徳川慶喜の死因は風邪?死に際に残したすごい名言、墓所や葬儀などを解説
徳川慶喜は、徳川幕府の第15代征夷大将軍として、江戸時代の幕引き役を演じた最後の将軍です。77歳で亡くなった徳川慶喜は、徳川将軍の中で最も長生きした将軍でもあります。
日本最後の将軍の死因はどのようなものだったのでしょうか?
今回は徳川慶喜の死因、また亡くなる前に残した名言や、葬儀の場所や様子、墓所の場所なども解説していきます。
目次
徳川慶喜の死因は風邪?
徳川慶喜は、1913年(大正2年)11月22日、東京の私邸「小日向邸」で亡くなりました。享年77歳でした。
死因は、急性肺炎と言われています。
1913年(大正2年)11月5日に九男の徳川誠が男爵を授与されます。そのお礼をするために、徳川慶喜は風邪をおして宮中に行きますが、その無理がたたり肺炎へと悪化してしまったのです。
病床で苦しんでいる徳川慶喜でしたが、
「衰弱は覚えますが、苦しみは去りました。」
と医師に伝えたといわれています。
この苦しみとは、身体の事ではなく、鳥羽・伏見の戦いで負った「天皇に背く賊軍」とのレッテルの苦しみが、自身の公爵や勲章の授与や子どもの男爵授与によって回復されたことを指しているといわれています。
徳川慶喜の最後。徳川将軍家では最も長生きした
徳川慶喜は、徳川将軍家では最も長生きをした将軍でした。徳川慶喜の亡くなった場所や、亡くなる前に残した名言に注目していきます。
徳川慶喜はどこで亡くなった?
徳川慶喜が亡くなった場所は、現在の東京都文京区にある私邸「小日向邸」です。
徳川慶喜は、1901年(明治34年)から亡くなる1913年(大正2年)までを、この地で過ごしました。
現在は国際仏教学大学院大学の敷地となっており、構内には、小日向邸の1/200模型が展示されています。
徳川慶喜が死に際に残した名言
徳川慶喜が亡くなる前に残した名言の一つにこのようなものがあります。
「家康公は日本を治めるために幕府を開きましたが、私は幕府を葬り去るために将軍職に就いたのです。」
徳川慶喜の功績として代表的なのものは、「大政奉還」と「江戸城無血開城」と言えるでしょう。
大政奉還は、江戸幕府にあった政権を朝廷に返上する出来事のことです。
250年以上続いた江戸幕府の終焉は、大事件として大きな衝撃を周囲に与えましたが、これにより、討幕派は大義を失い、内戦の勃発を未然に防ぐことができたと言われています。
江戸城無血開城は、政治の中心であった江戸城を、戦わずに新政府に明け渡した出来事です。
江戸に進行してきた新政府軍に対し、徳川慶喜は話し合いの場を設けただけで、武力で戦うことなく江戸城を受け渡しました。これによって江戸は戦地になることなく、江戸の住人およそ100万人の命が救われました。
また鳥羽・伏見の戦いでは、「敵前逃亡した」といわれる徳川慶喜の行動により、戦意を失った旧幕府軍は解散したことで、多くの武士の命が救われただけでなく、外国が手を出す隙をあたえませんでした。
徳川家康の生まれ変わりともいわれた才能と器量を持っていた徳川慶喜は、長い間続いた江戸幕府を葬り、新時代を切り開くことが、自分の使命と感じていたのかもしれません。
徳川慶喜に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております。
徳川慶喜は徳川将軍の中で最も長生きした
77歳で亡くなった徳川慶喜は徳川将軍の中で、最も長生きをした人物です。
徳川将軍の中で長生きした人物は、徳川慶喜の他には誰がいたのかを見ていきましょう。
江戸幕府の征夷大将軍全15名を、長寿順に並べてみました。
【徳川将軍の長寿ランキング】
1位 77歳:徳川慶喜(15代将軍)
2位 75歳:徳川家康(初代将軍)
3位 69歳:徳川家斉(11代将軍)
4位 68歳:徳川吉宗(8代将軍)
5位 64歳:徳川綱吉(5代将軍)
6位 61歳:徳川家慶(12代将軍)
8位 51歳:徳川家宣(6代将軍)
9位 51歳:徳川家重(9代将軍)
10位 50歳:徳川家治(10代将軍)
11位 48歳:徳川家光(3代将軍)
12位 40歳:徳川家綱(4代将軍)
13位 35歳:徳川家定(13代将軍)
14位 21歳:徳川家茂(14代将軍)
15位 8歳:徳川家継(7代将軍)
初代将軍の徳川家康が、健康マニアだったことは有名ですので、75歳の長命だったことも納得です。
平均寿命が30~40歳と言われた江戸時代で、60代まで生きた将軍が4名もいたことは驚きですね。
徳川慶喜の葬儀や葬儀はどうだった?
徳川慶喜の葬儀はどのように行われたのでしょうか。徳川将軍経験者の葬儀としては異例づくめだったようです。
徳川慶喜の葬儀の様式や墓所に注目していきます。
徳川慶喜の葬儀は神式
徳川慶喜の葬儀は神式で行われました。徳川慶喜本人の希望だったと言われています。
遺言に従い、葬儀は上野の寛永寺裏手に新設された斎場で神式にて行われました。
かつての家臣だった渋沢栄一が葬儀委員長を務め、約6000人が参列して盛大に行われました。
その後、谷中霊園に神式の墓で葬られました。
上野から谷中までの葬列の沿道には、多くの民も集まり、徳川の最後の将軍の葬列を見送ったと言われています。
なぜ徳川慶喜は仏式ではなく、神式で行うことを希望したのでしょうか?
それは、天皇を敬う気持ちによるものでした。徳川慶喜は、一時は賊軍となった自分を許し、華族の最高位である「公爵」を与えてくれた天皇に感謝の意を表すため、自分の葬儀を神式で行うよう遺言を残したのです。
また、徳川慶喜の母は吉子女王で、慶喜にも皇族の血が流れています。そんな自分の最後を神式で行うように遺言を残したあたりが慶喜らしいですね。
徳川慶喜の墓所は徳川家の菩提寺ではない
徳川慶喜の墓所は、谷中墓地と称される区域の寛永寺墓地に存在しています。歴代徳川将軍の墓所がある寛永寺や増上寺ではありません。墓所の場所も、徳川慶喜の遺言に従ったものでした。
徳川慶喜は、歴代の徳川将軍たちが葬られた増上寺や寛永寺には、自分の墓所はたててほしくないと言っていたそうです。徳川慶喜の葬儀を神式で行ったのに伴い、お墓の形も一般皇族と同じような円墳型のものとなりました。
現在も谷中墓地には、徳川慶喜の円墳状のお墓が存在しています。
そして、彼の墓の隣には正妻の美香子の眠る円墳型のお墓と二人の側室の眠るお墓が存在しています。
まとめ:徳川慶喜の死因は風邪を拗らせた肺炎。最後は天皇を敬っての葬儀を行った
徳川幕府の最後の将軍である徳川慶喜の死因は、風邪をこじらせた急性肺炎であることがわかりました。
また、最後は天皇に感謝の気持ちを示すために神式の葬儀を行いました。
今回の内容をまとめると
- 徳川慶喜の死因は、風邪からの急性肺炎だった。
- 徳川慶喜は、東京の私邸で亡くなり、徳川将軍家では最も長生きした。
- 徳川慶喜の葬儀は神式で行われ、徳川家の菩提寺ではない谷中墓地にお墓がある。
江戸幕府の一番の権力者である将軍職でありながら、時代を見据え、鎌倉幕府が開かれてから675年にも及んだ武家による政治を、自らで終わらせる決断をした徳川慶喜の勇気は相当のものだったと思われます。
徳川慶喜の決断によって、その後の日本は外国の植民地になることなく、また徳川家も滅亡することなく、自身も天寿を全うできたのだと思います。徳川幕府を葬り去るという自分の使命を全うした人物なのですね。
徳川慶喜に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております。