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徳川慶喜の評価はなぜわかれる?すごい人だった?主な功績は?性格は?

徳川慶喜の評価はなぜわかれる?すごい人だった?主な功績は?性格は?

徳川慶喜(1837~1913)といえば、江戸幕府最後の将軍として知られています。
昨今では、大人気アプリゲームの『モンスターストライク(モンスト)』にキャラクターとして登場したり、大河ドラマ『青天を衝け』では、草なぎ剛さんが演じることで話題になるなど、幅広い世代の人に認知されてきています。

この慶喜なのですが、実は評価が人によってわかれているのです。それは一体何故なのでしょうか?この記事では、慶喜の功績や性格などを紹介していきながら、その理由を解説していきます。

徳川慶喜の評価は良い?悪い?なぜ評価がわかれる?

徳川慶喜は、人によって良い評価になったり、悪い評価になったりします。それは何故なのでしょうか?それの主な理由を解説していきます。

徳川慶喜の評価をわける原因は、鳥羽伏見の戦い

徳川慶喜の評価を分ける大きな原因は、1868年の鳥羽伏見の戦いにあります。
この戦いにおいて、徳川慶喜を総大将とする旧幕府軍は、新政府樹立を目指す薩摩・長州藩と対立していました。

この時、慶喜は「風邪をひいた」と言って仮病を使い、大阪城から動きませんでした。
それどころか、兵たちには「最後の一兵になるまで戦え!」と命じておきながら、自分は側近を連れて船で江戸まで逃亡してしまうのです。

その後、徳川慶喜を朝廷の敵とする追討令が正式に下っても、慶喜は朝廷に恭順の意を示しました。
これらのことは、旧幕府軍の兵からしてみたら「裏切り者」なわけです。このことから「他人を人とも思わぬ自己保身に長けた臆病者」というのが徳川慶喜の評価でした。

徳川慶喜の評価が近年上がっている理由は?

当時、江戸には100万人もの民が暮らしていました。鳥羽伏見の戦いで、もし徳川慶喜が徹底抗戦を選んでいたら、間違いなく徳川家の城がある江戸は火の海と化していたことでしょう。そうなってしまったら、100万人もの民の命が危なかったのです。

また、この時の日本は欧米列強の脅威にも晒されていて、いつ乗っ取られてもおかしくないような状況でした。そのような中で、国内で争っている場合ではないと徳川慶喜は考えたのでしょう。
「自分が裏切り者の汚名を着せられてでも日本国民を守った」という点が、近年徳川慶喜の評価が上がってきている主な要因です。

徳川慶喜のことを評価している渋沢栄一

2021年大河ドラマ「青天を衝け」の主人公で、新紙幣の一万円の図柄に選ばれたことでも有名な渋沢栄一(1840~1931)は、実は徳川慶喜の幕臣でした。
その渋沢栄一は、「慶喜公の名誉を回復しなければならない」と評していたようです。

実際に、渋沢栄一が編纂した「徳川慶喜公伝」では、
「徳川慶喜は侮辱されても国のために命を持って顧みざる偉大なる精神の持ち主」
と、最高の敬意で締めくくられているのです。

徳川慶喜のすごい功績

慶喜は実際どのようなことを行ったのでしょうか?ここでは、慶喜の主な功績を解説していきます。

徳川慶喜の功績1|江戸幕府最後の将軍となった

実は、徳川慶喜は将軍になりたくないと思っていました。
その証拠に、14代将軍の候補に上がっていたにもかかわらず選ばれなかった慶喜は、父親である斉昭に「骨が折れる将軍になって失敗するより、最初から将軍にならなくてよかった」という旨の手紙を送っていたのです。

しかし、14代将軍・徳川家茂が死去後、再び慶喜を将軍にという話が持ち上がります。
この際、幕府は薩長軍に攻められ、最大の危機を迎えていました。
どう考えても大変なときに、どうして慶喜は将軍を引き受けたのでしょうか?

それは、「将軍にはなりたくないが、このまま徳川の力がなくなっていくのも見ていられない」という慶喜の思いがあったからです。「今一度徳川の力を取り戻す」という信念のもと、慶喜は江戸幕府最後の将軍となりました。

徳川慶喜の功績2|大政奉還

徳川慶喜といえば、大政奉還をした人と覚えている人が多いのではないでしょうか?
これも慶喜を語る上で欠かせない功績ですね。慶喜は大政奉還をすることによって、政権を朝廷に返上しました。
そして、幕府は解体されます。
これだけを聞くと、幕府にとっては裏切り者ではないかと思うかもしれません。

しかし、この大政奉還にはいくつかの狙いがあったのです。
まず、当時は薩長藩の倒幕の動きが大きくなっていました。そのため、このままでは大きな内乱が起きると慶喜は考えます。そこで、その倒幕対象である幕府を先手を打って消滅させて、倒幕の大義を失わせようとしたのです。

また、朝廷に政権を返したとしても、長年全国統治のための政治をしてこなかった朝廷にそのノウハウはなく、引き続き徳川家が実質的な政治を行うことになるだろうと慶喜は踏んでいました。

このように、大政奉還をすることは、国内の内乱をおさえ、徳川家の権威を保つために有効な手段であったと言えるのです。このことから、慶喜の聡明さが伺えますね。

徳川慶喜の功績3|江戸城無血開城

ここも徳川慶喜の評価が分かれる功績なのですが、慶喜は戊辰戦争の際、新政府軍である薩長藩に対して、抵抗することもなく江戸城を明け渡します。(江戸城無血開城)

この際、慶喜の家臣は当時友好関係にあったフランス軍からの支援を提案していました。
しかし、慶喜はこれを拒否します。フランス軍の力を借りれば確かに薩長に勝てるかもしれないけれど、戦火は免れず、江戸の町は炎に包まれ、多くの死者を出してしまうと考えたからです。

また、徳川家にフランス軍がついていたように、新政府軍にもイギリスがバックについていました。
つまり、このまま戦いが始まれば、それぞれに武器を売るフランスとイギリスの代理戦争となり、最終的に日本の領土は勝者の植民地にされてしまうかもしれない恐れがあったのです。日本を占領しようとしている欧米列強の思い通りにはさせないという狙いもあったのでしょう。

江戸100万人の民の命を守るために、慶喜は負けを認めて江戸城を明け渡すことに決めました。この決断のために、慶喜は逆賊とまで言われるほどの悪評を残すことになります。しかし、近年の研究ではこの決断こそが日本を守る結果に繋がったとして、慶喜の評価を見直すことになってきたのです。

徳川慶喜の性格はどうだった?

非常に聡明な人物であったことが伺える徳川慶喜ですが、実際の性格はどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、慶喜の性格が垣間見えるエピソードをご紹介していきます。

徳川慶喜は女性には好かれていなかった?

実は慶喜は女性に好かれていなかったという話があります。その主な理由は「勝手ばかり言う」から。

具体的な例を挙げていくと、まずは大奥の経費削減が挙げられます。
1862年には45万両ほど使われていた大奥の経費ですが、慶喜就任後の1866年には17万両まで削減されています。これでは、大奥の女性たちから反感を買うことは目に見えていますよね。

また、慶喜本人は将軍在職中一度も畿内を離れることがなかったので、将軍として江戸城に入城したことがありませんでした。そのため、大奥も当然未体験。それなのに、経費は削減した上に、正室の美香君を大奥の一角に住まわせようとしたりしていたのですから、大奥の女性たちは納得いくわけがありません。

次に挙げられるのは、大政奉還です。
これを信じられない思いで見ていたのが、13代将軍徳川家定の正室 篤姫あつひめと14代将軍徳川家茂の正室 和宮かずのみやです。
この2人は、実家が倒幕の原動力となってしまったが故に、将軍の未亡人としての余生を余儀なくされました。そのため、幕府がなくなることは許せなかったのです。

「長年続いてきた幕府を解体しようとしているのに、慶喜はこの先も実質的な政治を続けられればそれでいいと考えている」と思ったのでしょう。
しかし、勝手ばかりする慶喜がどうなろうが知ったことではないですが、「徳川家のため」に2人は慶喜の助命嘆願をそれぞれ薩摩藩と朝廷に対して行います。

せっかく助命までしたのに、慶喜ときたら引退しておとなしくするどころか、趣味に没頭して活き活きとしだすものですから、2人の気持ちはなんとも言えないものであっただろうと容易に予測が付きますね。

このように、慶喜の決断に振り回されたくないという女性が多かったため、女性からの人気があまりなかったのかもしれません。

徳川慶喜は空気が読めない人だった?

慶喜が空気が読めない人だったという話もあります。
慶喜は長州征伐の真っ只中だったタイミングで将軍になりました。そのため、「長州討つべし!」と自ら先頭に立って推し進めていました。

しかし、一度敗戦するとあえなく立場を軟化。そして、休戦に持ち込もうと、交渉役として勝海舟(1823~1899)を長州藩に送り込むのです。
結果として、海舟はなんとか長州藩をなだめることに成功します。
しかし、このとき裏で慶喜は朝廷を取り込み、「長州解兵命令」を発令させます。

海舟からしてみると、憤っていた長州をなんとかなだめたことが全くの水の泡になったばかりでなく、単なる時間稼ぎとして利用されていたわけですから、当然怒りますが、勝海舟も大人ですから、このときはなんとか耐え忍びます。

その後、鳥羽伏見の戦いでは、徳川慶喜は家臣たちに「最後の一兵になるまで戦え!」と命じていたにも関わらず、自身はこっそりと江戸に脱出します。
そして、敗戦がわかっていた慶喜は、脱出時に乗っていた船が着く場所に海舟を呼びつけて、全く悪びれる様子もなく尻拭いを海舟に丸投げしようとするのです。

このときはさすがの海舟も「これからあなたはどうするおつもりか!」と怒りをぶつけます。
それに対して慶喜は、「なんで自分が怒鳴られているのか全くわからない…」といったようなきょとんとした様子だったようです。

本当に空気が読めずにわからなかったのか、それともあえてわからないふりをしていたのかはわかりませんが、いずれにせよ空気を読まない行動をしていたのは確かなようですね。

徳川慶喜は尊王思想が強かった?

徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いにおいて、抵抗することもなく恭順の意を示したのには、尊王思想が強かったからではないかという説もあります。これには、徳川慶喜が水戸藩出身ということが大きく関わってくるのです。

水戸藩は勤皇精神に熱心であり、慶喜の父である斉昭も「天皇を敬い、欧米列強を退ける」という尊皇攘夷思想の急先鋒でありました。また、水戸藩には「朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)以来の家訓なり」という家訓があります。

これらのことから、幼少期から慶喜は「朝廷に逆らうなら、幕府を裏切れ」という教育を受けてきた可能性が高いのです。そのため、鳥羽伏見の戦いにおいて、新政府軍が天皇に認められた証でもある「錦の御旗」を掲げた時点で、慶喜は抵抗することを諦めたのかもしれませんね。

徳川慶喜は大政奉還後どう過ごしていた?

慶喜は大政奉還を行って、将軍を隠居した後は、政治には一切関わらず、自分の趣味に没頭する生活を送っていました。慶喜は多趣味で、インドアとしては写真・油絵・囲碁将棋・能楽・小鼓・手芸など、アウトドアとしては狩猟・釣り・鷹狩・馬術・自転車・手裏剣などが挙げられます。

中でも、手裏剣は日本でもトップクラスの実力を誇っていました。また、新しいもの好きで、自転車や自動車が日本に入ってくると、いち早く注文して楽しんでいたようです。

このように活き活きと暮らしていた慶喜は、地元の人たちからの信頼も厚く、慶喜の字を音読みにした「ケイキ」様という名称で呼ばれるほどでした。政治から離れて、自分の人生を思い切り楽しんでいたのが伺えますね。

まとめ:徳川慶喜の評価は2分するが、最近は評価され始めている

昔は敵前逃亡した臆病者とされていた徳川慶喜でしたが、最近はその決断が江戸の民を救ったということで、評価され始めているということがわかりましたね。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川慶喜の評価は昔と今とでは大きく変わる
  • その大きな要因は鳥羽伏見の戦いでの慶喜の行動
  • 敵前逃亡した臆病者という評価と、江戸100万人もの民の命を救った英雄という評価に2分する
  • 渋沢栄一など徳川慶喜のことを評価している人物もいる
  • 評価するポイントは、他にも江戸幕府最後の将軍であったことや、大政奉還を行ったこと、江戸城無血開城を行ったことなども含まれる

政治的な面、徳川慶喜の性格面など、様々な要因から見ないと、本当に慶喜を評価することは難しいでしょう。これら全てを含めて考えて、自分なりの慶喜の評価をしてみるといいかもしれませんね。

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