徳川慶喜の年表|大政奉還後はどう過ごした?その生涯を簡単に解説!
徳川慶喜(1837~1913)は、江戸幕府最後の将軍として有名です。また徳川慶喜は、2021年放送の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、そして2024年から新1万円に描かれることになる渋沢栄一(1840~1931)との関わりもあるのです。
徳川慶喜はどのような人物だったのでしょうか?
今回は、徳川慶喜の年表を通してその生涯を簡単に解説していきます。また、大政奉還後はどう過ごしていたかや、死因についてもご紹介していきます。
目次
徳川慶喜の年表を簡単に解説
徳川慶喜はどのようなことをしたのでしょうか?江戸幕府最後の将軍ということを知っていても、その他は知らないという人は多いのではないでしょうか?まずは、年表を通して慶喜のしてきたことなどをおさえていきましょう。
徳川慶喜
生年:1837年〜1913年 (享年77歳)
生誕地:水戸藩(現在の茨城県)
父:徳川斉昭 | 母:吉子女王
正室:一条美賀子
側室:一色須賀、新村信、中根幸
徳川慶喜の年表
【徳川慶喜の年表】
1837年
徳川斉昭の7男として水戸藩で誕生
1847年
一橋家の養子となり、一橋慶喜と名乗るようになる
1857年
第13代将軍・徳川家定の有力世継ぎ候補となる
→このときは、慶喜派の人間の死により勢いを失い、徳川家茂が第14代将軍となる
1859年
安政の大獄により謹慎処分を受ける
1860年
安政の大獄の主導者の井伊直弼(1815~1860)が桜田門外の変によって暗殺され、謹慎解除される
1862年
文久の改革により第14代将軍・徳川家茂の将軍後見職に就任する
1864年
将軍後見職を辞任し、禁裏御守衛総督となる
禁門の変(蛤御門の変)にて活躍
※禁裏御守衛総督:江戸時代末期に幕府の了解のもと、朝廷によって禁裏(京都御所)を警護するために設置された役職
1866年
江戸幕府 第15代将軍に就任する
1867年
大政奉還し、政権を天皇に返上する
1868年
鳥羽・伏見の戦いにて江戸城を新政府側に明け渡し、その後上野寛永寺で謹慎する
1869年
謹慎解除され、静岡に居住
1910年
7男・慶久(よしひさ)に徳川慶喜家の家督を譲り隠居
1913年
急性肺炎にて死去(享年77歳)
徳川慶喜の生涯を簡単に解説
慶喜はどのような生涯を送ったのでしょうか?ここでは、徳川慶喜の生涯を簡単に解説していきます。
将来を嘱望され一橋家を相続
徳川斉昭の7男として生まれた慶喜は、幼少期水戸藩で暮らします。
それは、父である斉昭が尊敬する徳川光圀の教育方針
「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」
というものに則ったことに由来しています。
その間、慶喜は弘道館という藩校で学問・武術を学びます。
この頃から、慶喜の英邁さは注目され始め、父の斉昭も他家に養子には出さずに、長男の控えとして暫時手元に置いておこうと考えていたのです。
しかし、慶喜は将来を嘱望され12代将軍 徳川家慶の意向で一橋家に養子入りすることになります。
これは、慶喜が将来的に将軍候補になれるようにとの、家慶の格別な計らいでした。
元々、慶喜がいた水戸徳川家は徳川宗家から分家した「御三家」の中では、他の二家(尾張徳川家、紀伊徳川家)よりも家格が一段下の扱いでした。そのため、将軍家に世継ぎができず他家から迎え入れようとなっても、水戸徳川家にいたら将軍候補に上がることすらないのです。
つまり将軍候補になるためには、他の御三家か「御三卿」である田安家、清水家、一橋家に養子入りするしかありませんでした。
徳川家慶の子供は14人もいましたが、成人したのは四男の徳川家定のみ。家定は非常に病弱だったため、家慶は将軍家の将来を案じていたのでしょう。そこで、聡明な慶喜に注目したというわけです。
ちなみに、徳川慶喜の「慶」の字は、家慶が与えたものということからも、家慶がいかに慶喜に期待をしていたのかが伺えますね。
安政の大獄で謹慎処分
12代将軍・家慶が病死し、その後を徳川家定が跡を継ぎます。
しかし、家定は病弱で世継ぎを儲ける見込みがないため、将軍継嗣問題が浮上しました。
この時、2つの派閥に分かれて対立が始まります。
徳川慶喜を推す一橋派と、徳川慶福(1846~1866)(後の徳川家茂)を推す南紀派です。
対立している最中、一橋派の中心人物であった阿部正弘・島津斉彬が相次いで死去します。
その影響を受け、一橋派は勢いを失ってしまい、1858年(安政5年)に南紀派の中心人物だった井伊直弼が大老とり、将軍継嗣は徳川慶福となりました。
同年、井伊直弼は勅許を得ずに不平等条約である、日米修好通商条約を結んでしまいます。
それに対して、慶喜は斉昭・松平春嶽(松平慶永)らとともに井伊直弼を激しく問い詰めます。
その結果、井伊直弼によって慶喜は謹慎処分を言い渡されてしまうのです。(安政の大獄)
優れた政治手腕を発揮した
安政の大獄による謹慎は、1860年の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されるまで続きました。
井伊直弼の暗殺で謹慎解除された徳川慶喜は、幕府に将軍後見職に任命され幕政で活躍するようになります。
このときの幕政改革が文久の改革です。
具体的に行った主なことは、軍事改革、参勤交代の緩和、京都守護職の設置、洋学研究の推進等が挙げられます。
また、1863年(文久3年)には攘夷の実行について朝廷と話し合うため、将軍としては230年ぶりに徳川家茂が上洛することになります。その際、慶喜は先駆けて上洛し、将軍の名代として朝廷との交渉にあたるということもありました。
さらに、1864年(元治元年)に将軍後見職を辞任し、京都御所を守衛する禁裏御守衛総督に就任します。
同年に起きた禁門の変では、徳川慶喜は自ら戦場へ出向き御所守備軍を指揮し、長州藩の撃退成功に助力しています。
江戸幕府最後の将軍。大政奉還を上表して政権を返上
1866年に徳川家茂が病死し、徳川慶喜が15代将軍に就任します。
この際、幕府は倒幕派であった長州藩や薩摩藩に攻められ、すでに瀕死の状態でした。
そこで徳川慶喜は大政奉還を上表し、政権を朝廷に返上することにします。
この大政奉還の狙いはいくつかありました。
・倒幕派の大義を失わせること
倒幕対象を消滅させることによって、幕府への攻撃をやめさせようとした
・実質的な政治は徳川家が引き続き行うこと
朝廷に政権を返上しても、慣れていない朝廷に全国統治をするような政治能力はありません。そのため、引き続き徳川家が実質的な政治を行うことができるだろうと考えたのです。
・日本での大きな内乱は避けるという狙い
当時、長州・薩摩藩のバックにはイギリスが、徳川幕府のバックにはフランスがついていました。そのため、一度内乱が起きれば、それぞれに武器を売るイギリスとフランスの代理戦争となり、最終的に日本の領土は勝者の植民地にされるだろうと恐れていたのです。
このように、様々な狙いのもと徳川慶喜は大政奉還を行うことで、様々な武力衝突を避けようとしました。
そして、この大政奉還が行われたことによって、鎌倉幕府から約680年間続いた武家政権が終わりを迎えるのです。
徳川慶喜はどんな人だった?
徳川慶喜はどのような人物だったのでしょうか?
徳川慶喜は、昔は戦いに破れて逃げた臆病者扱いされていましたが、近年ではその評価が見直されてきているのです。何故評価が変わったのでしょうか?
徳川慶喜は幕府の将来を見通していた?
江戸幕府15代将軍となった徳川慶喜でしたが、元々はあまり将軍になることに対して乗り気ではありませんでした。その証に、将軍継嗣問題の際、将軍に選ばれなかったことを受けて、
「骨が折れる将軍になって失敗するより、最初から将軍にならなくてよかった」
という手紙を父である徳川斉昭に送っています。
しかし、14代将軍・家茂が死去後、再び慶喜を将軍にという話が持ち上がります。
その際慶喜は
「将軍にはなりたくないが、このまま徳川の力がなくなっていくのも見ていられない。今一度徳川の力を取り戻す」
という思いから将軍職を引き受けることにします。
このことから、慶喜は自分が改革に乗り出さねば、幕府は終わりを迎えてしまうと考えていたことが伺えます。
大政奉還を行うことにより、幕府は確かに終わりを迎えるのですが、徳川が実質的な政権は持てるだろうと踏んでいたことなどからも、まだまだ徳川が権力を持った世を維持しようとしていたのでしょう。
また、慶喜は江戸の民を非常に大事にしていました。
薩長軍との戦いは劣勢となり、その際家臣から友好関係にあったフランス軍に支援をしてもらおうという提案をされました。しかし、徳川慶喜はこれを拒否。フランス軍の力を借りれば勝てるかもしれないが、戦火は免れず多くの死者を出してしまうだろうと考えたからです。
そのため、慶喜は負けを認めて、江戸城を明け渡すことにします。(江戸城無血開城)
江戸の民・100万人の命を守るために、慶喜は256年続いた江戸幕府の滅亡を受け入れたのです。
この決断を理由に、逆賊とまで言われるほどの悪評を残すことになってしまいます。しかし、この決断があったからこそ、江戸の民は守られたのです。
幕臣として慶喜に仕えていた渋沢栄一は、自信が編纂した「徳川慶喜公伝」において、
「慶喜公の名誉を回復しなければならない」
「侮辱されても国のために命を持って顧みざる偉大なる精神の持ち主」
と、最高の敬意を払っています。
このようなことから、慶喜の聡明さなどが取り上げられ、近年の研究ではその評価が見直されてきているのです。
徳川慶喜は皇族の血を引いていた
慶喜の母親は吉子女王という人です。この人は有栖川宮織仁親王の第12王女となります。
つまり、皇族なのです。当然、その吉子女王から生まれてきているのですから、慶喜は皇族の血を引いていたということになります。
徳川慶喜の晩年
大政奉還をして政権を天皇に返上した徳川慶喜。家督も譲った晩年、慶喜は何をして暮らしていたのでしょうか?
ここでは、慶喜の晩年について解説していきます。慶喜の死因や墓所についても合わせてご紹介します。
静岡での隠居生活で趣味に没頭していた
将軍を退いた徳川慶喜は、静岡で悠々自適の隠居生活を送っていました。
本当に多くの趣味を持っていて、そのどれもに没頭していたようです。インドアとしては、油絵、囲碁将棋、能楽、小鼓、手芸。アウトドアとしては、狩猟、釣り、鷹狩、馬術、自転車などが挙げられます。
特にハマっていたのが写真撮影です。
しかし、写真雑誌に投稿しても評価はされないという、下手の横好きだったようです。
また、地元の人たちからの信頼も厚く、慶喜の字を音読みにした「ケイキ様」と呼ばれて親しまれていました。
その一方で、旧幕臣が訪問しても、渋沢栄一など一部の人以外とはほとんど会わなかったそうです。隠居後は、一切政治ごとと関わりたくないという意思表示だったのかもしれません。
徳川慶喜の死因は病死?
徳川慶喜は、「豚一殿」(豚一の「一」は一橋の「一」)と呼ばれるほどの大の豚肉好きでした。
明治維新の頃はまだ獣肉を食べる人が少なかったのですが、そのようなことは気にせずに横浜の港が開放されると、真っ先に豚肉を取り寄せていたようです。「豚肉を送って」という手紙まで残っています。
豚肉はビタミンB1の含有量が多く、タンパク質も良質で、疲労回復や美容にいいことで知られています。そのため、徳川慶喜は長く健康体でいることができたのかもしれません。
しかし、1913年に急性肺炎のため死去。
享年77歳と、徳川歴代将軍の中では、最も長命となりました。
なお、葬儀は渋沢栄一が委員長を務めて執り行われたそうです。
徳川慶喜の死因に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。
徳川慶喜の墓所
慶喜の墓所は、桜の名所として知られている谷中霊園にあります。
徳川氏の墓は、基本的には寛永寺墓地にあるのですが、慶喜は神道式の埋葬を希望していたため寛永寺墓地内にないそうです。
徳川慶喜の墓の横には、正室の徳川美賀子の墓が、後ろには側室である中根幸と新村信の墓が存在しています。
まとめ:徳川慶喜は江戸幕府最後の将軍、隠居後は趣味に没頭した余生を送った
徳川慶喜は聡明で、幼少期から周りに注目されていた人物であったことがわかりました。隠居後は、趣味に没頭して自由に暮らしていたのでしょう。
今回の内容をまとめると、
- 徳川慶喜はその聡明さを買われて、一橋家に養子入りすることになった
- 将軍後見職に就任後、その優れた政治手腕を発揮
- 15代将軍に就任するが、その後大政奉還にて政権を朝廷に返上する
- 薩長軍との戦いにおいて、江戸城無血開城を行う
- 逆賊とまで言われるほどの悪評を受けていたが、近年の研究ではその評価も見直されてきている
- 隠居後は趣味に没頭した余生を送った
- 特にハマっていたのは写真撮影だが、その腕は賛否両論
聡明な徳川慶喜であれば、悪評が上がってしまうことはわかっていたはずなのに、江戸城無血開城を選択する勇気は本当にすごいですよね。それほどまでに、江戸の民を守りたかったという意思が強かったのでしょう。
渋沢栄一が名誉を回復しなければならないと言った気持ちもわかるというものですね。