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西郷隆盛の性格はどうだった?人柄がわかるエピソードを交えて解説!

西郷隆盛の性格はどうだった?人柄がわかるエピソードを交えて解説!

西郷隆盛:1827(文政10)~1877(明治10)は、幕末から明治初期にかけて様々な場面で活躍した薩摩藩出身の武士です。その功績は倒幕から、明治政府の基盤を構築するなど多岐にわたります。このように優秀な西郷隆盛の性格とはいったいどのようなものだったのでしょうか?この記事では、西郷隆盛の性格を解説していきます。その人柄がわかるようなエピソードも合わせてご紹介していきます。

西郷隆盛の性格はどうだった?

西郷隆盛は、上野駅にある像からもわかるように大柄でふくよかな体型をしていました。そんな西郷隆盛の性格を簡単にまとめると以下のようになります。

  • 忠義に尽くす
  • 器が大きい
  • 清廉潔白
  • 強い信念を持っている

一つ一つ見ていきましょう。

西郷隆盛の性格|忠義に尽くす

西郷隆盛は、薩摩藩(現在の鹿児島県)の下級武士の出身でした。しかし、そんな西郷隆盛が維新の三傑と呼ばれるまでに至ったのは、一重に薩摩藩藩主の島津斉彬に見いだされたことが大きかったとされています。
島津斉彬は、郡方書役助を勤めていた西郷隆盛が書いた農政に関する建白書を見て、その才能を認め自分の側に置くことにします。

そんな島津斉彬のおかげで、西郷隆盛は国事について学ぶことができたり、大事な人脈を広げることができました。西郷隆盛は島津斉彬に感謝し、忠義を尽くすことにします。その忠誠ぶりは相当なもので、島津斉彬が病死した際にはその後を追って殉死しようとしたくらいでした。しかし、月照らに止められ、島津斉彬の意志を継ぐと決意し幕末から明治の大変革期に活躍するのです。

西郷隆盛の性格|器が大きい

西郷隆盛は当時としてはとても大柄な体格でした。そして、それに見合うような器の大きさも兼ね備えていました。西郷隆盛の器の大きさを表すエピソードをご紹介します。

明治維新の後の出来事です。
司法省に勤めていた島本仲道しまもとなかみちという土佐藩出身の男がいました。その島本は西郷隆盛に対して思うところがあったようで、それまで直接面識がなかったにも関わらず、公衆の面前で西郷隆盛に罵倒を浴びせます。

「西郷、西郷といって、世間ではあんたのことを人間以上の人間のように言っているが、私にはまったく意味がわからない。同志の者がみな牢獄に入れられて辛酸を嘗めているのに、あんただけは一人で道を闊歩し、『維新の元勲』だとか言われて、肩で風を切って歩いている。なんという人情のない人であるか。私の目から見れば、虫けら同然じゃ!」

突然面識のない人からこのような罵声を浴びせられたら、誰でも怒りますよね。このとき周りにいた人たちも、西郷隆盛がどのようなことを言い出すのかとハラハラします。しかし、このとき西郷は何も言い返しませんでした。
何も反応しない西郷隆盛に、手応えを感じなかった島本は結局そのまま帰っていきます。

翌日、西郷隆盛の元に、西郷の崇拝者たちが押しかけます。
そして、「島本を生かしてはおけない」「あぁいうやつを司法省に置いておくわけにはいかない」などと口々に言い出します。その際に、西郷はやっと島本の顔と名前が一致したようで、

「はぁ、あの人が司法省の島本さんでしたか。偉い人じゃ……。島本さんのような人が司法省におられるのなら、私も安心です」

と言いました。西郷隆盛のこの言葉は島本にも伝わり、「これは、だいぶ人間のケタが違っている」と西郷の器の大きさに恐れ入ったそうです。このように、西郷隆盛はどんな人の話でも聞き、それを受け入れるだけの器の大きさがあったようです。

西郷隆盛の性格|清廉潔白

西郷隆盛は清廉潔白で、本当に私欲のない人でした。
明治政府の中には、西郷隆盛と同じように下級武士から成り上がった人もいました。そのような成り上がりの人たちの中には、政府の高官になると豪奢な生活を送るようになってしまいます。
西郷隆盛はこの風潮が嫌いで、自分は質素な生活を続けていました。さらに、明治政府の高官の堕落に対しても厳しい態度をとり、激しく糾弾もしたようです。

給料も生活に必要最低な分だけとり、残りは貧しい人たちに分け与えていたとか。
明治に入り、江戸時代に武士だった人々は、禄を失い生活する術を失っていました。西郷隆盛はそのことを気にしていたといいます。西郷隆盛が、負けるとわかっていた西南戦争に立ち上がった理由の1つとしては、この困窮している武士たちを放っておけなかったという面があったのでしょう。

西郷隆盛の性格|強い信念を持っている

西郷隆盛は強い信念を持っており、目的のためには手段を選ばないという一面をもっていました。
しかし、若い頃はそうでもなかったのです。自分の目的が果たせなかったり、あるいは自分の役目が終わったと感じたりしたとき、西郷隆盛は何回か死を選ぼうとしていたこともありました。

そんな西郷隆盛が強い信念を持ち、目的のために奔走するようになったのは、2度に渡る遠島処分によるものでしょう。その際に、西郷隆盛は自分の座右の銘を決めます。
それは「敬天愛人」というもので、意味としては「天を敬って、人を愛しなさい」というものです。

西郷隆盛は死を恐れていませんでした。それは、意味死ぬことで自分の敬愛する人たちに会える喜びがあったからかもしれません。しかし、死ぬことを選ばなかったのは、
「自分にやり残した使命があるから、天に命を助けられた。自分の使命が終われば、天は自分の命を自然と奪い去るだろう。天が自分を生かしてくれるうちは、自分にはまだやらねばならない使命がある」
と考えていたからのようです。

この考えが生まれたからこそ、西郷隆盛は強い信念を貫き通し、目的のためには手段を選ばないようになったのでしょう。そして、自分の死に場所を探していたのかもしれません。

西郷隆盛の性格・人柄がわかるエピソードを紹介

今度は色々な人物から見た西郷隆盛をご紹介していきます。西郷隆盛に関わった人物たちは、どのような人物だと捕らえ、評価したのでしょうか?エピソードと共にみていきましょう。

坂本龍馬が評した西郷隆盛

まずは、土佐藩出身の坂本龍馬の西郷隆盛に対する評価を見ていきましょう。坂本龍馬と西郷隆盛は、薩長同盟を結ぶ際に深く関わりました。坂本龍馬は師である勝海舟のお膳立てで、初めて西郷と対面したときに次のような評価をします。

「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だと思います。ただ、その鐘をつく撞木が小さかったのが残念でした」

この場合の撞木とは、坂本龍馬自身のことを表しています。坂本龍馬は、西郷隆盛を前にした際の自分の力不足を嘆いているのです。これを聞いた勝海舟は、「評される人も評される人。評する人も評する人」と西郷と坂本の両方を高く評価したのでした。

勝海舟が評した西郷隆盛

西郷隆盛が倒幕を考えるきっかけを与えたのは、勝海舟でした。その勝海舟は、西郷隆盛のことを次のように評価しています。

「おれは、今まで天下で怖ろしいものを二人見た。それは、横井小楠よこいしょうなんと西郷隆盛だ」

「西郷と面会したら、いわゆる天下の大事を負担するものは、果たして西郷ではあるまいか」

「西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。おれだって事に処して、多少の権謀を用ゐないこともないが、たゞこの西郷の至誠は、おれをして相欺くに忍びざらしめた」

以上のように、勝海舟は西郷隆盛の至誠と人間の大きさには勝てないと言っていたのです。勝海舟ほどの優秀な人物であっても、西郷隆盛のその人間の大きさに完全に押され、引き込まれ、そして惚れていたのです。

反対に西郷隆盛は、勝海舟のことを
「勝海舟は実に驚いた人物で、どれだけ知略があるのか底知れない英雄肌の人物だ」と称賛していたようです。

明治天皇にも愛された西郷隆盛

西南戦争を指揮したことにより、逆賊として生涯を閉じた西郷隆盛ですが、その後評価が見直されます。それは明治天皇の後押しも大きいのです。明治天皇は、西郷隆盛のことを心から信頼していました。それは西郷隆盛が明治天皇のよき教育者であったことが関係しています。

若き明治天皇が西郷を信頼するにあたったエピソードはいくつかあります。
ある日、明治天皇が乗馬の練習をしているときに落馬してしまいます。そして、思わず「痛い」と呻くのですが、それを見た西郷は馬上から明治天皇を見下ろして、

「痛いなどという言葉は、どんな場合でも男は言ってはいけません」

とたしなめたそうです。それ以来、明治天皇はたとえ病床に入ってもいっさい苦痛を訴えることはありませんでした。このことについて、西園寺公望は「西郷からそう教えられた」と明治天皇が言っていたのを聞いたそうです。

また、西郷隆盛は明治天皇が言うことを聞かない場合は、
「そんなことでは、また昔の身分にかえしますぞ」と叱りつけたり、
女官あさりをしようものなら、相撲にかこつけて明治天皇を殴って忠告したりしていました。
このように、西郷隆盛は明治天皇のことを心からお慕いし、熱心に教育をしました。そして、明治天皇も親身になって自分を指導してくれた西郷を心から愛し、信頼していたのです。

そのため、西南戦争での西郷の死の知らせを聞いた明治天皇は、翌年に西郷の追悼歌会を開きました。戦争の結果として、西郷隆盛を殺してしまうことになるとは思ってもみなかったのです。明治天皇がいかに西郷隆盛の死を悲しんでいたかがよくわかりますね。

渋沢栄一が評した西郷隆盛

渋沢栄一は一橋家の御用談所で働いていたので、諸藩と事務的なやり取りをする機会が多くありました。そのため西郷隆盛のもとを訪れる機会も多く、気づけば親しい仲になっていたそうで、時には二人で豚鍋を食べながら話すこともあったようです。

そんな渋沢栄一は西郷隆盛のことを、
「知らないことを素直に知らないと言える豪傑」と大きく評価していました。
それをよく表しているエピソードがあります。

西郷隆盛が参議を勤めていたときのことです。このとき、渋沢栄一は大蔵省で大蔵大丞おおくらのだいじょうとして、財政の改革に携わっていました。

当時、廃藩置県が進められていて、大蔵省では相馬藩の興国安民法という施策を廃止しようとする議論もなされていました。困った相馬藩は西郷隆盛に相談します。それを受けた西郷隆盛は、そのことを渋沢栄一へ相談し、収入を考えずに相馬藩に為政のためのお金を出せないかと要求してきました。

このとき西郷隆盛は、興国安民法について全く知らなかったようで、そのことを正直に渋沢栄一に話しています。これを聞いた渋沢栄一は、驚きを隠せなかったといいます。
国政を担う西郷が、相馬藩という1藩のためだけに奔走し、よくわからないのに相馬藩の面倒を見て欲しいという姿は渋沢栄一の目には相当おかしなものに映っていたようです。

結局そのとき西郷隆盛は、渋沢栄一に叱られ、帰ることになりました。しかし、渋沢栄一はこのことから、「知らないことを知らないと素直に言える西郷隆盛の器の大きさ」に惚れ込んだのでした。

まとめ:西郷隆盛は豪快で忠義に生き、人に愛される性格だった

西郷隆盛は、島津斉彬からも
「西郷は薩摩の貴重な宝物。ただし、独立心が強いので私以外に使いこなせる者はいない」
という評価をもらっています。この言葉から見られるように、本来の西郷隆盛は孤立しがちだったのです。しかし、島津斉彬に拾ってもらい、うまく使いこなしてもらったからこそ、維新の三傑になるまでになったのでした。

今回の内容をまとめると、

  • 西郷隆盛は忠義に尽くす人物で、多大なる恩がある島津斉彬が死去した際にはその後を追おうとした
  • 西郷隆盛の器の大きさは、他の偉人たちも認めるくらいであった
  • 西郷隆盛は、明治天皇であろうと区別することなく正面から向き合える人物であった
  • 西郷隆盛は私欲がほとんどなく、高官になっても質素な生活を続け、困窮している武士たちを援助していた
  • 西郷隆盛は、嘘などをつけるような性格ではなく、知らないことを知らないと素直に言える人物であった
  • 西郷隆盛は強い信念を持ち、目的のためには手段を選ばないこともあった

調べれば調べるほど、西郷隆盛は本当に愛に溢れた人物であったということがわかります。他人への愛があるから、様々な人たちから愛される存在になっていったのではないでしょうか。

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