徳川慶喜の子孫の現在も続いている?家系図をもとに簡単に解説!
徳川慶喜は、江戸幕府 第15代征夷大将軍です。大政奉還を上表し約260年続いた江戸幕府を終わらせた、最後の将軍でもあります。
江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜には何人子供がいたのでしょうか?また、その子孫は現在も続いているのでしょうか?今回は、徳川慶喜の家系図をもとに、その子孫は現代にも続いているのかを徹底解説をしていきます。
徳川慶喜の生涯については、こちらの記事で詳しく解説しています。
>>徳川慶喜の年表|大政奉還後はどう過ごした?その生涯を簡単に解説!>>
目次
徳川慶喜の家系図
まずは徳川慶喜の家系図を見ていきましょう。
徳川慶喜の母親は有栖川宮家の吉子女王
母の”吉子女王”は有栖川宮第6代当主・有栖川宮織仁親王の末娘であり皇族です。
吉子女王の兄弟は、皇族はもちろんのこと、将軍や有力な大名に嫁いでいます。
徳川慶喜の母”吉子”の両親、兄弟を見ていきましょう。
【吉子女王の両親】
父:有栖川宮織仁親王(有栖川宮第6代当主)
母:家女房の安藤清子
【吉子女王の兄弟】
兄:宮韶仁親王 (有栖川宮第7代当主)
兄:尊超入道親王
姉 喬子女王(浄観院、江戸幕府第12代将軍 徳川家慶正室)
姉:織子女王(広島藩主・浅野斉賢正室)
姉:幸子女王(長州藩主・毛利斉房正室)
江戸時代の皇族である、有栖川宮織仁親王(有栖川宮第6代当主)は、徳川慶喜の祖父にあたり、当然、慶喜には皇族の血が流れています。
江戸幕府最後の将軍には、皇族の血が流れているなんてなんだか複雑ですね。
徳川慶喜に子供は何人いた?
徳川慶喜は、正室の一条美賀子の他に、新村信と中根幸という側室がおり、死産を含めると10男11女合わせて21人の子供がいたと言われています。
しかし、人数についてはもっと多かったという説もあり、実際に記録として名前が残っているのが次の14人です。
【徳川慶喜と一条美賀子との子供】
・女子:1858年(安政5年)~1858年(安政5年)
※生後わずか4日で夭折
【徳川慶喜と側室の新村信との子供】
・鏡子(長女):1873年(明治6年)6月2日~1893年(明治26)年9月29日
※徳川達孝夫人。四女をもうけたが、21歳で病死した
・鉄子(三女):1875年(明治8年)~死没年不明
※徳川達道夫人。
・池田仲博(五男):1877年(明治10年)8月28日~1948年(昭和23年)1月1日
※旧因幡国鳥取藩主家池田氏第16代当主
従兄にあたる池田輝知が跡取りを残さず死去したため、池田輝知の次女と結婚し婿養子として池田早老爵家を相続。
・経子(九女):1882年(明治15年)9月23日~1939年(昭和14年)8月18日
※伏見宮博恭王妃
・徳川慶久(七男):1884年(明治17年)9月2日~1922年(大正11年)1月22日
※ 貴族院議員・徳川慶喜家2代目当主
・英子(十一女):1887年(明治20年)~死没年不明
※徳川圀順夫人
・勝精(十男):1888年(明治21年)8月23日~1932年(昭和7年)7月10日
※ 実業家。1892年に”勝小鹿”の養子になる
【徳川慶喜と側室の中根幸との子供】
・徳川厚(四男):1874年(明治7年)9月2日~1930年(昭和5年)6月12日
※実業家、政治家。分家して徳川厚家を創設
・筆子(四女):1876年(明治9年)7月17日~1907年(明治40年)11月30日
※蜂須賀正韶夫人
・浪子(七女):1880年(明治13年)~死没年不明
※松平斉夫人
・国子(十女):1882年(明治15年)死没年不明
※大河内輝耕夫人
・糸子(十一女):1883年(明治16年)~死没年不明
※四条隆愛夫人
・徳川誠(九男):1887年(明治20年)10月31日~1968年(昭和43年)11月11日
※実業家、政治家。分家して、徳川誠家創設
徳川慶喜家の家督を継いだ徳川慶久
徳川慶喜は分家して”徳川慶喜家”を創設しました。その徳川慶喜家の2代目を継いだのが、徳川慶喜と側室の間に生まれた七男の徳川慶久です。
徳川慶久の幼名は久でしたが、徳川慶喜家を継承するにあたり1902年(昭和35年)6月6日に慶久としました。
徳川慶久は、柔道や碁、乗馬やゴルフなど、何をやっても才能があり、頭脳明晰で性格も良かったと言われています。また、二枚目で華族の女子からも人気があったそうです。
徳川慶久の妻は有栖川宮威仁親王の第二王女 實枝子、一男四女をもうけました。
徳川慶久は、貴族院議員、第一銀行取締役などを歴任するなど、明治時代以降も活躍しています。
1922年(大正11年)1月22日に、本邸で急死。眠れないまま飲んだ薬の量を間違えたことによる過失死だったと言われています。
徳川慶久さんが亡くなり、徳川慶喜家3代目を継いだのが慶久の息子の徳川慶光さんです。
そして、徳川慶光亡き後を継いだのが、徳川慶光の息子の4代当主 徳川慶朝さんになります。
徳川慶喜の孫の喜久子様は皇室へ嫁いだ
徳川喜久子は徳川慶久の次女で、徳川慶喜の孫にあたります。
徳川喜久子:1911年(明治44年)12月26日〜2004年(平成16年)12月18日。
昭和5年2月4日(1930年)、18歳で大正天皇の第3皇男子”高松宮宣仁親王”と結婚しました。
喜久子の母、實枝子は有栖川宮威仁親王の最後の王女である實枝子王女です。
他の兄弟は夭逝しているため、1913年(大正2年)より高松宮宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承しました。
喜久子と高松宮宣仁親王との間には子供はおらず、高松宮は喜久子の代で廃絶、有栖川宮の血統も途絶えることになりました。
大政奉還で、天皇へ政権を戻した最後の将軍 徳川慶喜から続く子孫が、皇室へ嫁いでいるというのも何か因縁めいたものを感じますね。
徳川慶喜の子孫の現在は?
徳川慶喜の子孫は、現在どうなっているのでしょうか?
徳川慶喜は、側室との間に多くの子供をもうけていますが、徳川慶喜家”の家督は徳川慶久さんが継ぎました。
徳川慶喜の他の子供達は早世したり養子、分家をしています。
徳川慶喜家の家督は、息子の慶久から孫の徳川慶光へ、そして徳川慶喜のひ孫にあたる徳川慶朝さんと続きましたが、徳川慶朝さんを最後に徳川慶喜の子孫は途残念ながら絶えてしまっているようです。
徳川慶喜家の最後の当主はカメラマンの徳川慶朝さん
徳川慶喜家の最後の当主と言われているのが、徳川慶朝さんです。
徳川慶朝さんは、徳川慶喜のひ孫にあたり、旧公爵徳川慶喜家の4代目当主になります。
徳川慶朝:1950年(昭和25年)2月1日〜2017年(平成29年)9月25日
カメラマンとして本田技研工業グループ傘下の広告制作会社に勤務し、独立後はフリーの写真家として主に徳川家伝来の遺跡や歴史的建造物を中心に撮影していたといいます。
徳川慶喜家に秘蔵されていた写真を修正・保存・整理も行っており、その中には徳川慶喜が撮影した写真も含まれていいます。
また、徳川慶朝さんはコーヒー好きでも知られており、自ら焙煎したコーヒー豆を徳川将軍珈琲という名で販売するなど、コーヒー研究家でもありました。
*徳川将軍珈琲は、現在もネット通販での購入が可能です。
徳川慶朝さんは、昭和50年代に結婚したが、その後離婚しています。
元妻との間に二男一女をもうけましたが、3人とも元妻が引き取っているので徳川姓ではなくなりました。
義朝さんの次男は母方の実家を相続しています。
このため、慶朝さんの死去によって徳川慶喜家の嫡流は完全に断絶してしまったことになり、慶朝さんが徳川慶喜家最後の当主となりました。
まとめ:徳川慶喜の子孫は現在は断絶したが、その血脈は続いている
江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜には21人もの子供がいました。徳川慶喜は徳川慶喜家を創設し、ひ孫の徳川慶朝さんに受け継がれましたが、残念ながらその徳川慶喜家は断絶してしまいました。
今回の内容をまとめると、
- 徳川慶喜には10男11女、合わせて21人の子がいたが、早世や養子に出したり分家するなどした
- 徳川慶喜家の2代目は、徳川慶喜の七男の徳川慶久が継いだ
- 平成29年9月25日(2017年)、徳川慶喜のひ孫にあたる徳川慶朝さんの死去により、徳川慶喜家は断絶した
徳川慶朝さんには3人のお子様がいました。
離婚して徳川家を離れていますが、徳川慶喜の血脈を受け継いでいることには変わりありません。
現在、お子様の情報は分からないため、跡継ぎがいらっしゃるかは不明です。
徳川慶喜家は完全に途絶えてしまいましたが、慶朝さんの血筋を受け継いだ子孫が存在すれば、まだ血脈は続いているのかもしれませんね。
徳川慶喜の生涯については、こちらの記事で詳しく解説しています。
井手久美子さんがいらっしゃるでしょ。
ご指摘ありがとうございます!
井出久美子さんも追記させていただきたいと思います♪
別の同種のブログでは慶朝さんの子供3人が名前入りで出て居ました。
3人の子供、と言っても長男は40歳位では無いですかね、の内、二人の男は未だ独身。女子は結婚していますが、子無し、と理解しています。
返信が遅く、申し訳ありませんm(_ _)m
別のブログでは、名前入りだったんですね〜
貴重なアドバイスありがとうございます♪