毛利元就の子孫の現在は?家系図から見る毛利家の歴史と、戦略を簡単に解説!
毛利元就は、(1497年(明応6年)4月16日〜1571年(元亀2年)7月6日)の戦国時代の武将です。
毛利元就は戦略家であり、相手を平気で落とし入れるなど、非情なところもあり、一代で中国地方統一を成し遂げました。
“三本の矢”で、死の間際に息子3人を枕元に呼び、結束の力を説いた逸話で知られていますよね。
もともとは、小領主にすぎなかった毛利家が一体どのようにして、中国地方を統一するだけの力を付けていったのか。
今回は、毛利元就の子孫は現在も続いているのか?中国地方を統一したその戦略を、家系図を見ながら解説していきます。
目次
毛利元就の子孫は現在も続いている?あの有名人も?
戦国時代に中国地方を制圧していた毛利元就。
その子孫は現在も、格闘家やミュージシャン、モータースポーツ選手など、幅広いジャンルで活躍をされています。
【毛利元就の子孫と言われている著名人】
- 吉川晃司さん(ミュージシャン)
- 毛利昭彦さん(格闘家)
- 小早川隆治さん(技術開発者)
- 毛利忠敦さん(外交官)
毛利元就の子孫|「吉川晃司」さん
吉川 晃司さんは、1965年(昭和40年)8月18日生まれ、広島県出身、日本を代表するロックミュージシャンです。
1984年のデビュー曲、「モニカ」は有名ですよね。
56歳には思えない若々しさとパワフルな歌声で、今も大活躍されている吉川晃司さんですが、毛利元就の子孫と言われているのです。
毛利元就には3人の息子(毛利隆元、吉川元春、小早川隆景)がいました。
吉川晃司さんは次男「吉川元春」の子孫になるようです。
吉川元春は、元々は「毛利元春」と名乗っていましたが、毛利元就によって藤原南家の流れを汲む「安芸国の名門・吉川氏」に養子として送り込まれ、家督を乗っ取る形で吉川家を相続しました。
その毛利元就の次男「吉川元春」から続く子孫なのが、吉川晃司さんなんです。
余談ですが、
吉川晃司さんは「佐野元春」さんのコンサートを観て、音楽に目覚めたというエピソードがあります。偶然とはいえ、先祖の「元春」繋がりに不思議な縁を感じます。
毛利元就の子孫|格闘家の「毛利昭彦」さん
毛利昭彦さんは、(1975年(昭和50年)3月11日)生まれ、の男性総合格闘家、プロレスラーです。
山口県徳山市(現・周南市)出身で毛利道場主宰されています。
毛利昭彦さんは、毛利元就の末裔として、入場時には陣羽織を羽織り、幟がはためく中入場するスタイルが有名です。
地元山口県に自らのジムを主宰しており、毛利家に伝わる格言「百万一心」を道場訓にしています。
毛利元就の子孫|技術開発者の「小早川隆治」さん
小早川隆治さんは、毛利元就の三男・隆景の子孫になります。
小早川隆景には実子がおらず、小早川家は早くに断絶してしまいましたが、明治になり、毛利本家の当主である、毛利元徳の三男・三郎が小早川家を再興し、そこから続く末裔が、隆治さんです。
小早川隆治さんは、1941年(昭和16年)生まれの81歳。
車の技術開発者、技術者としてマツダの3代目RX-7の開発を担当し、第1回カーオブザイヤーを受賞しています。
さらには、モータースポーツの統括責任者として、1991年には日本車で初のル・マン24時間耐久レース総合優勝を成し遂げ、現在はモータージャーナリストとしてご活躍されています。
毛利元就の子孫|外交官の「毛利忠敦」さん
外交官のエリート幹部である毛利忠敦さんも、毛利元就の末裔と言われています。
東京大学卒業後、1991年に外務省に就職。ロシア課長として活躍されていました。
毛利忠敦さんという名前を検索すると、「セクハラ疑惑で停職9か月」というキーワードが出てきます。2018年6月、部下の女性からセクハラ告発され、停職9か月の処分を受けていたようです。
その後、ベラルーシ公使、オーストラリア公使として異動になりましたが、外務省は事実関係や処分理由について説明を避けており、今回の人事について、同省人事課は「適材適所の観点から行った」とだけコメントしています。
オーストラリアに異動になった後、外務省宛に忠敦さんの息子さんから1通の告発メールが届いたそうです。
【告発文の内容】
- セクハラ問題を全く反省していない
- 家族に対し、長年激しい暴力行為(DV)を繰り返していた
- 外務省の幹部を使い、家族へのDV告発(被害届)を取り下げるように脅してきた
- 被害届を取り下げると、生活費を渡さないなどの経済的な制裁を加えてきた
- 家族としては、辞職というかたちでけじめをつけてほしいと望んでいる
真相は不明ですが、外交官とは他国との交渉などを担う、国の重要な仕事です。
毛利元就の知的な部分を、毛利忠敦さんは受け継がれているのでしょう。
毛利元就の家系図を簡単に解説
毛利家は鎌倉時代から続いている
毛利家は鎌倉時代から江戸時代まで続いた武家で、鎌倉幕府の御家人、大江季光(毛利季光)(1202年(建仁2年)~1247年7月8日(宝治元年))が興しました。
毛利季光の父は鎌倉幕府で政所初代別当を務めた大江広元で、父の広大な所領のうち、神奈川県厚木市の毛利庄の地頭となって毛利季光と名乗ったのが毛利家の始まりです。
1247年(宝治元年)、北条氏執権派と対立した妻の実家である三浦氏方に付き敗北(宝治合戦)し、長男、次男、三男と共に自決。
これにより、毛利一族は大半が果ててしまいましたが、越後国にいた四男の経光の家系だけが唯一残り、この経光の子孫から毛利元就へと繋がっているのです。
毛利元就に子供は何人いた?
毛利元就には正室と側室合わせて4人の妻がおり、十男四女、合わせて14人の子供がいたそうです。
正室・妙玖(みょうきゅう)との間に3男4女がおり、中でも有名なのは、隆元・元春・隆景の3人で、毛利三兄弟として知られています。
元就は正室・妙玖に気を遣い、正室と側室の立場をはっきりと区別させるため、側室が産んだ庶子に対し「虫けらのような分別のない子供たち」と言い、正室と側室の子供を区別していました。
【毛利元就と正室 妙玖との子】
- 長男:毛利隆元 1523年(大永3年)~1563年(永禄6年)
- 次男:吉川元春 1530年(享禄3年)~1586年(天正14年)
- 三男:小早川隆景 1533年(天文2年)~1597年(慶長2年)
- 長女・(氏名等詳細不詳、高橋家へ養子)
- 次女:五龍局 1529年(享禄2年)~1574年(天正2年)
- 三女:(氏名等詳細不詳)
【毛利元就と側室 乃美大方所生との子】
- 五男:穂井田元清 1551年(天文20年)~1597年(慶長2年)
- 八男:天野元政 1559年(永禄2年)~1609年(慶長14年)
- 十男:小早川秀包 1567年(永禄10年)2月26日~1601年(慶長6年)
【毛利元就と側室 三吉氏所生との子】
- 六男:椙杜元秋 1552年(天文21年)~1585年(天正13年)
- 七男:出羽元倶 1555年(弘治元年)~1571年(元亀2年)
- 九男:末次元康 1560年(永禄3年)~1601年(慶長6年)
- 四女;上原元将室(詳細不明)
【毛利元就と側室 矢田氏との子】
- 四男:二宮就辰 1546年(天文15年)~1607年(慶長12年)
毛利元就の子孫から見る、毛利元就の戦略
戦国時代に10カ国120万石を支配し、中国地方の覇者となった毛利元就ですが、元就が家督を継いだ当初は、郡山城を拠点に安芸国吉田荘一帯を支配する国人と呼ばれる小領主にすぎませんでした。
そんな毛利氏がやがて中国地方を統一し、120万石の大大名にのし上がっていくために元就がとった作戦が養子戦略だったのです。
当時の中国地方は、日本海に近い山陰方面を支配する尼子氏と、瀬戸内海側の山陽から九州北部までを支配する大内氏が争っていました。
毛利元就は、大内氏と手を組み、勢力を拡大していきました。
次男の元春を、安芸・石見を拠点にしていた吉川興経の養子に、三男の隆景を、瀬戸内海に強力な水軍を持っていた小早川家に養子として送り込み、家を継がせ、毛利家の勢力を大きくしていったのです。
毛利元就の子孫|長男:隆元
毛利元就の長男:毛利隆元 1523年(大永3年)~1563年(永禄6年)9月1日
毛利家の家督を継ぎ、第53代当主となりました。
実際は、父である元就が実権を握っていましたが、内政に手腕を発揮し、父の元就を支えていました。
温厚な性格で、絵画や仏典書写を好む一方、武略や計略は苦手だったようで、偉大な父親や有能な弟たちへの劣等感が強かったようです。
弘治元年(1555年)、父と旧友である陶晴賢(すえはるかた)を滅ぼし、その後順調に出世をしていきますが、尼子軍討伐を行い、1563年(永禄6年)に侵略途上で急死をしました。
毛利元就の子孫|次男:元春
毛利元就の次男:吉川元春 1530年(享禄3年)~1586年(天正14年)12月25日
吉川興経(きっかわおきつね)の養子となり、家督を継いで”吉川元春”となりました。
安芸国の名門だった吉川氏を乗っ取る形での家督相続であることから、父元就の戦略だったと言われています。
性格は長男と真逆で、元服前にも関わらず、父の反対を押し切って初陣を果たすような果敢な性格だったようです。兄弟で山陰地方制圧の基礎を築き、1582年(天正10年)に家督を子の元長に譲って引退します。しかし、大正14年(1586年)に秀吉から依頼された九州出征の途中で命を落としてしまいます。
毛利元就の子孫|三男:隆景
毛利元就の三男:小早川隆景((1533年(天文2年)~1597年(慶長2年)7月26日)
戦死した小早川隆景の養子になり、12歳で竹原小早川家の家督を継ぎました。
のちに沼田小早川家も継承し、両家を統合しました。
毛利氏の勢力拡大では山陽地方を統治し、豊臣秀吉の信頼も高かったことから、豊臣政権下では五代老の一人として活躍しました。
とても厳格な性格で、正室と接する際も、まるで客をもてなすような態度で接していたといいます。
長兄・隆元が40歳という若さで亡くなり、毛利家の家督を継いだ、まだ11歳の輝元は、祖父の祖父の元就に育てられていました。
そのため隆景は、宗家主人である輝元を尊敬する意味から、輝元をあえて厳しくしつけ、時にはせっかんをすることもあったようです。
毛利元就の子孫|次女:五龍局
毛利元就の次女:五龍局 1529年(享禄2年)~1574年(天正2年)8月2日
宍戸隆家の正室。1534年(天文3年)、年頭の賀辞のため、元就が毛利氏と所領が隣接する安芸国国人・宍戸氏の居城である五龍城を訪れ際に宍戸隆家と五龍局の婚姻が取り決められたといいいます。
五龍局以外にも、五龍、五龍姫、五龍の方、五もじなどと呼ばれたようです。
五龍局の次女は、吉川元春(元就の次男)の長男 元長の正室になり、三女の南の大方(清光院)は、毛利隆元(元就の長男)の長男・輝元の正室になっており、毛利一族の結束を固めるのに貢献しました。
毛利元就の長女は高橋家へ養子に行った?
毛利元就の長女の正式な氏名は分かっていませんが、安芸国、石見国の当主・高橋氏に、人質として養子になっていたと言われています。
父・元就が高橋氏討伐を決断したために殺害されたとされていますが、この事実を裏付ける資料は一切残っていないため、真実は分かりません。
まとめ:毛利元就の子孫は現在も活躍している。子孫たちは毛利家の拡大のために養子に行っていた
戦国時代に中国地方を収めていた毛利元就の子孫は、毛利元就の養子戦略によって現在にも続いています。
今回の内容をまとめると、
- 毛利家は現在、当主は32代目の毛利元栄氏(元就から数えて21代目)まで続いている
- 毛利元就の子孫は男系・女系ともかなり多く、現在、数百人以上いる
- 芸能界やスポーツ界、政界等、毛利元就の子孫が現在も各方面で活躍されている
ミュージシャンの吉川晃司さんが毛利元就の子孫で、音楽を始めたきっかけが先祖のと同じ名前を持つ佐野元春さんというのは、何か先祖代々とのつながりを感じますね。