北条義時とはどんな人?年表から簡単に解説!性格は?功績は?死因は?
北条義時1163年(長寛元年)〜1224年(元仁元年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武士です。
北条政子の弟で、鎌倉幕府の2代目執権です。
また、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で小栗旬さんが演じられることで話題となっています。
北条義時とはどのような人物なのでしょうか?この記事では、北条義時はどんな人だったのか?簡単な年表を見ながら、北条義時の性格や功績、死因などを簡単に解説していきます。
目次
北条義時とはどんな人?年表で簡単に解説
北条義時:1163年(長寛元年)〜1224年(元仁元年):享年62歳
父:北条時政 母:伊東入道の娘
妻(正室):姫の前
妻(継室):伊賀の方
側室:阿波局、伊佐朝政の娘
・1163年(長寛元年):0歳
北条時政の次男として生まれる
・1180年(治承4年):18歳
源頼朝の挙兵に、父・北条時政と共に従軍する
・1181年(養和元年):19歳
源頼朝の信頼を得て、頼朝の寝所を警護する11名に選ばれる
・1185年(寿永4年):23歳
葦屋浦の戦いにて武功をあげる
・1189年(文治5年):27歳
奥州合戦に参戦
頼朝の上洛に随兵の一人としてお供する
・1192年(建久3年):30歳
比企朝宗の娘・姫の前を正室として迎え入れる
・1199年(建久10年):37歳
源頼朝が亡くなる
→2代将軍・頼家の補佐をする13人の合議制のメンバーとなる
・1204年(建仁4年):42歳
相模守に任じられる
・1205年(元久2年):43歳
畠山重忠の乱をきっかけに父・北条時政と対立するようになる
→伊豆へ時政を追放し、2代目執権となる
・1213年(建暦3年):51歳
和田合戦にて侍所別当であった和田義盛を討つ
・1221年(承久3年):59歳
承久の乱が勃発
→後鳥羽上皇率いる朝廷軍に圧勝する
・1224年(元仁元年):62歳
脚気のため死去
北条義時の姉は源頼朝の妻・北条政子
北条義時は、伊豆の豪族である北条時政の次男として生まれました。
そして、北条義時の姉である北条政子は、平氏との戦いに敗れ伊豆に流されてきていた源頼朝の妻になります。
当時、罪人として伊豆に流されてきた源頼朝の監視を、北条家は命じられていました。
罪人と監視役の娘が結婚する、なんておとんでもないことですが、周りの反対を押し切って北条政子は源頼朝と一緒になることを決めたのです。
こうして、北条義時は源頼朝の義弟として、父と姉と共に、頼朝の力になり支えていくのです。
源頼朝が流刑の身で伊豆で過ごしたのはなんと20年以上!その間ずっと支えてきたのが北条家なのですから、信頼関係を築くには十分過ぎる時間だったと言えるでしょう。
北条義時の功績を簡単に解説
北条政子の弟で、源頼朝を支えてきた北条義時は、具体的にどのようなことをしてきたのでしょうか?
ここでは、北条義時の功績について簡単に解説していきます。
【北条義時の功績】
- 北条義時は、源平合戦で源氏軍の勝利に大きく貢献した
- 北条義時は、鎌倉幕府の創立に尽力した
- 北条義時は、2代目執権となり北条家の権力固めに貢献した
- 北条義時は、承久の乱に勝利し、武家中心の政権を確立した
北条義時は源平合戦で源氏軍の勝利に大きく貢献した
1180年(治承4年)、源頼朝は平氏追討を掲げて東国での挙兵を決意します。
この戦いが源平合戦と呼ばれるものです。北条義時も、父の時政と兄の宗時と供に従軍することになりました。
開幕の石橋山の戦いでは、源氏軍が敗れ、兄の宗時が戦死してしまいます。
その後、義時は駿河国(現在の静岡県)に侵攻し、鉢田の戦いや富士川の戦いに参戦します。
そしてそこで、源氏軍の勝利に大きく貢献することになるのです。
さらに、源範頼率いる平氏追討軍に付き従って、西国にも侵攻します。そして、筑前国(現在の福岡県)で起きた葦屋浦の戦いでも大きな武功をあげることに成功するのです。
これらの活躍が高く評価され、北条義時は源頼朝の寝所を警護する11名のひとりに選ばれることになりました。
寝所というプライベートな空間の警護を任されるということは、かなり厚い信頼を得ていたと言えるでしょう。
北条義時は鎌倉幕府の創設に尽力した
源平合戦を勝利で収めたことにより、頼朝は朝廷から自分の家臣たちを諸国の守護や地頭職に任命する勅許を得ます。これにより、実質的に鎌倉幕府を成立させることとなるのです。
しかし、それに反対する勢力が出てきます。そのうちの一つが、奥州藤原氏です。
北条義時は、この奥州藤原氏と鎌倉政権との戦いである奥州合戦に従軍します。
この合戦に勝利したことにより、陸奥国と出羽国(現在の東北地方)を配下に収め、源頼朝は日本全国を完全に制覇したことになりました。
このように、北条義時は源平合戦や奥州合戦といった、源頼朝が全国を制覇するための重要な戦に参戦して、大きく貢献してきたのです。
北条義時は二代目執権となり北条家の権力固めに貢献した
源頼朝の死後、13人の合議制、比企能員の変を経て、北条家が権力を持つようになります。
北条義時の父である、北条時政は初代執権となり、政治の実験を握りました。
北条義時も、最初は時政と共に協力して他の有力御家人の排除などをしていましたが、次第に対立するようになります。
父の行動に疑問を持ち始めた義時は、いずれ父に排除されるのは自分なのではないかと考え始めるのです。
そこで義時は、姉の北条政子と共に時政を追放することを決めます。
そして、北条時政を無事に伊豆国へと追放し、二代目執権として自分の地位を確立するのです。
執権となった北条義時が行った主なことは2つ。
まず1つめは、有力御家人の排除です。
様々な有力御家人を排除しましたが、その中でも有名なのは和田義盛です。
和田義盛は鎌倉御家人を統制する侍所別当の地位についていました。和田合戦で、和田一族は滅亡させています。
そして、和田義盛がいなくなったことにより、義時は侍所別当に就任。
こうして、政治面と軍事面両方の要職を独占することとなり、執権の地位を不動のものにすることに成功するのです。
北条義時が行ったことのもう1つは、権力が集中しないように制度を整えたことです。
初代執権の北条時政のときは、権力を独占したため多くの御家人たちから反発を招いていました。
義時はそれを反面教師にして行動を起こすのです。
例えば、下知状と呼ばれる武家用文書の一時的な廃止や、大きな罪を犯したとき以外、源頼朝の時代以降に賜った所領は原則として没収をしないことを約束したことが挙げられます。
こうして、北条義時は御家人たちによる自身への忠誠心を高めていったのです。
このように、父の見習える箇所は見習い、だめな箇所は反面教師にした政治を行うことによって、北条義時は北条家の権力固めに貢献したと言えるでしょう。
北条義時は承久の乱に勝利し、武家中心の政権を確立した
北条義時が執権になってから、将軍後継者問題が起き、後鳥羽上皇率いる朝廷との覇権争いが急速に過激さを増すようになりました。そんなときに勃発したのが、1221年(承久3年)の承久の乱です。
この戦いは、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒幕するために挙兵したことにより始まりました。
この戦に勝利した北条義時は、後鳥羽上皇を流刑に処すなど、たとえ相手が皇族であろうとも厳しい処罰を徹底的に科します。
これにより、世の人々に朝廷と鎌倉幕府の立場が完全に逆転したのだと知らしめることに成功するのです。
その後も、朝廷を監視するための六波羅探題を設置したり、公家や西国の武士の所領を没収し、それを幕府側についていた御家人たちに分け与えたり(新補地頭として補任)しました。
この承久の乱の戦後処理によって、北条義時は全国的な支配権を握ることとなります。
それまで朝廷と幕府で政権は二分化していましたが、義時は朝廷よりも幕府のほうが上だと証明し、武家中心の政権を確立することに成功するのです。
北条義時の性格がわかる逸話
鎌倉幕府創立、執権北条家の確率にと、様々な功績を残してきた北条義時ですが、いったいどのような性格をしていたのでしょうか?
北条義時は、行動力と冷静な判断力で、数々の功績を残してきました。また、信頼も厚く、一途な面もあったようです。
ここでは、北条義時の性格がわかる逸話をご紹介していきます。
北条義時は源頼朝に信頼されていた
北条義時の姉の北条政子は頼朝の妻です。
つまり、北条義時と源頼朝は義兄弟ということになります。
源頼朝が伊豆に流されていた時代から、ずっとそばで政子とともに頼朝のことを支え続けた義時ですから、頼朝からかなり信頼されていました。
その証拠に、頼朝の寝る場所の護衛を任せていたり、
義時のことを「他日必ず子孫の補佐たらん」「義時を持って家臣の最となす」
と称していたりしたことが挙げられます。
ちなみに、この「他日必ず子孫の補佐たらん」というのは、「いつか必ず私の子孫の補佐となるだろう」という意味です。
実際に義時は、頼朝の死後に鎌倉幕府を執権として支えることになるのですから、頼朝の予想は当たっていたと言えるでしょう。
北条義時は冷静な判断力によって常に勝ち馬を当てていた
北条義時は時流を見る目が鋭かったのではないかとされています。
それは、義時は常に勝ち馬を当てていたからだというのです。
確かに振り返ってみると、源平合戦では不利だと言われていた源氏側につき、幕府内の権力争いでも強い側についていました。
さらに、父親であろうとも自分の敵になるようであれば排除することも…。
このように北条義時は、常に冷静に状況を見極め、地位を確立していったのです。
その裏には、北条義時の選んだ側を必ず勝ち馬にできるだけの実力と強い意志もあったと伺えるでしょう。
北条義時は1年間ひたすらラブレターを送り続けた?
北条義時の正室は姫の前という女性です。
2人が結婚することになるまでに、実はとてもピュアなエピソードがあります。
北条義時は、ある日姫の前を見て一目惚れし、ラブレターを送ることにしました。
しかし、姫の前から返信はきません。
それでも諦めのつかない義時は、何度も何度もラブレターを送り続けますが、返事は一向に来る気配すらありません。
返事が来ない理由として考えられるのは、「家柄」でした。
鎌倉時代、結婚するには家柄がとても重要視されていました。
北条義時は、姉の政子が頼朝の妻であるということ以外自慢できるところのない出自も怪しい田舎の弱小氏族でした。
それに比べて、姫の前の実家は「比企氏」です。
比企氏とは、源頼朝とその息子の源頼家の乳母を勤めていた家系で、北条氏よりも先に頼朝との繋がりがありました。
加えて、姫の前の父親は内舎人という天皇のボディガードをする役職にもついているようなエリートでした。
そのため、源頼朝と繋がりがあるということだけでは、結婚するメリットたりえなかったのです。
1年間にも及ぶラブレター作戦も失敗し、それでも諦めきれない北条義時の元に恋のキューピッドが現れます。
それが頼朝です。
源頼朝は、「結婚したら絶対に離婚しません」という起請文を義時に書かせました。
これによっていかなる理由であっても離婚した場合は、義時が全方向から報いを受けることになります。
これは並大抵の覚悟でかけるものではないのです。
北条義時の覚悟が本気であることを示して、源頼朝が姫の前に直接結婚を打診します。
幕府の最高権力者直々に打診されたこと、義時の覚悟が本気であるとわかったことなどから、ついに姫の前は義時のもとへ嫁ぐことを決めたのでした。
返事も来ないのに1年間もラブレターを送り続けるほど、一途な一面があるとは意外ですね。
信念を決めたら、行動する行動力はこの頃から変わらなかったのかもしれません。
北条義時の死因は病死?
北条義時の死因は病死と言われています。
いったいなんの病気で死んだのでしょうか?
ここでは、北条義時の死因について解説していきます。あわせて北条義時のお墓もご紹介します。
北条義時の死因は脚気?
北条義時は承久の乱が起きた3年後に突然死去しています。
その死因として挙げられているのが、脚気です。
『吾妻鏡』によると、
1224年(貞応3年)6月12日辰の刻(午前8時頃)、調子の悪い日が続いていたが、格別の変化は見られなかったという北条義時が重病となる。
陰陽師が呼ばれて占うと、大事には至らず、戌の刻(午後8時頃)には快復に向かうとのことだった。
念の為祈祷が行われたが…。時とともに危険な状態になり、6月13日寅の刻(午前4時頃)に出家、巳の刻(午前10時頃)に亡くなった。
という旨のことが書いてあります。
つまり、日頃から脚気を患っていたところに、暑さによって体調を崩してしまったことが原因だとしているのです。死を悟った北条義時は、出家し朝から念仏を唱え続け、最期の時は鶴岡八幡宮の頼暁を師として、外縛印を結び、念仏を数十遍唱えたのだと言われています。
その後、葬儀は6月18日に営まれ、源頼朝の法華堂の東の山上が、北条義時の墳墓とされました。
北条義時は毒殺された?
実は北条義時は、病死ではなく妻の伊賀の方に暗殺されたのではないかという説も存在します。
それの根拠は2つ挙げることが出来ます。
1つめは、三代目執権を決定するときのことです。
三代目の執権は元々嫡男である泰時が就任する予定でした。
しかし、義時の死去後に伊賀の方が5男の政村を執権に擁立しようと画策して失敗し、その一派が伊豆に流罪になる事件が起きています。
つまり、伊賀の方が自分の子供を執権にするのに、義時の存在が邪魔になったのではないかというわけですね。
2つめは、上記の事件が起きた3年後、承久の乱の首謀者でありずっと潜伏していた尊重という僧が捕縛されたこと。
『明月記』によると、この尊重が取り調べの際自殺しそこなったことから、
「早く首を切れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」
「今から死ぬ身であるのに、嘘など言わん」
上記のようなことを言って武士たちを驚かせることになりました。
つまり、尊重は義時が伊賀の方に毒殺されたのであると主張したわけです。
以上の2点から、北条義時は伊賀の方に毒殺されたという説が噂されるようになったのです。
真相は謎のままですが、可能性としては十分ありえる話ではあるでしょう。
北条義時のお墓はどこにある?
北条義時のお墓は現在2つ存在します。
1つ目は、法華堂跡(神奈川県鎌倉市)です。
法華堂は、源頼朝と義時の冥福を祈るために建てられたものでした。
北条義時の墓は、鶴岡八幡宮の西御門にある頼朝の墓から東に100m行った山の中腹にあります。
長い間場所は不明とされてきたのですが、2005年に発掘調査が行われ法華堂の遺構が発見されたことによりこの場所が発覚しました。
2つ目は、義時が創建した北條寺(静岡県伊豆の国市)です。
ここには、北条義時夫妻の墓が存在しており、伊賀の方の墓と並んで置かれています。
この北條寺の場所は、義時の生まれ育った江間という場所の近くにあります。
そのため、息子の北条泰時がここを北条氏発祥の地として、追善のために義時の墓を建てたのではないかとされています。
【北条義時のお墓へのアクセス】
- 法華堂跡(源頼朝・北条義時墓)
住所:神奈川県鎌倉市西御門2丁目5-7
拝観時間:24時間自由
- 北條寺
住所:静岡県伊豆の国市南江間862-1
拝観時間:境内自由
北条義時夫婦の墓拝観料/250円
まとめ:北条義時とは二代目執権として武家中心の政権を確立した人物だった
北条義時は、源頼朝が幕府を立ち上げるのを手助けし、その後は二代目執権として武家中心の政権を確立した人物でした。時には父親すらも追放するくらいの冷静な判断力を持ち合わせていましたね。
今回の内容をまとめると、
- 北条義時は伊豆の豪族の出身で、そこで源頼朝と出会った
- 北条義時の姉 北条政子が頼朝の妻になったことにより、姉とともに頼朝のことを支えていく
- 源平合戦などで活躍し、源頼朝からの信頼が厚かった
- 源頼朝の死後は、二代目執権として鎌倉幕府を支えた
- 北条義時は、承久の乱に勝利し、武家中心の政権を確立した
- 北条義時の死因は脚気説が有力であるが、暗殺説もある
北条義時は姫の前へのアプローチからもわかるように、目標を決めたらひたすらそこに突き進むという人物だったということが伺えます。
それが、北条家が田舎の一豪族にすぎなかったところから、幕府の最高権力者まで上り詰めた秘訣だったのかもしれませんね。