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板垣退助の死因は?暗殺された?晩年はどう過ごした?最後の姿はどうだった?

板垣退助(1837(天保8)〜1919(大正8))は、明治維新の元勲で、自由民権運動の指導者として活躍しました。東アジアで初となる帝国議会を樹立し、「国会を創った男」としても知られています。
そんな板垣退助の死因はなんだったのでしょうか?
この記事では、板垣退助の晩年の過ごし方や死因について簡単に解説していきます。

板垣退助の死因は病死

板垣退助は、暗殺事件もあったことから、暗殺されて亡くなったと思っている方が多いかもしれません。しかし、実際は病死だったのです。
ここでは、板垣退助の死因について簡単に解説していきます。

板垣退助の死因は肺炎?

板垣退助は1919年に肺炎で亡くなりました。享年83歳でした。

それは、風邪をこじらせた肺炎か、誤飲性肺炎か、原因ははっきりとはしていません。
83歳というと、当時としては長生きしたほうだと言えるでしょう。

また、板垣退助はかねてから華族一代論を唱えていました。
板垣退助の死後、息子の鉾太郎は父の意志を実践するため、自ら廃嫡し爵位を受け継ぐことはありませんでした。

板垣退助の晩年の過ごし方は?

板垣退助は、晩年政界引退後も自由民権運動に注力していました。
それは、自分の私財も惜しみなく使ってしまうほどで、なんと最後には、自分の屋敷まで売り払ってしまったのでした。

屋敷を売り払ってしまった退助は、友人の住まなくなった家を借りて、趣味の相撲と競馬を楽しみながら余生を過ごしたそうです。

特に相撲は本当に好きだったようで、相撲協会の役員になったり、国技館の設立にも貢献しました。
そんな板垣退助の葬儀の際には、力士たちが棺を担ぐ場面もあったそうです。

板垣退助は暗殺されそうになった?

板垣退助は、肺炎で亡くなりました。
しかし、実はそれ以前に暗殺されそうになったこともあるのです。

ここでは、板垣退助の暗殺事件について簡単に解説していきます。

板垣退助は演説の後に突然刺された?

1882年(明治15年)4月6日、自由党の総理だった板垣退助は、岐阜・金華山麓の中教院での懇親会に出席し、2時間にわたる演説を行いました。

演説を終え、午後6時頃に会場から宿舎に向かおうとしたところ、入り口を出た瞬間に短刀を持った刺客に襲われました。
これが、板垣退助の暗殺事件です。

板垣退助はこれにより、手や胸を負傷しました。
何箇所も刺されましたが、奇跡的に一命をとりとめ、退助はその後37年も生きました。

板垣退助の暗殺未遂事件は、板垣退助が45歳のときの出来事でした。

板垣退助は暗殺事件の犯人を助けた?

この暗殺事件の犯人は相原尚褧(あいはらなおぶみ/なおふみ/しょうけい)という、小学校教員でした。

民権派に強い嫌悪感を抱いていたが故に、そのトップだった板垣退助を殺害しようとしたわけです。

当然、このようなことをした相原尚褧は極刑を免れません。

しかし、板垣退助はそれをよしとせず、相原尚褧に対する助命嘆願書を提出します。

なんと、自分を殺そうとした相手を助けようとしたわけです。

こうして、尚褧は無事極刑を免れ、無期徒刑となります。
さらには、板垣退助は恩赦歎願書を明治天皇へと奉呈したのです。そして、相原尚褧は釈放されました。

板垣退助は、相原尚褧が私心ではなく、国のためを思って行動したことを尊重し、このような行動に出たのでした。
この板垣退助の行動に、尚褧は改心し、釈放後には板垣退助に謝罪しに来ています。

その際、板垣退助は謝罪を受け入れた上で、
「もし私が国のためにならないような誤ったことをした際には、斬るなり刺すなり君の思うままに振る舞われよ」

と尚褧に伝えています。

いかに板垣退助が国のために活動していたのか、そして広い懐を持っていたのかがわかるエピソードですね。

板垣退助は暗殺事件の際「板垣死すとも自由は死せず」の名言を残した?

板垣退助は暗殺事件の際に、
「板垣死すとも自由は死せず」
という名言を残したと言われています。

この言葉に聞き覚えがある方も多いのではないでしょうか?

しかし、この名言は、実は板垣退助が言ったのではないのではないか?とする説も存在するのです。
ここでは、板垣退助が残した名言について簡単に解説していきます。

板垣退助の名言は別人が言ったものだった?

板垣退助は暗殺事件の後に、刺された時は「アッと思うばかりで声も出なかった」と回想しています。また、「痛い痛い、医者を呼んでくれ」と言ったとする話もあるのです。

そのため、「板垣死すとも自由は死せず」なんて言える状況ではなかったのではないかと考えられます。

それでは、この
「板垣死すとも自由は死せず」

という言葉は、誰が言ったのでしょうか?

それは、退助の秘書だった内藤魯一だと言われています。

後の新聞の取材で、内藤魯一のセリフを、板垣退助が言ったことにしたのです。

確かにかっこいい言葉ですし、板垣退助の人気も自由党の支持率も上がると見込んだのでしょう。

他にも、本当は
「吾死するとも自由は死せん」
と発言していたという説や、
「自由は永世不滅なるべき」
と笑ったとする説、
土佐弁で医者を呼んでくれと
叫んでいたという説など、複数の説が存在しており、真相は判明していません。

板垣退助がこの名言を実際に言ったとする説が、近年では定説に?

この「板垣死すとも自由は死せず」という名言は、ずっと後に創作されたものだったのではないか?とされてきました。しかし、近年では、本当に板垣退助が言ったのではないか?とする説が定説になりつつあるのです。

それの証拠として挙げられるのは、板垣退助を見張っていた警察官の報告書です。

この警察官の暗殺事件時の報告書によると、
板垣退助は東面して(犯人側を向いて)立ち、左面より出血するとき「吾死するとも自由は死せん」
と吐露したと記されています。

この警察官は、板垣退助のことを監視する政府の密偵なので、板垣退助のことをたてる必要も美化する必要もないのです。
つまり、見たままの状況をそのまま報告したと考えるのが自然だろうと考えられているわけなのです。

また、事件後に出された自由党本部報(臨時報)には、事件の詳細について、駆けつけた側近たちが板垣退助を抱いて運ぶ中で、「板垣は死するも自由は亡(ほろ)ひす」と発したと描写されています。

このように、事件後の各新聞は「犯人に言った」「側近に言った」「両方の場面で言った」の3種類に分かれていたそうです。

文言についても、「日本の自由は滅せざるなり」「自由の精神は死なぬ」などと複数の表現がされていました。

そのため、「板垣死すとも自由は死せず」という名言は、そのままのセリフで言われていたかどうかはわかりませんが、板垣退助自身が、近いニュアンスの言葉を発していた可能性は十分に高いと言えるでしょう。

まとめ:板垣退助は死ぬ間際まで自由民権運動に注力していた

板垣退助は、その生涯をかけて自由民権運動に注力してきました。その結果、暗殺までされそうになるのですが、最後は肺炎にてその生涯を閉じました。

今回の内容をまとめると、

  • 板垣退助の死因は肺炎
  • 暗殺事件も起きたことがある
  • 暗殺未遂の際に「板垣死すとも自由は死せず」という名言を残したと言われている
  • 一命をとりとめた退助は、暗殺事件の犯人の命を助けた

板垣退助は自分の私財を投げ売ってまで自由民権運動に力を注いでいました。
そのくらい力を注いでいたからこそ、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉が後世にも強く伝えられていったのかもしれませんね。

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