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孝明天皇の家系図を簡単に解説!子孫は?皇后は?明治天皇との関係は?

孝明天皇(1831(天保2)〜1867(慶応2))は、第121代天皇(在位期間:1846(弘化3)〜1867(慶応2))です。
幕末の動乱期に即位し、尊皇攘夷を貫き通しました。

そんな孝明天皇の家族構成どうだったのでしょうか?
また子孫はいるのでしょうか?
この記事では、孝明天皇の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。

孝明天皇の家系図を簡単に解説!

孝明天皇の家系図

孝明天皇の家族構成は?

【孝明天皇のプロフィール】

孝明天皇(こうめいてんのう):1831年(天保2年)〜1867年(慶応2年)/満35歳没
在位期間:1846年(弘化3年)〜1867年(慶応2年)
父:仁孝天皇/母:正親町雅子
女御:英照皇太后(九条夙子)
典侍:坊城伸子、中山慶子、堀河紀子、今城重子、今城尚子

孝明天皇は、1831年(天保2年)に仁孝天皇の第4皇子として誕生し、熙宮(ひろのみや)と命名されました。1846年に仁孝天皇が崩御したことにより、践祚しました。

その後、孝明天皇は、女御と呼称される妻が1人、典侍と呼称される妻が5人できます。そして、それぞれの妻たちとの間に子どもは全部で6人(男児2人、女児4人)生まれました。

江戸時代後期の当時では、子供の平均人数が3人でしたので、比較的子沢山と言えるでしょう。

孝明天皇の正妻は皇后にならずして皇太后になった?

江戸時代の天皇の妻には階級が有り、皇后、准三后、女御といった順番で決められていました。

また、典侍や掌侍といった身分の方もいますが、それは正妻ではなく側室となります。

孝明天皇の正妻は英照皇太后という人物です。

英照皇太后は正妻だったので、結婚する際に女御から皇后に昇格させようと孝明天皇は考えていました。しかし、幕府の反対にあい、まずは准三后になることになりました。

その後皇后に昇格する予定でしたが、皇后に昇格する前に孝明天皇が崩御してしまいます。

そのため、英照皇太后は皇后にならぬまま、明治天皇の即位によって皇太后の立場になりました。

孝明天皇の子孫は現在も続いている?

孝明天皇は全部で6人の子どもを残しました。それでは、その子孫は現在も続いているのでしょうか?
ここでは、孝明天皇の子孫について簡単に解説していきます。

【現存する孝明天皇の子孫】

  • 常陸宮正仁親王
  • 平成上皇
  • 秋篠宮文仁親王
  • 黒田清子
  • 今上天皇
  • 愛子内親王
  • 小室眞子
  • 佳子内親王
  • 悠仁親王

孝明天皇の子どもで生き残ったのは明治天皇だけ?

先程孝明天皇の子どもは全部で6人いましたが、その中で生き残ったのは、明治天皇だけなのです。

つまり、孝明天皇の子孫として現在まで存続している家系は、明治天皇の子孫の系統のみとなります。

孝明天皇の兄妹で生き残ったのは、和宮と桂宮淑子内親王?

それでは、孝明天皇と同じ血を分けた兄妹の子孫は続いているのでしょうか?

孝明天皇の兄妹は全部で15人いました。しかし、その中で成人するまで生き残ったのは、和宮と桂宮淑子内親王のたった2人です。

和宮は公武合体の象徴として将軍と結婚させるために、婚約者と別れさせられ、桂宮淑子内親王は結婚直前に夫を亡くすという悲劇の2人です。

この2人にも子どもはおらず、仁孝天皇の血筋は本当に明治天皇のみが受け継いでいた、ということになりますね。

\ 和宮についてはこちらの記事でも詳しく解説しております /

孝明天皇と明治天皇の関係は?

孝明天皇の血を引いているのは明治天皇だけだと先ほどお伝えしましたが、実はそれは違うのではないかとする説もあるのです。
ここでは、孝明天皇と明治天皇の関係について簡単に解説していきます。

  • 孝明天皇と明治天皇は親子ではない?
  • 実は明治天皇は別人にすり替わった?

孝明天皇と明治天皇は親子ではない?

孝明天皇と明治天皇は親子です。

しかし、明治天皇は、正妻である英照皇太后の実子ではありません。
明治天皇は、典侍の中山慶子との間に生まれた子です。

英照皇太后には男の子が生まれなかったので、明治天皇が1860年に儲君と定められ、英照皇太后の実子ということにされました。

つまり、英照皇太后からしてみたら養子だったわけですね。

明治天皇は別人にすり替わった?

実は孝明天皇と明治天皇が、本当の親子ではないのではないかとする説も存在します。
つまり、明治天皇がすり替わっていたのではないかと言われているのです。

明治天皇の即位前と即位後の写真が残されているのですが、即位前はとても身体が小柄で虚弱体質でした。

しかし、即位後は体重80キロを超えた立派な体格になっており、乗馬を好んでいたとされています。また、利き手が右手から左手になっていたり、きれいだった字が大きく変わってしまっていたりと、様々な違いが見られたのです。

一体、誰とすり替わったのでしょうか?

それは、伊藤博文が率いていた隊士の、大室寅之祐だと言われています。

この大室寅之祐は、南北朝時代の後醍醐天皇の末裔でした。
つまり、南北朝時代の終わりからずっと北朝の血筋が続いていたものが、明治天皇の代になって南朝の血筋へと移ったということになります。
また、伊藤博文が率いていた隊士ということで、裏で操りやすいということもあったのかもしれません。

真実はどうかはわかりませんが、もし本当にそうだとしたら、伊藤博文の手のひらの上に朝廷までもが乗せられていたということになるのでしょう。

まとめ:孝明天皇の血筋は明治天皇のみが受け継いだが、その明治天皇も本人かどうか怪しい

孝明天皇には子どもが6人いましたが、成人したのは明治天皇のみでした。
そのため、孝明天皇の血筋は明治天皇のみが受け継いでいたということになります。
しかし、その明治天皇にはすり替わり説が存在し、本当に血が繋がっているのかどうかが怪しいところでした。

今回の内容をまとめると、

  • 孝明天皇には6人の妻がいた
  • 孝明天皇には、その妻たちとの間には6人の子どもが生まれた
  • 孝明天皇の6人の子どものうち成人したのは、明治天皇ただ一人だった
  • 孝明天皇の血筋を引くのは、明治天皇の系統のみとなった
  • 明治天皇にはすり替わり説が存在している

天皇の血筋は万世一系と言われています。そのため、途絶えるなんてことがあってはなりません。他の兄妹が全員亡くなってしまった明治天皇のプレッシャーは、とてつもなく大きなものだったでしょう。

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