伊達政宗の死因は何?遅れてきた英雄の最後の姿は武士道の精神に溢れていた!

伊達伊達政宗の死因は何?遅れてきた英雄の最後の姿は武士道の精神に溢れていた!

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戦国時代の後期から江戸時代にかけて活躍した伊達政宗。
伊達政宗は、「あと10年早く生まれていたら、天下人となっていたのは伊達政宗だったかもしれない。」と言われる程の胆力とカリスマ性の持ち主です。
今回は、「遅れてきた英雄」とも呼ばれる伊達政宗の死因はなんだったのか?最後の姿はどのようなものだったのでしょうかを見ていきます。

伊達政宗の死因は何?

伊達政宗は、1636年(寛永13年)5月24日の早朝に江戸の伊達家の屋敷で亡くなりました。享年70歳です。
伊達政宗の死因は、病死とされています。伊達政宗が亡くなる前の様子から、病名も考えていきましょう。

伊達政宗の死因は、癌性腹膜炎か食道癌だった?

伊達政宗は、亡くなる2年程前から体調を崩していたとの記録が残っています。
急死ではなかったことから、進行性の病気を患っていた可能性が考えられます。

症状は、食欲不振と物が飲み込みにくくなる症状が見られたようで、亡くなる直前には、お腹が膨らみ苦しそうだったと言われています。現代の病名で腹水といわれるものと思われます。
亡くなる直前まで、意識は混濁することなく、会話ができていたそうです。

このような症状に当てはまる病名はどのようなものがあるのでしょうか。

進行性の病気であることや、腹水などの症状から、癌であったのではと考えられています。ものが飲み込みにくくなったという症状から、「食道がん」が考えられます。または「癌性の腹膜炎」の可能性もあります。
また、癌は転移する病気でもありますので、食道がんと癌性の腹膜炎が併発してしまっていたとも考えられます。
いずれにせよ、苦しい闘病生活だったのではないでしょうか。

伊達政宗の最後の姿

伊達政宗は、亡くなる年の1636年(寛永13年)に、辞世の句を詠み、埋葬する場所を家臣らに指示するなどの行動を見せています。江戸への出立も予定よりも早めことから、自らの死期を悟っていたのかもしれません。

伊達政宗の辞世の句

伊達政宗の辞世の句は、

「曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照してぞ行く」
現代訳:
暗闇の中を月の光を頼りに道を進むように、戦国の乱世を自分の信念(心の月)を頼りに、生き抜いた一生でした。

幼少期に目を患い隻眼となるも、東北の覇者となり、豊臣家や徳川家との綱渡り的な外交を強いられつつも、地元に愛される領主として自領の発展に尽力した伊達政宗らしい一句です。
また、この句は和歌としても高く評価されており、教養人としての伊達政宗の姿も感じることができます。

伊達政宗の死で、20名の家臣も殉死した

伊達政宗が亡くなった際、家臣15名が主君の後を追って切腹したといわれています。
病死した主君の後を追って追腹を切る行為は、当時でも認められていませんでした。
伊達政宗が亡くなった際も、江戸幕府3代将軍の徳川家光とくがわいえみつは殉死しないようにと、仙台の家臣たちに通達ししましたが、仙台藩の家臣たちの強い希望により特例として認められたそうです。

伊達政宗の廟所の隣には、殉死した直臣15名と、又殉死(殉死した直臣に殉死)した家臣5名の20名の供養塔がたっています。伊達政宗は、多くの家臣たちに慕われていたのですね。

伊達政宗の墓はどこにある?

伊達政宗のお墓は、現代の宮城県仙台市の瑞鳳殿ずいほうでんというところにあります。

伊達政宗は亡くなる前、江戸へ出発する際に経ヶ峯でホトトギスの声を聞き惚れ、自分の死後はここに埋葬するようにと言い残しました。

伊達政宗が亡くなった翌年、遺言通りに経ヶ峯の東部にお墓は建立され「瑞鳳殿」と命名されました。
この瑞鳳殿は、第二次世界大戦の仙台空襲で全焼失してしまいましたが、昭和後期に再建され元の豪華な姿を現代でも見ることができます。
ちなみにこの瑞鳳殿は伊達政宗にあやかって、仕事運と人間関係向上のパワースポットとしても有名です。

伊達政宗の最後の姿は、武田信玄や豊臣秀吉とも共通点があった

伊達政宗は、家の存続を重要と考え行動しています。
これは、武田信玄や豊臣秀吉の最後の姿とも共通している部分が多くあります。

武田信玄は、自分の死を3年間隠せと命じた

戦国最強の武将ともいわれる武田信玄は、遺言で
「自分の死を三年は隠して喪に服さないように。」
と息子の武田勝頼に命じています。

強い武将のイメージを広く浸透させることに成功した武田信玄は、自分の存在感をできるだけ長引かせることで、武田家を守ろうとしたのです。
武田信玄は、自分の死を三年間のらりくらと戦いを交わせば、宿敵上杉謙信も老衰し、武田家の滅亡はのがれられるのではないかと考えていたと言われています。
天下は織田信長が取るだろうと予想していたとの記録も残っており、天下を取ることよりも家の存続を大切にしていたことが伺えます。

豊臣秀吉は、最後まで豊臣家の存続を願っていた

豊臣秀吉は、亡くなる前に三通もの遺言書を複数の家臣たちに残しています。
その遺言書では、わずか六歳で家督を継ぐことになる息子、「豊臣秀頼とよとみひでよりをくれぐれもよろしく頼む」 と繰り返し懇願しています。

遺言書の中で天下は徳川家康が欲しがれば渡してよいとも言っており、豊臣秀吉もまた、天下人としての地位よりも家の存続を、最後まで願っていました。

伊達政宗は死に様を誰にも見せなかった

伊達政宗の人生もまた、伊達家を存続させるべく、奔走した人生でした。
豊臣秀吉の小田原討伐の際は、ギリギリのタイミングで豊臣秀吉の傘下に入り討伐対象となるのを回避し、関ケ原の戦いでは東軍に付き、徳川家に三代にわたり仕えました。

そんな伊達政宗が最後に気にしたことは、正室 愛姫めごひめのことだったのです。

伊達政宗は江戸の伊達家で亡くなりましたが、愛姫は同じ屋敷内に居たにも関わらず亡くなるまで一度も伊達政宗と面会できませんでした。

愛姫は、「見舞いに行きたい」「会いたい」と何度も懇願しましたが、伊達政宗は「病気で弱った姿をあなたには見せたくのです」と断ったといわれています。

そして、愛姫に対して高級なお香や巻物といった贈り物と「2、3日後には会って話すから、今回これで我慢してくださいね。」との手紙を送っています。
手紙を送った日付は亡くなる前日となっています。
病状は進行し、伊達政宗も相当辛い思いをしていたはずです。本当に2、3日で自分が回復すると考えていたとは思えません。
伊達政宗は、愛する妻の思い出の中では、変わらぬ凛々しい姿でありつづけたかったのではないでしょうか。
体調がどんなに辛くても、妻へ格好をつけ続ける伊達政宗の行動は、男の美学といえるのかもしれません。

まとめ:伊達政宗の死因は病死。その最後は男の美学が詰まっていた

伊達政宗の死因は病死と考えられています。病名は、症状から「癌性腹膜炎」か「食道癌」が有力です。
伊達政宗は亡くなる際に、正妻の愛姫に衰弱した自分の姿をみせない配慮をしました。男の美学が詰まった行動だったのかもしれませんが、愛姫的にはどうだったのでしょうか。どんな姿であっても愛する人には会いたかったのではないかなと思いを馳せてしまいます。
今回の内容をまとめると、

  • 伊達政宗の病死で、病名は腹膜炎か食道癌だった可能性が高い。
  • 伊達政宗が亡くなった際、家臣が20名も殉死した。
  • 伊達政宗は最後の姿を妻にも見せなかった。

ちなみに、伊達政宗の17回忌に愛姫が制作させた伊達政宗の木像は「殿の本当の姿をのこしておきたい」との思いから、隻眼の姿でつくられています。伊達政宗の遺言に従って両目を入れられていた肖像画や像が多い中で、伊達政宗の面影を伝える貴重な史料となっています。

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