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吉田茂の家系図を簡単に解説!麻生太郎との関係は?豪華すぎるその子孫たち

吉田茂(1878(明治11)〜1967(昭和42))は、戦後に外務大臣や内閣総理大臣を務めた日本の政治家です。

戦後の日本を、その優れた政治感覚と強いリーダーシップで牽引し、復興の礎を築き上げた吉田茂ですが、その子孫は現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、吉田茂の家系図を見ながら、その子孫について、また麻生太郎との関係について簡単に解説していきます。

吉田茂の家系図を簡単に解説!

吉田茂の家系図

吉田茂の家族構成は?

【吉田茂のプロフィール】

  • 吉田茂(よしだしげる)
  • 1878年(明治11年)〜1967年(昭和42年):享年:90歳
  • 出身地:東京神田駿河台(現在の東京都千代田区)
  • 父:竹内綱
  • 養父:吉田健三
  • 先妻:雪子
  • 後妻:喜代
  • 子:健一、桜子、正男、江子、和子

吉田茂は、板垣退助の腹心であった竹内綱の子として、1878年に東京神田駿河台(現在の東京都千代田区)で生まれました。実母ははっきりとはわかっていないものの、芸者の瀧子ではないかとされています。

吉田茂が生まれて間もない頃に、竹内綱は投獄されてしまいます。
そして、父の親友であった吉田健三のもとに、3歳の際に正式に入嗣しました。

その後、雪子と結婚し、二男三女をもうけましたが、1941年に雪子が乳癌により亡くなってしまいます。
雪子の没後、茂は芸者・喜代を大磯邸に囲っていました。
このことは、世間体を憚り隠蔽を図りましたが、新聞記者にスクープされてしまいます。

吉田茂はこれを受けて、勿怪の幸いとばかりに喜代を正妻としました。

吉田茂は11歳で大金持ちになった?

吉田茂は生まれて間もなく、実の父親と離れ離れになってしまいます。
というのも、父・竹内綱は、立志社の政府転覆工作が発覚し、陸奥宗光、林有造、大江卓らとともに投獄されてしまったからです。
このとき竹内綱は、茂を親友で子供のいなかった吉田健三に預けることにしました。

そして、その後茂が3歳になったときに、正式に入嗣し、茂は横浜で養育されることになったのです。

養父・吉田健三は自由民権運動に身を投じましたが、横浜の貿易で財を成し、なんと11歳の茂に50万円(現在価値で20億円)もの遺産を残して病死してしまいました。

つまり、吉田茂は11歳にして大金持ちになったのです。ちなみに、竹内綱は1922年まで生きましたが、養子に出た後の吉田茂と交流したという逸話は残っていません。

吉田茂の子孫は現在も続いている?

吉田茂は、後妻・喜代との間に子供はできなかったものの、先妻・雪子との間には、二男三女の子供を授かっています。
そんな吉田茂の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
ここでは、吉田茂の子孫について簡単に解説していきます。

吉田茂の子孫には麻生太郎や皇室にも?

吉田茂には、二男三女の子供が居ました。
それぞれどのような道を歩んでいったのかをみていきましょう。

  • 吉田茂の長男:健一
    文芸評論家や清泉女子大学の教授として活躍しました。茂が後妻を迎えたことが気に食わず、その影響で茂との仲は良好ではなくなってしまいました。
  • 吉田茂の次男:正男
    東北大学工学部を経て、石川島播磨重工業に入社しました。英語力に長けていて、その実力は外国人と喧嘩ができるほどのようです。その英語力を生かして、学術論文や会社の文書を翻訳するなどの仕事をされていました。
  • 吉田茂の長女:桜子
    外交官の吉田寛と結婚しました。しかし、その9年後に夫の吉田寛は亡くなってしまいます。それ以降消息不明となっているようです。
  • 吉田茂の次女:江子
    生後18ヶ月という若さで亡くなってしまいました。
  • 吉田茂の三女:和子
    福岡麻生財閥の当主・麻生太賀吉と結婚しました。そして、2人の間に生まれた子には、第92代内閣総理大臣・麻生太郎氏や、寛仁親王と結婚した信子などがいます。和子自身は、茂から子の中で一番政治家としての資質を受け継いでいたと言われており、茂の秘書代わりとして様々な場所によく同行していたようです。

このように吉田茂の子孫には、内閣総理大臣や皇室に嫁いだ者もいます。
そして、その子孫たちが現在も活躍されているのです。

吉田茂と麻生太郎のエピソードは?

吉田茂と麻生太郎氏は祖父と孫という関係になります。
奇しくも同じ総理大臣の座についた2人ですが、麻生太郎氏は幼少期から大学時代にかけてだいぶ茂に振り回されたようです。
例えば、幼少期は毎週のように大磯の自宅に呼ばれて貴重な休みを潰されたり、麻生太郎氏はアメリカのスタンフォード大学に在籍していたのですが、その際には「アメリカ訛りはダメだ」と言われイギリスに移住させられたりしていました。

2人のエピソードにはこんな話もあります。
吉田茂は平和条約のための講和会議の前後、ずっと緊張状態にあったそうです。
しかし、そんな茂の気持ちを知らない麻生太郎氏は、
「おじいちゃまがママを取るから、いつもママがいない」
と茂に不満をぶつけました。


麻生太郎氏の母親は秘書代わりに様々な場所に同行することが多かったからです。

それを聞いた吉田茂は申し訳無さそうに、
「長いことママを取り上げて悪かった。講和会議が終わったら返すから、動物園や寄席に行こう」
と太郎氏に言ったそうです。

このことから、本当は条約の調印が終わったら政治家をやめようとしていたのではないかということが伺えます。

麻生太郎氏の気持ちを聞いて、しっかりとそれに答えてくれるところに、吉田茂の優しさのようなものも垣間見えますね。

麻生太郎に流れている偉大な人物の血脈

吉田茂の孫である太郎氏には、実は吉田茂以外にも偉大な人物の血がたくさん流れています。
どんな人の血が流れているのかをご紹介していきます。

  • ・牧野伸顕
    伸顕は、外務大臣や内務大臣、パリ講和会議では日本の全権を務めていました。
    しかし、軍部からは「君側の奸(君主を思い通りに動かす悪い家臣のこと)」とみなされ、二・二六事件などで命を狙われて政界を引退したのでした。
    そして伸顕は、茂の妻・雪子の父親です。
    つまり、太郎氏から見ると、伸顕は曾祖父にあたる人物ということですね。
  • 大久保利通
    利通は維新三英傑として有名ですね。
    下級武士の出身ながら、明治維新における倒幕運動の中心人物として活躍。
    その後、明治新政府の礎を築き上げました。
    利通は、先程お伝えした牧野伸顕の父親になります。
    つまり、麻生太郎氏からみると、高祖父(祖母の祖父)にあたるのです。
  • 三島通庸
    三島通庸も太郎氏と血縁関係にあります。
    通庸は、明治時代に福島県令や栃木県令、さらには警視総監まで務めました。
    県令時代には、反対派を押し切り強引に土木工事を進めたりしたことから、「土木県令」や「鬼県令」の異名で呼ばれていたこともありました。
    通庸も大久保利通と同じく、麻生太郎氏からみると、高祖父にあたります。

吉田茂と白洲次郎は家族ぐるみで仲が良かった?

茂を語るときに欠かせない名前として挙げられるのが、白洲次郎です。
吉田茂と白洲次郎はとても仲が良かったと言われています。

吉田茂は2つの重役を白洲次郎に任せた?

敗戦後、吉田茂は外務大臣の座につくことになります。
この際に、茂は白洲次郎に終戦連絡事務局の参与(のちに次長)に就任するように頼み込むのです。
これはつまり、白洲次郎をGHQとの交渉役に抜擢したということですね。

頼まれた時、白洲次郎は農業に従事していました。

それにも関わらずこの重要なポストを任せたということは、それほどまでに信頼していたということでしょう。そして、白洲次郎はその期待に答えて、流暢な英語と物怖じしない態度でGHQとの交渉に臨みました。

ときには、最高司令官であるマッカーサーを怒鳴りつけたこともあったらしく、マッカーサーから「従順ならざる唯一の日本人」という評価をもらっています。

また、サンフランシスコ講和会議の際には、総理大臣に就任していた吉田茂の側近(全権団顧問)として次郎も一緒に渡米しました。

講和会議では吉田茂が英語でスピーチをする予定でした。

しかし、白洲次郎はこれに対して、
「講和会議では戦勝国であるアメリカも敗戦国である日本も同じ立場であるはず。それなのになぜアメリカ側の言葉でスピーチを行うのか?」
と怒り、英語のスピーチをやめることを進言しました。

吉田茂は白洲次郎のこの言葉を受け入れ、スピーチは急遽日本語へと書き換えられることに。

いくら側近であるとはいえ、講和会議という重要な局面で、総理大臣に真っ向から進言できる人は少ないでしょう。吉田茂と白洲次郎がお互いにお互いを信頼しあっていたからこそ、このような進言をすることができたのかもしれませんね。

吉田茂の娘の仲人を白洲次郎に頼んだ?

吉田茂の妻・雪子も白洲次郎のことを気に入っていました。

その証拠に、雪子は自分の娘・和子の結婚相手を紹介してほしいと白洲次郎に頼んでいるのです。

吉田茂夫妻が、子供の中でも一番愛情を注いでいたのが末っ子の和子だったと言われています。
その一番かわいい娘の結婚相手を探すことを依頼したということは、雪子からも相当信頼されていたということでしょう。

これを受けて、次郎が紹介した人物こそ麻生太賀吉です。
和子はこの太賀吉と結婚します。

そして、この2人の間に、後に総理大臣に就任する麻生太郎氏が生まれるのでした。

まとめ:吉田茂の子孫は現在まで続いていて、その中には麻生太郎など有名人もいた

吉田茂は、妻・雪子との間に二男三女の子供を授かりました。
その中の三女が残した子供が現在まで続いています。そして、茂の子孫の中には、麻生太郎氏や皇室に嫁いだ人もいました。

今回の内容をまとめると、

  • 吉田茂は雪子と結婚し、雪子の死後、喜代と再婚した
  • 雪子との間に二男三女を授かり、喜代との間には子はできなかった
  • 三女・和子の子に、麻生太郎氏や寛仁親王に嫁いだ信子がいる
  • 吉田茂は白洲次郎と家族ぐるみで仲が良かった

幼少期の麻生太郎氏を毎週家に呼びつけたり、動物園や寄席に行こうと誘ったりしているところから考えると、吉田茂は孫がかわいくて仕方なかったのではないでしょうか?政治家としてとても切れ者のイメージがありますが、おじいちゃんとしての一面を見てみると少しほっこりとしてしまいますね。

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