ばれる営業税・営業免除税を納入させた
  • 長崎貿易の制限を緩和
  • 対清貿易のための干し鮑やふかひれなどの産品開発
  • 鉱山の開発
  • 貨幣制度を統一するために、全国で使える「南鐐二朱銀」を大量に鋳造して流通させた
  • 蝦夷地の開発
  • 印旛沼の干拓

これらの改革を行った結果、貨幣経済が発展し、江戸の町は豊かになりました。

田沼意次の賄賂政治は黒ではなかった?

近年田沼意次の政治は黒ではなかったのではないかと、見直されてきています。

当時、賄賂は当たり前のことでした。

賄賂というと、聞こえが悪いかもしれませんが、誰かに頼み事をしに行く際、手ぶらではいけませんよね。そこで、人々は挨拶代わりに賄賂を持っていったわけです。

田沼意次は老中という立場上、非常に頼まれごとが多かったのでしょう。

彼の元には、彼の意思とは関係なくたくさんの賄賂が集まってきたのです。

また、失脚後、田沼意次は将軍に次のような内容の手紙を送ります。

「全ては自分のためではなく、老中として天下のために身を捧げた。自分は少しも偽りを行わなかった」

ここからもわかるように、田沼意次自身はずっと私腹を肥やすわけではなく、天下のために動いていたのです。

ちなみに、受け取った賄賂は、部下に酒やごちそうを振る舞うのに使っていました。

つまり、田沼意次は悪い人ではなかったというわけですね。

まとめ:田沼意次は外見も中身もイケメンであったことが出世した要因の1つだった

田沼意次は、周りが一目置くくらいのイケメンでした。さらに、周りの人間に気遣いのできる人物でもあったため、非常に大奥の女中たちにモテていました。

今回の内容をまとめると、

  • 田沼意次はイケメンで大奥の女中たちにモテていた
  • 田沼意次は、細やかな気遣いのできる人物だった
  • 田沼意次は、悪いイメージをもたれがちだが、実は悪い人ではなかった

外見も中身もイケメンということになると、非の打ち所がない完璧人間なイメージですよね。そうなると、やはり嫉妬する人もたくさん出てきたのでしょう。そういう人たちの嫉妬によって、田沼意次は悪い人というイメージを作り上げられたのかもしれませんね。

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