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坂本龍馬の年表を簡単に解説!どんな生涯だった?功績は?性格は?家族は?

坂本龍馬の年表を簡単に解説!どんな生涯だった?功績は?性格は?家族は?

幕末の英雄で、日本史上の人物で、最も人気があるといっても過言ではない坂本龍馬。近江屋事件で暗殺され33歳の短い生涯を終えましたが、その生涯はどのようなものだったのでしょうか?

坂本龍馬は、薩長同盟の仲介や、大政奉還を盛り込んだ船中八策の提案などの数々の功績を残しています。土佐なまりのおおらかな人物で、人に好かれ、人を好きになる性格だったといわれています。「おりょう」と恋愛結婚をしたそうですが、子どもはいなかったそうです。

今回は、33歳の若さで暗殺されて命を落とした、坂本龍馬の激動の生涯を年表で解説します。また、何をした人なのか?どんな性格だったのか?家族構成はどうだったか?なども見ていきましょう。

坂本龍馬の年表を簡単に解説

坂本龍馬の生涯を年表で簡単に解説していきます。なお、年齢は「かぞえ」の年で記しています。

【坂本龍馬の年表】

  • 1835年(天保6年)(1歳)
    高知城下で郷士の坂本八平の五人目の末っ子として生まれる
  • 1853年(嘉永6年)(19歳)
    剣術修行のため江戸の北辰一刀流・千葉定吉道場に入門
    兵学者の佐久間象山にも入門し、西洋砲術を学ぶ
    6月に浦賀沖への黒船来航、品川海岸の警備にあたる
  • 1858年(安政5年)(25歳)
    北辰一刀流のなぎなたの免許皆伝「北辰一刀流長刀兵法目録」を受ける
  • 1862年(文久2年)(28歳)
    土佐藩を脱藩し江戸に下り、勝海舟の弟子となる
  • 1864年(元治元年)(30歳)
    勝海舟との関係で各地を奔走し、西郷隆盛などの名士と出会う
    勝海舟が軍艦奉行を免職され、坂本龍馬は薩摩藩の庇護下におかれることとなる
  • 1865年(慶応元年)(31歳)
    薩摩藩庇護のもと長崎に「亀山社中」を結成
  • 1866年(慶応2年)(32歳)
    「薩長同盟」締結。桂小五郎の求めで薩長同盟の保証人となる
    伏見の寺田屋で幕吏に襲われ、負傷
    薩摩藩船で大阪から鹿児島へ、お龍との新婚旅行
    下関海戦に参戦、長州軍を応援、高杉晋作と会談
  • 1867年(慶応3年)(33歳)
    亀山社中は土佐藩庇護の「土佐海援隊」となり、隊長に就任する
    大政奉還を含めた新しい国家の体制を「船中八策」として示す
    坂本龍馬と中岡慎太郎の立会いで、薩摩藩と土佐藩の間で「薩土盟約」が締結
    「新政府綱領八策」を起草する
    京都の近江屋で刺客によって暗殺される

坂本龍馬はどんな人?激動のその生涯。

坂本龍馬

  • 生年月日:1836年1月3日(天保6年11月15日)
  • 没年月日:1867年12月10日(慶応3年11月15日)(享年33歳)
  • 父:坂本直足さかもとなおたり / 母:幸
  • 妻:お龍
  • 性格は、素朴で人間味溢れ、誰でもすぐに仲良くなれる人懐っこかったといわれています

坂本龍馬の家族構成。子供はいなかった?

坂本龍馬は、1864年(元治元年)に妻となるお龍と出会い、この年に結婚しています。

お龍と坂本龍馬が初めてであった時、坂本龍馬に名前を聞かれたお龍が、自分の名前を紙に書いて渡すと、坂本龍馬は「自分と一緒だ」と笑っていたという微笑ましいエピソードを、晩年のお龍が語っていたそうです。

そんな仲睦まじい二人でしたが、子供はいなかったようです。若くして暗殺されてしまった坂本龍馬の血は、子供がいなかったために途絶えてしまっているようです。

しかしながら、坂本龍馬の兄弟の子孫は、現代も続いているようです。

坂本龍馬は暗殺され、その生涯に幕をおろした

坂本龍馬は、1867年12月10日(慶応3年11月15日)に、京都の定宿としていた醤油商「近江屋」において、何者かに襲撃を受け殺害されました。享年33歳。この事件は起きた場所にちなんで、「近江屋事件」と呼ばれています。

近江屋事件では、坂本龍馬の他にも、中岡慎太郎と龍馬の従僕の山田藤吉も命をおとしています。

将来有望な青年たちの若すぎる死は、多くの人に衝撃を与えました。
事件を知った岩倉具視は「何物の凶豎きょうとぞ、我が両腕を奪い去る」と嘆いたそうです。
この両腕とは、坂本龍馬と、中岡慎太郎を指しているといわれています。

ちなみに、実行犯としては京都見廻組の隊士が有力視されていますが、黒幕の正体など、まだまだ真相は謎に包まれている事件です。

坂本龍馬の死因や近江屋事件に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております。

>>坂本龍馬の死因は?暗殺事件の黒幕は誰?最後の様子や、最後に残した言葉は?>>

坂本龍馬は何をした人?功績を簡単に解説

坂本龍馬は何をした人なのでしょうか?ここでは、坂本龍馬が何をしたのか?どんな功績を残したのかを簡単に解説していきます。

【坂本龍馬の功績】

  • 薩長同盟の調停役を務めた
  • 大政奉還を含めた新しい国家の体制のアイディアを「船中八策」として、土佐藩に示した
  • 後の「土佐海援隊」となる、「亀山社中」を結成した。

坂本龍馬は、わずか33年の生涯の中、しかも後半の6年ほどの間に、近代日本に欠かせない働きをいくつも行っていることに、驚くばかりです。

それぞれ詳しく見ていきましょう。

坂本龍馬は薩長同盟にも大きく関わった

坂本龍馬の功績として有名なものが、薩長同盟の仲介役として活躍したことを挙げる人も少なくないでしょう。

1866年(慶応2年)、坂本龍馬の仲介により、国の在り方について対立していた長州藩と薩摩藩が政治的・軍事的な密約同盟を結びます。

当時、大きな力を持つ二つの藩が結びついたことで、幕府を倒す時代の動きが加速していったのです。明治維新のターニングポイントと言える出来事です。この同盟の締結に大きな役割を果たした人物が、坂本龍馬なんです。

坂本龍馬は大政奉還のきっかけをつくった

1867年11月(慶応3年10月)の大政奉還のきっかけをつくったのも坂本龍馬といわれています。
大政奉還とは、徳川幕府第15代征夷大将軍の徳川慶喜とくがわよしのぶによる朝廷への政権の返上です。

坂本龍馬は、長崎から兵庫へ向かう船の上で土佐藩の重役である後藤象二郎ごとうしょうじろうに大政奉還の案を提示しました。
坂本龍馬の案に大いに感銘を受けた後藤象二郎は土佐藩の15代当主の山内容堂やまうちようどうを通して江戸幕府に大政奉還案を提案したことで、徳川慶喜の大政奉還は成立したのでした。

大政奉還が行われたことで、薩摩藩や長州藩を中心とした討幕派は大儀を失い、結果として内戦の勃発を防ぐことができました。平和裏に政権移行を成功させた大政奉還は、無用の血を流すことを防ぐことができただけでなく、圧力を強める欧米国家が日本を植民地化することを防ぐ効果もあったといわれています。

大胆でありながら綿密で効果的な大政奉還のきっかけが、柔軟でグローバルな思考力を持つ坂本龍馬の案であったというのは、非常にロマンを感じるエピソードですよね。

坂本龍馬がつくった船中八策は、のちの明治政府の基盤となった

坂本龍馬は、長崎から兵庫へ向かう船の上で土佐藩重臣の後藤象二郎に八カ条の新しい国家構想を示しました。その中の一つが「大政奉還案」だったというわけですね。

坂本龍馬は口頭で提示ましたが、それを海援隊士が書きとめたものが後に「船中八策(せんちゅうはっさく)」とよばれるようになったとされています。

【船中八策の内容】

  • 一、政権を朝廷に返すこと
  • 一、議会を置き、公平な議論に基づいて政治を行うこと
  • 一、世のすぐれた人材の中から顧問を選ぶこと
  • 一、新しく国家の基本になる法律(憲法)を定めること
  • 一、外国と新たに平等な条約を結び直すこと
  • 一、海軍の力を強めること
  • 一、親兵を設けて都を守ること
  • 一、金銀の比率や物の値段を外国と同じにするよう努めること

坂本龍馬は、大政奉還から1ヶ月も経たないうちに、坂本龍馬は新政府設立のための政治綱領「新政府綱領八策」を提示しています。非常にすばやい動きに驚かされますが、大政奉還から一か月で考えをまとめたのではなく、大政奉還の時にはもう構築されていたアイディアだったというわけなのですね。

そして「新政府綱領八策」の内容は、明治政府の基本方針を記した「五箇条の御誓文ごかじょうのごせいもん」へと受け継がれていきます。つまり、坂本龍馬が提示した船中八策の案は、のちの明治政府の基盤となったというわけです。

【五箇条の御誓文の内容】

  • 一、広く人材を集めて会議を開き、公平な議論に基づいて政治を行いましょう
  • 一、身分が上の者も下の者も、心を一つにして積極的に国を治め整えましょう
  • 一、文官も武官も一般国民も、各自の志すところが達成できるようにして、人々に希望を失わせないことが最も大切です。
  • 一、これまでの悪い習慣はなくし、普遍的な道理に基づいて行いましょう
  • 一、 知識を世界に求め、天皇を中心として大いに国を発展させましょう。

坂本龍馬がつくった日本初の株式会社?亀山社中

亀山社中かめやましゃちゅうは、1865年(慶応元年)に薩摩藩や長崎の豪商小曽根家の援助を受けて、坂本龍馬とその同志により設立された結社です。
亀山社中は、倒幕のための活動だけでなく、船の回送や運輸業、銃器のあっせんなどの商号活動も行っており、「日本初の商社」といわれています。また当時の日本では珍しく支援者に資本を出資してもらい、その資本を用いて活動していたことから亀山社中は日本初の株式会社ともいわれています。

坂本龍馬の性格がわかるエピソード

坂本龍馬は、人懐こく懐深いおおらかな性格だったと言われています。誰にも優しく、誠実でありながら、自由奔放なその人柄から幕閣から藩士まで多くの人に誰にでも慕われていたそうです。坂本龍馬の性格が伝わるエピソードとともに、ご紹介していきます。

坂本龍馬は日本で初めて新婚旅行をした?

坂本龍馬は、30歳でお龍と結婚すると、一途に愛し続けた愛妻家としても有名です。また、坂本龍馬は日本で初めて新婚旅行をした人物といわれています。

坂本龍馬とお龍の新婚旅行先は、薩摩藩への温泉旅行、坂本龍馬の怪我の治療も兼ねたものだったといわれています。

坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれた翌日、坂本龍馬とお龍の滞在していた京都の寺田屋に奉行所の追手が襲撃します。いち早くピンチに気が付いたお龍の機転により、坂本龍馬は命を守ることはできましたが、両手指に重傷を負ってしまいます。

その傷を癒すために坂本龍馬とお龍は薩摩で温泉治療をすることになりました。薩摩の船で薩摩へと下り、日当山温泉、塩浸温泉に赴いた一行は、犬飼滝を見物したり、山に入って拳銃で鳥を撃ったりして過ごといわれています。

明治に書かれた坂本龍馬の伝記小説でこの旅行を「ホネー、ムーン(ハネムーン)」と記載されていたことにより、現在では坂本龍馬とお龍が日本最初の新婚旅行をしたとされているのです。

勝海舟との出会いが、坂本龍馬を変えた?

坂本龍馬は、1862年(文久2年)に土佐藩を脱藩して江戸に下り、勝海舟の弟子となりました。勝海舟を通じて西郷隆盛とも出会います。

また勝海舟は坂本龍馬の思考にも大きく影響を与えます。

勝海舟は
「今は日本国内で争っている場合ではない。西洋列強に対抗するには、諸藩が互いに話し合い、協力していくことが必要である」との考えを持っていました。

勝海舟との出会いが「薩長同盟」に、そして「大政奉還」へと繋がっていくのです。坂本龍馬の功績の数々は、勝海舟なくしては起こり得なかったと言っても過言ではないでしょう。

そんな勝海舟と坂本龍馬の出会いは劇的なものだったという逸話が残されています。

当時攘夷派だった坂本龍馬は、斬ることも辞さない覚悟で勝海舟を訪れたというのです。
そして、勝海舟から世界情勢と海軍の必要性を説かれるうちにすっかり感服し、自分の見識の狭さを恥じてその場で弟子になったといるのです。

勝海舟本人が晩年に語った「追賛一話ついさんいちわ」が出典であることから、広く信じられてきましたが、近年は、勝海舟の物事を大げさに話す癖から生まれた逸話であるともいわれています。

しかしながら、勝海舟の作り話とされるこの話の中からも、意見が異なる相手でも、まずは話を聞こうとする坂本龍馬の柔軟な性質が感じられますよね。

まとめ:坂本龍馬の生涯は決して長くなかったが、功績は大きかった

坂本龍馬の生涯をたどると、33年間の短い生涯の中でたくさんの功績を残していることに驚かされます。激動の幕末を駆け抜けた坂本龍馬の信念に基づく行動力や人間力は、時代を超えて現代の私たちも惹きつけられるものだなと感じました。
今回の内容をまとめると、

  • 坂本龍馬は、土佐藩にて坂本八平の五人目の末っ子として生まれる
  • 坂本龍馬の性格は、素朴で人間味溢れ、誰でもすぐに仲良くなれる人懐っこい性格だった
  • 勝海舟との出会いが、坂本龍馬のその後の人生を大きく変えた
  • 坂本龍馬は、薩長同盟・大政奉還などにも関わっていた
  • 坂本龍馬は、日本初の株式会社とも言える「亀山社中」を設立した
  • 坂本龍馬は、日本初の新婚旅行をした
  • 坂本龍馬は、近江屋事件で暗殺され33歳でその生涯に幕をおろした

坂本龍馬は、その柔軟でグローバルな発想で激動の幕末を駆け抜けました。坂本龍馬の残した功績は、現代日本の基本ともなるものも多く、今私たちがこうして生活しているところにも、坂本龍馬の思想が残っていると言えるかもしれませんね。

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