西郷隆盛の功績を簡単に解説!何をした人?明治維新の三傑と呼ばれる理由は?

西郷隆盛の功績を簡単に解説!何をした人?明治維新の三傑と呼ばれる理由は?

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西郷隆盛(1827(文政10)~1877(明治10))は、幕末から明治にかけて活躍した人物です。西郷隆盛は、大久保利通、木戸孝允と並んで明治維新の三傑と呼ばれています。西郷隆盛は何をしたことでそう呼ばれるようになったのでしょうか?

この記事では、西郷隆盛の功績、明治維新の三傑と呼ばれる理由を解説していきます。西郷隆盛の義理人情に厚く、愛に溢れた性格も併せて見ていきましょう。

西郷隆盛の功績を簡単に解説

西郷隆盛は、幕末から明治にかけてさまざまな場面で活躍をしてきました。具体的にはどのようなことをしてきたのか?詳しく見ていきましょう。

西郷隆盛は何をした人?維新の三傑と呼ばれる所以は?

西郷隆盛の功績をまとめると、以下のようになります。
【西郷隆盛の功績一覧】

  • 島津斉彬しまづなりあきらの懐刀としてその名を轟かせた
  • 薩長同盟を結び江戸城無血開城を実現させた
  • 明治政府では参議として、さまざまな改革を行った
  • 私学校を設立し、青年の育成に尽力した
  • 武士たちの想いとともに戦った西南戦争

西郷隆盛はなぜ維新の三傑と呼ばれているのでしょうか?
そもそも維新の三傑とは、1878年11月に刊行された、岩村吉太郎の『皇国三傑伝』という書物の中で出てきたのが最初と言われています。別に国民投票が行われたとかではなく、明治政府が決めたというわけでもないのです。

ここでの選定の基準は、倒幕と明治初期の両方で、薩長のリーダーであったことが挙げられます。そして、その中でも西郷隆盛が選ばれたのは、薩長同盟江戸城無血開城を実現させたこと、さらに維新後も人望という面で政府を支えたことが挙げられるでしょう。当時から西郷隆盛の人気はかなり高く、明治天皇も西郷隆盛のことを非常に信頼していたようです。

西郷隆盛の功績1|島津斉彬の懐刀としてその名を轟かせた

西郷隆盛が尊敬した人物として挙げられるのが、島津斉彬です。
島津斉彬は、西郷隆盛の出身地である薩摩藩の11代藩主です。島津斉彬は、幼い頃から曽祖父の影響で洋学を学び、藩主に就任してからは藩の富国強兵に努め、外国の技術を取り入れながら様々な事業を興しました。そのおかげで、薩摩藩は軍事大国になることができたのです。また、幕政にも積極的に口を出し、次期将軍に徳川慶喜とくがわよしのぶを推し、大老 井伊直弼いいなおすけと対立するということもありました。

非常に優秀な島津斉彬と西郷隆盛との出会いは、1854年(安政元年)の斉彬が参勤のため上京する際のことです。
島津斉彬は、西郷隆盛が度々藩に提出していた農政に関する建白書を目にし、西郷隆盛が優秀な人材であると見抜き、自分の参勤交代の行列に加えて江戸に連れて行くことにしました。そして、江戸に到着するなり、西郷に藩主の秘書兼ボディガードを務める庭方役にわかたやくを拝命します。こうして西郷隆盛は島津斉彬の懐刀として、その名を轟かせていくようになります。

西郷隆盛が島津斉彬に仕えたことは、西郷隆盛のその後の人生にとってとても大きなものでした。島津斉彬に江戸に連れて行ってもらったことで、碩学・藤田東湖ふじたとうこに出会うことができ、国事について学ぶ機会を得ました。西郷隆盛の国事に関する知識は、越前藩士・橋本左内はしもとさないがその博識ぶりに驚いたと言われているくらいのものだったとか。

西郷隆盛の島津斉彬への忠誠心は相当なもので、島津斉彬が病死してしまった際には、その後を追って殉死しようとしたくらいでした。しかし、月照らに説得されて、島津斉彬の意志を継いで国事に身を尽くすことを決意するのです。

西郷隆盛の功績2|薩長同盟を結び江戸城無血開城を実現させた

池田屋事件・禁門の変をきっかけとして、長州藩は幕府・薩摩藩の両方と険悪なムードに陥っていました。幕府は長州征討の勅許を得て、西郷も最初は長州の征伐に積極的に参加します。

ところが、幕府の重臣である勝海舟かつかいしゅうと会談してから、西郷隆盛の考えは変わっていきます。勝海舟はこのままではだめだと幕府を批判します。薩摩藩内でも幕府に対する不信感は上がっていました。そこで西郷隆盛は長州征討の路線を改め、雄藩連合を目指すことにするのです。

しかし、薩摩藩は今まで散々長州征討に参加していたので、今更手を組もうと言っても普通は聞いてもらえません。そこで西郷隆盛は、自らの命の危険をも顧みず長州藩へと赴き、幕府に従う姿勢を取るように説得したのです。その甲斐もあって、長州に迫っていた征討軍に対して解兵の命が出ることになりました。

その後、幕府の中に再び長州藩を討とうとする意見が出始め、2度目の長州征伐の命が出されることとなってしまいます。海外からの武器調達を禁止されていた長州藩は大ピンチ。そこで、薩摩藩は長州藩のために最新鋭の武器を購入してあげることにします。逆に、薩摩藩では兵糧米が足りていなかったので、長州藩がそれを補うようになります。

このような形で犬猿の仲だった薩摩・長州の両藩は、坂本龍馬らの仲介もあり、薩長同盟を結ぶことができたのです。
同盟を結ぶために会談するというときも、西郷隆盛は長州藩のために行動を起こします。このような西郷隆盛の心意気に長州藩が心打たれたことも、薩長同盟を結ぶに至った大きな要因でしょう。そして、薩長同盟を結んだことによって、すっかり弱体化してしまっていた長州藩は力を取り戻し始めます。このことが、倒幕の動きを大きく進めていく原動力となります。

そして、この後には新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争が勃発。西郷隆盛は勝海舟と会談をし、江戸城の無血開城を成功させています。江戸城を無血開城をしたことによって、江戸の街とそこに住む人々を戦争に巻き込まずに済んだのです。勝海舟はこのことを受けて、西郷隆盛のことを「江戸の大恩人」と称していました。

もし、このとき無血開城を果たしていなかったら、全面戦争に突入することになり、後ろについていた諸外国の介入を許すことになっていたでしょう。そうなると、日本は植民地になっていたかもしれないのです。このことから考えても、西郷が江戸城の無血開城を実現させたのは大きな功績だと言えるでしょう。

西郷隆盛の功績3|明治政府では参議として、さまざまな改革を行なった

戊辰戦争が終わった後、西郷隆盛は一度鹿児島へと帰参します。しかし、大久保利通らが新政府の立て直しをするために、卓越した人望を有する西郷隆盛に戻ってきてほしいと復帰を望んだのです。こうして、西郷隆盛は参議として中央政界へと復帰しました。

復帰した西郷隆盛は、まず「御親兵」という政府の直属軍を組織し、その軍事力を持って廃藩置県を成功させます。さらに、岩倉具視いわくらともみら外交使節団が条約改正のために欧米諸国へと出発した際は、留守政府を預かる立場となります。これにて、西郷隆盛は実質的な政府の最高責任者となるのです。

この間に、西郷隆盛は様々な改革を行っていきます。
【西郷隆盛が行った改革】

  • 陸軍省、海軍省の設置
  • 徴兵令の公布
  • 警察の創設
  • 地租改正
  • 学制の採用
  • 太陽暦の採用
  • 国立銀行条例の発布

本当はこのとき、使節団と留守政府の間で勝手なことをしないように誓約書があったのですが、西郷隆盛はそれを無視してどんどん改革を進めていきます。しかし、この改革があったからこそ明治政府の基盤は出来上がっていきました。当時不安定だった国内を維持したという点において、この改革はとても大事なことで、西郷隆盛の功績の1つと言えるでしょう。

西郷隆盛の功績4|私学校を設立し、青年の育成に尽力した

明治政府の基盤を築いていった西郷隆盛でしたが、「征韓論」について岩倉具視らと対立し、方針を変えられたことに怒り、そのまま辞表を出して鹿児島に帰郷してしまいます。その際に、西郷隆盛を追って辞職した人たちも共に帰郷しており、政府に不満を抱える彼らをそのままにしておくと治安が悪化してしまう可能性がありました。

鹿児島の若者たちも政府に対して不満を持っている者が増えてきてしまっていました。そんなとき、西郷隆盛のもとに私学校設立の話が舞い込んできます。血気盛んな若者たちの暴発を防ぎ、そのエネルギーを有益な方向へと向けるようにコントロールするために、西郷隆盛は私学校の設立を決めるのです。

私学校では、軍事訓練や漢文・洋学の教育が行われ、生徒を海外へと留学させることもありました。鹿児島も県をあげてこれを支援します。そのおかげで、私学校の規模は次第に大きくなっていき、政府がスパイを送り込むほど無視できないような存在となっていきます。

西郷隆盛の功績5|武士たちの想いとともに戦った西南戦争

西郷隆盛が私学校を設立して若者たちの暴発を防ごうとしていたにもかかわらず、全国的に政府への不満を持つ武士たちは増加していました。その不平士族たちは、西郷隆盛の決起を心待ちにしていたのです。もし西郷隆盛が私学校の生徒らを率いて挙兵でもしようものなら、政府に大ダメージを与えることができるのは明らかだったからです。しかし、西郷隆盛にその気はまだありませんでした。

しかし、ある時事件が起こります。政府への不満が溜まりすぎた私学校の生徒が、政府の弾薬庫を襲撃してしまうのです。この知らせを聞いた西郷隆盛は「ちょしもた(しまった)」と叫んだと言われています。これを受け、薩摩の士族たちの間に出兵論が高まることになるのです。

そして、西郷隆盛はもうこれ以上士族たちの不満を抑えることはできないと挙兵することを決意します。薩摩の若者たちの未来を心配したのもあったのかもしれません。このままでは破滅しか待っていないと西郷隆盛はわかっていましたが、それでも武士たちの運命に寄り添うことにしたのです。こうして、日本史上最大の内乱である「西南戦争」が始まります。

西南戦争は約半年の間、九州の各地で多くの犠牲者を出しながら激戦を繰り広げることになりました。そして、1877年(明治10年)8月16日に西郷隆盛は全軍に解散命令を出し、幹部や精鋭部隊を引き連れて鹿児島へと帰還することにします。そして、西郷隆盛と生き残った者たちは鹿児島の城山へと入りますが、政府軍に包囲されてしまうのです。

新政府軍の総攻撃を受けた際、西郷隆盛は股と腹部に銃弾を受け負傷してしまいます。
そして、自分の最後を悟った西郷隆盛は「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と別府晋助に言い、介錯されその生涯を閉じました。享年49歳でした。

まとめ:西郷隆盛の功績はまさに維新の三傑と呼ばれるにふさわしいものだった

西郷隆盛の功績は、倒幕から明治維新を進めていくのに必要不可欠なものばかりでした。つまり、まさに維新の三傑と呼ばれるのにふさわしいものだったと言えます。
今回の内容をまとめると、

  • 西郷隆盛は維新の三傑と呼ばれている
  • 西郷隆盛は島津斉彬に見いだされ、人望を集めていった
  • 西郷隆盛は、薩長同盟を結んだり、江戸城の無血開城を実現させたりと倒幕のための重要な役割を担った
  • 西郷隆盛は、明治政府では留守政府を預かるなど、参議として様々な改革を行った
  • 西郷隆盛は、鹿児島に帰ってからは私学校を創設し、若者の育成に尽力した
  • 西郷隆盛は西南戦争では武士たちの想いに寄り添い、破滅を覚悟した上で挙兵した

どんなときでも西郷隆盛は、常に人に寄り添い、真っ向から向き合うことをしていました。そのことが卓越した人望を集めることに繋がったのではないでしょうか?最後は逆賊として生涯を閉じることになりましたが、死後にきちんとその功績が再評価されたのは西郷隆盛の人柄によるものなのでしょう。

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