竹中半兵衛の子孫の現在は?家系図で簡単に解説!黒田官兵衛との関係は?
竹中半兵衛(1544(天文13)〜1579(天正7))は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。
竹中半兵衛は、豊臣秀吉の参謀として重用されていたほど、知略に長けた人物でした。
そんな竹中半兵衛の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、竹中半兵衛の家系図を見ながら、子孫は現在も続いているのか?また両兵衛としてよく比較される黒田官兵衛との関係はどうだったのか?について簡単に解説していきます。
目次
竹中半兵衛の家系図をわかりやすく解説!
竹中半兵衛の家族構成
【竹中半兵衛のプロフィール】
竹中半兵衛/ 別名:竹中重治
1544年(天文13年)〜1579年(天正7年)/享年:36歳
出身地:美濃国(現在の岐阜県)
父:竹中重元
母:妙海大姉
妻:得月院
子:重門
竹中半兵衛は1544年(天文13年)に美濃国で、竹中重元と妙海大姉の間に生まれました。
その後、得月院という女性を正室に迎えます。
この得月院は、織田信長にも仕えた西美濃三人衆の一人である安藤元就の次女です。
ちなみに、西美濃三人衆とは、美濃斎藤氏の有力な家臣であった、稲葉良通、安藤元就、氏家直元のことを指します。
結婚することになった詳しい経緯はわかっていませんが、半兵衛も美濃国出身で、さらに豊臣秀吉を介して織田信長に仕えていたことから、政略結婚であった可能性も高いでしょう。
竹中半兵衛は得月院との間に一人の子供(重門)を授かりました。
竹中半兵衛は側室を持たなかった?
竹中半兵衛の生きていた時代は、正室の他に側室を何人か持ち、子孫を残すということが当たり前の時代でした。
しかし、竹中半兵衛は正室・得月院の他に側室は一切持たず、得月院だけを生涯愛しました。
そうなると当然子供の数は減るわけですから、子孫が続かなかった可能性もありました。
ましてや、竹中半兵衛は36歳という若さで亡くなってたため、竹中氏が滅亡していた可能性はかなり高かったわけです。
幸いにも、一人息子の重門は戦や病で早くに亡くなるようなことはなかったので、無事に竹中氏は続いていくことができたのです。
竹中半兵衛の子孫は現在も続いている?
竹中半兵衛は正室・得月院との間に、一人の子供(重門)を授かりました。
生涯一人の女性しか妻に迎えなかったため、子供は重門ただ一人でした。
そのような状態で竹中半兵衛の子孫は続いていったのでしょうか?
ここでは、竹中半兵衛の子孫について簡単に解説していきます。
竹中半兵衛の一人息子・重門のおかげで旗本に?
竹中半兵衛の子供は、重門だけでした。竹中半兵衛は重門に対して、かなり厳しく教育を施していたようです。特に、兵法の教育に関しては厳しかったようで、このような逸話があります。
重門が子供の頃、軍物語を教えているときに急に席を立ったことがありました。
その理由が小用だと知った竹中半兵衛は、
「小便が催しなばなど座敷にて致さぬぞ、竹中が子息武辺の物語に聞入れ、立事を忘れて居ながら小便まりしといはれなば、我家の面目也」
と重門を叱ったそうです。
要するに、軍談に夢中になり小便を漏らしたとしても我家の面目であるから、小用くらいで席を立つなということですね。
それほどまでに厳しく育てられた重門は、成長してから父譲りの知略を発揮し、数々の戦で功績を残します。特に関ケ原の戦いでは、小西行長を捕縛するという大功を上げました。
その結果、竹中家は江戸幕府の旗本として取り立てられることになります。
1万石未満の旗本でしたが、参勤交代を許されるなど優遇を受けていたようです。
こうして旗本の地位を得て安泰となった竹中家は、そのまま継続されていくことになるのです。
竹中半兵衛の子孫は、現在は人形師?
旗本として江戸時代を生き抜き、戊辰戦争などに参戦しながらも竹中家は現在まで続いていきました。そして、現在の当主は18代目の竹中重男さんです。
この方、実は東京都内で雛人形の製作所を経営している人形師さんなのです。
人形師としては、三代目にあたり、初代は14代目・重固の娘である鶴という女性です。
重男さんからすると祖母にあたりますね。
重男さんは、現在夫婦で人形作りをされているそうですが、今でも参考にするのは鶴の人形作りだそうです。
また、屋号も現在は「鶴屋半兵衛」というものが使われています。
人形作りの創始者と竹中半兵衛を彷彿とさせますね。
さらに、重男さんには3人の娘さんがいるのですが、次女と三女は嫁いで家を出たにもかかわらず、旦那さんを説得して竹中の名字を受け継いだそうです。この名字を絶やしてはいけないと考えていることがよくわかりますね。
ちなみに、竹中半兵衛の子孫には、狂言師の和泉元彌さんの母親で、岐阜県大垣市出身の和泉節子さんもいらっしゃいます。
竹中半兵衛と竹中工務店は無関係?
よく間違った情報として挙げられるのが、現在の日本を代表する建設会社「竹中工務店」の創始者が竹中半兵衛の子孫ではないかという説です。
これは間違いで、竹中工務店を作ったのは、織田信長の普請奉行・竹中藤兵衛正高なのです。
竹中半兵衛と名前が似ており、同じ主君を持つことから、間違えてしまう人が多いのでしょう。正高は、城作りが盛んな頃のいわば建設官僚でした。
武将から転身して、名古屋で寺社仏閣の造営に携わるようになったのが、竹中工務店のはじまりだったそうです。
竹中半兵衛と黒田半兵衛の関係は?
竹中半兵衛とともによく名前を挙げられるのが、黒田官兵衛です。
2人はともに豊臣秀吉に仕えた家臣で、いわゆる同僚でした。
この二家の間には深い繋がりがあったのです。
ここでは、竹中半兵衛と黒田官兵衛の関係について簡単に解説していきます。
竹中半兵衛は黒田官兵衛とともに「両兵衛」と呼ばれた?
竹中半兵衛と黒田官兵衛はともに、豊臣秀吉に仕え、軍師として活躍しました。
2人とも兵衛がつくことから、「両兵衛」や「二兵衛」と呼ばれていたそうです。
しかし、この2人が同時に秀吉に仕えた時期は、播磨攻めの際の短い期間でしかなかったため、これは後世になってから呼ばれた呼称だと言われています。
竹中半兵衛に黒田家は恩があった?
竹中半兵衛の息子の重門は関ケ原の戦いの際、元々西軍に所属していましたが、後に東軍に寝返っています。
このおかげで、竹中家は存続していける事になったのですが、この背景には幼馴染の黒田長政が重門を説得したのではないかという話があるのです。
というのも、黒田家は竹中半兵衛に大きな恩があったからです。
黒田長政がまだ幼い頃のことです。
黒田官兵衛が織田信長に反旗を翻した荒木村重を説得に向かい、囚われの身となってしまったことがあります。
このとき織田信長は、黒田官兵衛がなかなか戻ってこないため、裏切ったと判断し、豊臣秀吉に人質となっていた黒田長政を殺すように命令したのです。
黒田官兵衛を信じていた秀吉は困り果て、竹中半兵衛に相談します。
そして、竹中半兵衛は表向きには「私が首をはねましょう」と言いながら、密かに黒田長政を自分の居城に匿うことにしたのです。
その後、無事に救出された黒田官兵衛は息子の無事を知り、竹中半兵衛にとても感謝しました。
しかし、その時点で竹中半兵衛はすでにこの世にはおらず、代わりに送られてきたのは竹中半兵衛の愛用していた軍配でした。
感謝の言葉を直接伝えられなかった黒田官兵衛は、別の形で竹中家に恩を返すことにします。
それが、重門の烏帽子親になることでした。
烏帽子親とは、元服の際に立てる将来の生活の保護にあたる親のことです。
つまり、竹中半兵衛の代わりに重門の保護者となったわけですね。
また、黒田長政も自身の命を竹中半兵衛に助けられているので、関ケ原の戦いの際に、西軍が不利とわかり、重門を、竹田家を救いたい一心で説得を行ったのでしょう。
こうして重門は東軍に寝返り、竹田家は途絶えること無く現在まで続くことになるのです。
あのとき、竹中半兵衛が黒田長政を救っていたからこそ、竹田家も黒田家も互いに途絶えることなくいれたのでしょうね。
まとめ:竹中半兵衛の子孫は現在まで続いており、人形師をしている
竹中半兵衛は、正室しか持たず、子供も一人しか授かることはありませんでした。
しかし、その子供が功績を残したことにより竹中氏は安泰となり、そのまま現在まで続いていくことになりました。
今回の内容をまとめると、
- 竹中半兵衛はこの時代には珍しく側室を持たず、正室のみを生涯愛した
- 子供は重門ただ一人だった
- 重門が功績を残したことにより、竹中氏は旗本として続いていった
- 子孫は現代まで続いており、現在の子孫は人形師をしている
- 竹中半兵衛と竹中工務店は血縁関係はない
竹中家と黒田家は互いに互いを助け合っていました。
もし両家の関係が深くなければ、両家ともその後の家の運命を決める局面で別の選択をしてしまい、滅んでしまっていたかもしれませんね。