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大隈重信の足はホルマリン漬けで現存している?襲撃された理由は?犯人は誰?

大隈重信(1838(天保9)〜1922(大正11))は、明治維新の際に外交などで手腕を振るい活躍しました。
そして、その後は第8・17代内閣総理大臣を始めとした重要なポストに就き、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を与えました。

そんな大隈重信ですが、実は本人の足がホルマリン漬けで現存しているという話があるのです。

この記事では、大隈重信の足はホルマリン漬けで現存しているのか?なぜ襲撃されたのか?また、犯人との関係について、簡単に解説していきます。

大隈重信の足は義足?

大熊重信は、外務大臣を務めていた時に襲撃テロに遭い、右足を切断しなくてはならないほどの大怪我を負ってしまいました。
その影響もあり、大隈重信の右足は義足だったのです。
ここでは、大隈重信の足がどうなったのかを簡単に解説していきます。

大隈重信の足はホルマリン漬けで現存してる?

襲撃事件によって右足を切断した大隈重信は、何を思ったのかそれをホルマリン漬けにして、自宅で保管していたそうです。
そして、時々自宅に来た客に見せびらかしていたのです。

大隈重信の死後、その右足は早稲田大学にて保管され、誰でも見ることのできるようになっていたんです。
しかし、1999年には早稲田大学から、佐賀県にある龍泰寺という重信の菩提寺に寄贈されていて、今ではそう簡単に見ることはできなくなっています。

自分の足をホルマリン漬けで保存するなんて、大隈重信らしいといえば、らしいですね。

大隈重信の義足も現存している?

右足を切断した大隈重信は、義足での生活を余儀なくされました。
その時に使用していた何本かの義足は、今でも早稲田大学や大隈重信記念館に保存されています。

ちなみに、大隈重信記念館に保存されている義足は、当時最高と言われていたアメリカA.A.マークス社製のものです。
しかし、当時最高と言われていた義足も、日本の「座る」という生活様式にはあまり合わず、膝関節が破損しやすかったと言われています。

大隈重信が足を失った爆弾テロ

大隈重信がその足を失った原因は爆弾テロでした。
なぜ大隈重信はテロに巻き込まれてしまったのでしょうか?
ここでは、その大隈重信襲撃事件について簡単に解説していきます。

きっかけは条約改正

大隈重信は外務大臣に就任した際、江戸時代に締結された不平等条約(日米和親条約や日米修好通商条約など)を改正しようと試みました。

当時の日本は、この不平等条約のせいで輸入品にかける関税の税率を自主的に決めることができなかったり、外国人が日本で犯罪を犯しても、日本の法律で裁けなかったりなどと不利な状況が続いていたからです。

しかし、この条約改正が大隈重信が襲撃されるきっかけとなってしまうのです。

この条約改正の内容に強い不満を持った人物が、大隈重信に爆弾を投げつけたわけですね。

大隈重信が外務大臣としてとった秘策とは?

諸外国は、自分たちにとって有利な条約を簡単に改正してくれるわけがありません。そこで大隈重信はある秘策に出ます。

それは、それまで条約締結国のすべてを集めて行っていた改正交渉を、各国別に交渉するという方法です。この方法が功を奏し、アメリカ・ドイツ・ロシアが改正条約に調印したのでした。

しかし、これには日本側の妥協もありました。

それは、大審院(現在の最高裁判所に相当する場所)に外国人判事を置くというもので、このことが国内にバレたら反発は必須です。

そのため、交渉は水面下で行われていました。
それにも関わらず、1889年にイギリスの新聞、ロンドンタイムズにその内容が記載されてしい、その結果、日本国内で大隈重信に対する非難の声が巻き起こってしまいました。

大隈重信は自分を襲撃した犯人を賞賛している

1889年、閣議を終えて、馬車で官邸に戻ろうとしていた大隈重信に悲劇が起こります。

乗っていた馬車に爆弾が投げつけられたのです。
その影響で大隈重信は右足を負傷。
すぐに官邸内で手術をしましたが、右足膝上の切断を余儀なくされました。
ちなみに、爆弾テロの犯人は来島恒喜(くるしまつねき)という人物です。

来島恒喜は、右翼団体・玄洋社のメンバーで国粋主義者でした。

当然、条約改正の内容に強い不満を持っており、来島恒喜は襲撃後、その場で短刀で喉を突いて自殺したのでした。

普通であれば、自分を襲撃してきた相手のことは許せませんよね。

しかし、大隈重信は恒喜のことを

「外務大臣に爆裂弾をくわせる勇気は、蛮勇であろうとなんであろうと感心する」
と称賛したのです。

さらに、来島恒喜の命日には、妻の綾子とともにお墓参りも欠かさず行っていたそうです。
大隈重信の器の大きさがわかるエピソードですね。

まとめ:大隈重信は足を失ったきっかけを作った犯人を賞賛するほどの器の大きな人物だった

大隈重信は、不平等条約の改正を試みた結果、不満を持った来島恒喜に襲撃され、右足を失うほどの重傷を負うことになってしまいました。しかし、犯人の来島恒喜のことを責めるどころか、むしろ称賛していたという器の大きさを見せつけました。

今回の内容をまとめると、

  • ・重信は江戸時代に締結された不平等条約の改正を試みた
  • ・その結果、アメリカ・ドイツ・ロシアが調印してくれたが、それは条件付きのものだった
  • ・条約改正の内容に不満を持った国内では重信に対する非難の声が巻き起こった
  • ・その最たるものが、来島恒喜による爆弾テロであった
  • ・襲撃により重信は右足を切断することになり、義足での生活を余儀なくされた
  • ・重信の右足はホルマリン漬けにされ、現在も龍泰寺で保管されている
  • ・重信が使用していた義足も、早稲田大学や大隈重信記念館にて保存されている

大隈重信は、自分の切断した右足をどうしてホルマリン漬けにして保存しておこうと思ったのでしょうか?
ただ単に関係者に見せびらかすため?
それとも自分の体は自分の手元においておきたかったのか?
それとも、不満を持っている人物もいるということをしっかりと刻んでおくため?
理由は色々と考えられますが、真相はどうなのでしょうね。

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