徳川家康と豊臣秀吉の関係は?織田信長の家臣だった?戦ったことはある?
徳川家康(1543(天文11)〜1616(元和2))は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。織田信長、豊臣秀吉と並んで戦国三英傑と呼ばれており、天下を統一して江戸幕府を開きました。
また、2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、松本潤さんが徳川家康役を演じるということで注目が集まっています。
そんな徳川家康は、豊臣秀吉と生涯に渡り様々な立場で関わってきた2人は、どのような関係だったのでしょうか?
この記事では、徳川家康と豊臣秀吉の関係性について簡単に解説していきます。
目次
徳川家康と豊臣秀吉の関係性は?
徳川家康と豊臣秀吉は元々同僚のような立場でしたが、次第に主従関係のようなものに変化していきます。なぜそのような変化が起こったのでしょうか?
ここでは、家康と秀吉の関係性について簡単に解説していきます。
徳川家康と豊臣秀吉は織田信長の家臣だった?
徳川家康と豊臣秀吉の関係は、最初は会社の同僚のような関係で、二人とも織田信長に従っていたのです。
しかし、二人の立場は全く違いました。
豊臣秀吉は、正式な信長の家臣として活躍していました。
しかし、徳川家康は元々は織田信長の同盟相手でした(清洲同盟)。
つまり、徳川家康と織田信長は、同等の立場だったわけです。
清州同盟を結んだ当初は、徳川家康と織田信長の関係は確かに対等なものでした。
それは、2人の間に、時の将軍・足利義昭の存在があったからです。
徳川家康は足利義昭と直接コンタクトを取れる関係にありました。
そのため、織田信長が徳川家康に軍事援助を要請する際には、足利義昭を介する必要があったのです。
しかし、織田信長が足利義昭を京都から追放したことにより、2人の関係性は激変します。
徳川家康は、織田信長に臣従することを余儀なくされたのです。
その証拠に、長篠の戦いにおいて、信長は家康を国衆の一人として先陣を命じたとされています。
家康が国衆の一人として認識されていたのですから、信長の配下にあったことは間違いないでしょう。
このように、立場こそ違えど、家康と秀吉は同僚のような関係にあったのです。
徳川家康と豊臣秀吉は織田信長の死後対立した?
徳川家康と豊臣秀吉は同僚のような関係でしたが、織田信長が本能寺の変で討たれてから、その関係に変化が訪れます。
織田信長の亡き後、次に天下を取ろうと動き出したのは秀吉でした。
秀吉は、信長を討った明智光秀を破ると、その勢いのまま信長の重臣であった柴田勝家も破ります。
こうして、秀吉に対抗できるような人物は、家康以外にいなくなってしまうのです。
そこで、徳川家康は秀吉を止めようと、信長の次男であった信雄と手を組み、秀吉と対立したのが長篠の戦いです。
徳川家康と豊臣秀吉は戦ったことがある?
徳川家康と豊臣秀吉は実は一度だけ直接対決をしたこともあります。
その戦いではどちらが勝利したのでしょうか?
ここでは、家康と秀吉の戦いについて簡単に解説していきます。
徳川家康と豊臣秀吉が唯一直接対決した小牧・長久手の戦い
織田信長の死後、家康と秀吉は対立するようになり、家康と秀吉の唯一の直接対決である小牧・長久手の戦いが起こりました。
この戦いでは、約1万6千人の家康・信雄連合軍に対して、秀吉軍は約10万人と兵力に大きな差がありました。
しかし、家康・信雄軍は奮戦し、秀吉軍は手痛い敗北をするのです。
約8ヶ月にも及ぶ小牧・長久手の戦いは、秀吉から持ちかけられた講和を信雄が受諾する形で終わりを迎えます。
信雄の援軍という形で秀吉を止めようとしていた家康でしたが、2人が和睦したことにより秀吉を討つ理由を失い、家康は大人しく三河へと帰国するのでした。
この戦いで、両者はお互いの実力を知り、下手に戦わないほうがいいのではないかと考えます。もし、どちらかが潰れるまで戦ったら、第三者に漁夫の利を得られてしまう可能性が非常に高いからです。
そのため、2人は実質休戦状態へと突入していくのでした。
徳川家康は豊臣秀吉の亡き後、豊臣家を徹底的に潰した?
小牧・長久手の戦いの後、秀吉は天下統一を果たしていきます。
そうして、家康は結果的に秀吉の家臣として仕えることになります。
しかし、それは秀吉が死ぬまでの話。
豊臣家を支えるなどと考えているはずもなく、秀吉が亡くなると家康は天下統一に向けて動き出します。
関ヶ原の戦いで石田三成に勝利し、江戸幕府を開いた家康は無事に天下統一を果たした家康には、まだ不安の芽はありました。
それは、秀吉の遺したもの、つまり豊臣家です。
家康は、大阪冬の陣・夏の陣によって、豊臣家を滅亡に追い込みました。
また、秀吉は死後、神様として祀られていましたが、その神号も剥奪。
こうすることで、豊臣再興の希望を絶ったわけですね。
これらのことからもわかるように、家康は秀吉が死んでもなお、その影響力の大きさを危惧していました。2人は生涯お互いにお互いを意識せざるを得ないような関係だったのでしょう。
徳川家康を豊臣秀吉はどうやって従えた?
徳川家康と豊臣秀吉は、織田信長に仕えていたとはいえ、立場が違いました。
秀吉は正式な信長の家臣でしたが、家康は正式な信長の家臣ではなく、正確には同盟相手でした。
つまり、立場的に見れば、家康のほうが上だったのです。
しかし、信長の死後、家康は秀吉に仕えることになります。
秀吉はどうやって家康を従えることができたのでしょうか?
ここでは、秀吉が家康を従えた方法を簡単に解説していきます。
徳川家康を豊臣秀吉は朝廷の官位を利用して従えた?
徳川家康の力を認めた秀吉は、家康をなんとか臣従させようと、朝廷の官位を利用しました。
秀吉は、天下をとると、朝廷で1番偉い官位である「関白」になります。
そして、家康には「大納言」という関白よりも下の官位を与えられました。
こうすることにより、秀吉は
「自分のほうが家康よりも上だ」
という状況を作り出したのです。
ただし、これは状況がそうであるというだけで、実際に家康が家臣になったわけではありません。
会社の上司と部下の間にも、上下はあるものの、そこに主従関係のようなものはありませんよね?それと同じです。
しかし、この序列をあえて取り入れることで、秀吉は家康に対して
「貴方は並みの大名とは違って特別」
なのだと尊重する姿勢を見せつつ、世間に対して自分と家康の序列を可視化したのです。
しかし、これだけ序列を見せつけても家康を従わせることはできませんでした。
そこで、秀吉は妹を家康に輿入れさせたり、生母を岡崎へと送り込んだりと、周りをどんどんと固めていったのです。
そして、とうとう家康が観念して重い腰をあげ、秀吉に謁見するために大阪城へと向かうことになりました。そこで家康は、諸大名の前で秀吉に忠誠を誓います。
こうして家康は秀吉の家臣として、小田原征伐など様々な戦で大きな戦功をあげることになるのです。
徳川家康を豊臣秀吉は関東に配置した?
小田原北条氏を滅亡させ、天下統一を果たした秀吉は、家康に関東(武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部)への転封を命じました。
北条氏が破れたことにより、その先にいる奥羽のほとんどの大名は秀吉に服従する姿勢を見せましたが、まだまだ奥羽は不安定な状態でした。
そのため、その近辺も豊臣政権の支配を固める必要があったのです。
秀吉の本拠地は大阪城ですから、関東まではなかなか目が届きません。
当然そこには、信頼できて、力があるものが置かれるわけです。
そこで選ばれたのが、家康でした。
このことからも、秀吉が家康の力を認めていたということが伺えますね。
まとめ:徳川家康と豊臣秀吉は生涯のライバルであり、お互いに力を認めあっていた
徳川家康と豊臣秀吉は、小牧・長久手の戦いにて、お互いにお互いの力を認め合いました。その上で、秀吉は家康を敵に回してはいけないと考えたのです。その結果、どんなことをしても、家康を従えようと決めたわけですね。結果的に、家康と秀吉は協力して天下統一をすることになりました。
今回の内容をまとめると、
- ・徳川家康と豊臣秀吉は、最初織田信長に仕える同僚のような関係だった
- ・信長の死後、家康と秀吉は対立し、小牧・長久手の戦いにて戦った
- ・家康の力を認めた秀吉は、様々な手段を用いて家康を従えた
- ・秀吉の死後、家康は徹底的に豊臣家を潰した
家康も秀吉もお互いの力を認めあっていたからこそ、協力関係に収まりました。もしお互いの力量を見誤り、どちらかが潰れるまで戦っていたとしたら、両者とも確実に衰退してしまっていたでしょう。そして、そうなっていたとしたら、天下を取っていたのはこの2人のどちらでもなかったかもしれませんね。