王政復古の大号令とは?わかりやすく解説!なぜ、いつ起きた?中心人物は?
王政復古の大号令とは、江戸時代末期の1868年(慶応3年)12月9日に明治天皇の名によって、天皇親政が宣言された政変のことです。
これによって、武家政権が終わりを迎え、天皇親政に移り変わっていくことになるのですが、なぜ王政復古の大号令は行われることになったのでしょうか?
この記事では、王政復古の大号令の目的や中心人物など、簡単に解説していきます。
目次
王政復古の大号令とは?
王政復古の大号令は、明治天皇の名によって天皇親政が宣言された政変のことです。では、具体的にどのようなことをしたのでしょうか?
ここでは、王政復古の大号令について簡単に解説していきます。
王政復古の大号令はいつ、どこで?何をした?
王政復古の大号令は、1868年(慶応3年)12月9日に京都御所にて行われました。
「大政奉還」を受けて、
「このままでは、またしても徳川家による治世が始まってしまう」
と焦った薩長を中心とする倒幕派が、宮廷クーデターを起こすのです。
いつもの朝廷会議が終わり、公家たちが御所から出ると、薩摩藩とその仲間の藩(土佐藩、広島藩、尾張藩、福井藩)の兵が事前に示し合わせて、幕府と親しい公家を締め出した状態で御所の門を閉じ、御所を占拠しました。
そして、その状態で明治天皇の名で「王政復古の大号令」を発令したのです。
王政復古の大号令のクーデターはなぜ起こった?
王政復古の大号令を出すためのクーデターはなぜ起こったのでしょうか?
それには、この時代の情勢が強く影響しています。
当時の幕末の情勢は
「攘夷・天皇・公論の3つの正当性をめぐる争奪戦であり、典型的な政治闘争であった」
といわれています。
ペリー来航以来、世間では尊王攘夷運動が盛んになりましたが、外国との技術力の差を思い知った人々は、次第に倒幕へと動き出します。
尊王攘夷運動と倒幕という2つが活性化したとき、時の将軍・徳川慶喜はその動きを鎮めるために「大政奉還」を行います。
このことにより、武力倒幕の大義名分を失ってしまった薩長を中心とした倒幕派は焦りました。何故なら、朝廷に政治を動かすノウハウはなく、このままだとこの先も、未だに権力を持ち続けている徳川家主導の政治が続いていってしまうからです。
新しい外国に対抗しうる政府を作るには、武家政権が築き上げてきた旧体制や徳川家の存在は邪魔でした。
そのため、それらを排除するために王政復古の大号令が行われたのです。
王政復古の大号令の目的は?
先ほどお伝えしたように、王政復古の大号令の主な目的は、旧体制と徳川家の排除です。
倒幕の正当性を失ってしまった薩長を中心とする倒幕派が、現状を打破し、主導権を握り返すために行ったのです。
そして、主に目指したものは2つありました。
・将軍・摂政・関白の代わりになる総裁・議定・参与の三職を設置すること
・将軍を中心とする幕府や、平安時代のように有力な公家が主導する旧来の政治機構を解体する
この際徳川慶喜はどの職にも任命されませんでした。
また、徳川慶喜だけではなく、それまで徳川慶喜に協力してきた、会津藩主、桑名藩主も三職から除外されました。これにより、徳川家の勢力の政治的な影響力を排除しました。
王政復古の大号令の中心人物は?
王政復古の大号令の中心人物は、薩摩藩の大久保利通と西郷隆盛です。
2人は公家の岩倉具視と協力しながら、王政復古の大号令を発する準備を進めていきました。
1867年12月8日、岩倉具視は自邸に尾張・越前・薩摩・土佐・安芸の各藩代表者を招き、翌日に王政復古を断行することを伝達します。
そして、それにあたり、各藩の藩兵によって京都御所の各門を封鎖する割り当てを行いました。
翌9日、朝廷会議が終わったタイミングで、宮廷クーデターを決行したのでした。
王政復古の大号令の内容は?
王政復古の大号令によって、徳川家が政治から追放されるなどしました。
それでは、その具体的な内容はどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、王政復古の大号令の内容について簡単に解説していきます。
王政復古の大号令の原文は?訳は?
【王政復古の大号令の原文】
徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シメサレ候。抑癸丑以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所二候。之二依リ叡慮を決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮二総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハセラルベシ。諸事神武創業ノ始二原キ、縉紳・武弁・堂上・地下ノ別無ク、至当ノ公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バサルベキ叡慮二付、各勉励、旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。
(現代語訳)
内大臣徳川慶喜がこれまで天皇から御委任されていた政権を返上し、将軍職を辞退したいという二つの申し出を、このたびきっぱりとお聞き入りになられた。
それにしても、嘉永6年のペリー来航以来、いまだかつてなかった国難が続き、先の孝明天皇が毎年大御心を悩ませられていた事情は人々の知るところである。
そこで明治天皇はお考えを決められて、王政復古、国威回復の御基本を確立されたので、今からは摂政・関白・幕府などを廃止し、直ちにまず仮に総裁・議定・参与の三職を置かれ、天下の政治を行われることになった。
すべて神武天皇が始められたのにもとづき、公卿・武家・殿上人・一般の区別なく正当な論議をつくし、国民と喜びと悲しみをともにされるお考えなので、おのおの勉励し、従来のおごり怠けた悪習を洗い流し、忠義をつくして国に報いる誠の心をもって奉公するようにせよ。
王政復古の大号令の主な内容は5つ?
王政復古の大号令の主な内容は5つありました。
【王政復古の大号令の主な内容】
- 徳川慶喜の将軍辞職の許可
- 幕府の廃止
- 摂政・関白の廃止
- 三職(総裁・議定・参与)の設置
- 京都守護職と京都所司代の廃止
まず、大政奉還にて提案された徳川慶喜の将軍辞職と、幕府の廃止が正式に認められます。これにより、約260年続いた江戸幕府が終わりを迎えました。
さらに、朝廷の中枢を担っていた摂政・関白も同時に廃止されています。
これにより、幕府だけではなく、旧来の朝廷の支配構造も解体されたのです。
そして、これらに代わる新たな役職として、三職(総裁・議定・参与)が設置されました。
・総裁:将軍や摂政・関白に代わって、国事を管轄するために設置され、有栖川宮熾仁親王が任命された
・議定・参与:総裁の下で議論を行い、政策策定に参加することが認められた役職。議定には皇族や公家、有力諸侯などが任命され、参与には雄藩の藩士が任命された
なお、先程もお伝えしたように徳川慶喜はこのどの職にも任命されていません。
最後の京都守護職と京都所司代の廃止にあたっては、慶喜に協力していた桑名藩と会津藩の政治参加をさせない狙いがありました。
以上のように、王政復古の大号令によって徳川勢力の徹底排除が行われたのでした。
「王政復古の大号令」「大政奉還」「五箇条の御誓文」これらの違いは?
「王政復古の大号令」と共によく出てくる言葉として、「大政奉還」や「五箇条の御誓文」というものがあります。
これらの違いはなんでしょうか?それぞれを簡単に解説してみます。
- ・王政復古の大号令:明治天皇が新たな政府の設立を宣言したこと
- ・大政奉還:幕府が持っていた政権を明治天皇(朝廷)に返上すること
- ・五箇条の御誓文:明治政府が新しい政治体制を整えるために発表した基本方針のこと
時系列で言えば、大政奉還が一番先に行われ、その後に王政復古の大号令、そして五箇条の御誓文という流れになります。
つまり、大政奉還で、幕府から天皇に政権が返上され、王政復古の大号令で明治天皇が新しい政府を設立すると宣言。そして、五箇条の御誓文によってその政府の方針が示されたというわけです。
王政復古の大号令のその後の影響は?
王政復古の大号令には、主に5つの内容がありました。
それでは、その王政復古の大号令が出たことによって、どのような影響があったのでしょうか?
ここでは、王政復古の大号令のその後の影響を簡単に解説していきます。
徳川家を政治から追放した?
王政復古の大号令が発令されたその日の夜、早速新たに任命された総裁・議定・参与による最初の会議が開かれました。
「小御所会議」と呼ばれるこの会議では、徳川慶喜の処遇について話し合われました。
そして、岩倉・西郷・大久保らの主張で、徳川慶喜の「辞官納地」が決まります。
「辞官」とは、徳川慶喜に与えられていた「内大臣」という朝廷の官職を辞めさせることです。つまり、徳川慶喜はもう朝廷とは関係ないということを宣告しました。
また、「納地」とは、徳川家の領地を全て取り上げるということです。
つまり、この辞官納地をすることによって、徳川家から権力も富も奪い去ってしまおうということですね。
こうして、薩長を中心とした新政府は、徳川家を政治から追放したのでした。
戊辰戦争が起こった?
先ほどお伝えしたように、徳川家は政治から追放され、権力も富も奪われそうになっていました。しかし、ここで待ったがかけられます。
山内容堂や松平春嶽ら藩主経験者が、
「将軍として全ての武士の頂点に立っていた慶喜公が大罪人のごとく扱われるのは見過ごせない」
として、徳川慶喜を擁護し始めたのです。
彼らの主張により、辞官については「前内大臣」という肩書きを新たに許可し、納地についても全てではなく半分没収という形になりました。
ここで焦ったのは徳川家を排除しておきたかった新政府の人たちです。
二度と徳川家が復活しないように動いていたのに、これではまたいつか復活してしまうかもしれません。
そうならないようにするために、西郷隆盛が秘策を実行します。
それは、江戸市中で薩摩藩士らに騒乱を起こさせることでした。
強盗・略奪・放火など何でもありの無茶苦茶な作戦でした。
これは、旧幕府軍に対する挑発行為でした。
つまり、旧幕府軍を怒らせ、先に手を出させて戦争に持ち込ませようとしたわけです。
そして、西郷の思惑通り、旧幕府軍は耐えきれずに江戸の薩摩屋敷を武力攻撃してしまいます。
この知らせを受けた徳川慶喜は、薩摩藩との決戦を決意します。
こうして1868年(慶応4年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが始まったのです。
そして、この戦いから始まる旧幕府軍と新政府軍の戦いを戊辰戦争と呼びます。
戊辰戦争は約1年半余り続き、各地で旧幕府軍と新政府軍が戦うことになりました。
まとめ:王政復古の大号令は政治から徳川家を追い出し、新しい政治を作っていくのに必要なものだった
王政復古の大号令は、新政府を作っていこうとした倒幕派が、徳川家の政治介入を阻止するために行ったものでした。
その結果、新しい政治体制を作ることには成功しましたが、旧幕府軍の反発を招き、戊辰戦争が起こることとなりました。
今回の内容をまとめると、
- 徳川慶喜は倒幕派の勢いを無くすために大政奉還を行った
- 政権を返上しても徳川家は政治の実権を握ろうとしていた
- 外国に対抗しうる新しい政府を作るのに徳川家や旧来の政治体制は邪魔だった
- 旧来の政治体制を排除するために、西郷・大久保らが王政復古の大号令を発した
- 王政復古の大号令によって徳川家は政治から追放されるはずだったが、うまくいかずに、結局旧幕府軍と新政府軍とで戦争が起きた(戊辰戦争)
天皇を巻き込んだクーデターなんて、今では考えられません。
しかし、この時に西郷らが行動を起こしてくれたおかげで、今の政治体制が出来上がったと言っても過言ではないでしょう。もし王政復古の大号令がなかったら、今でも徳川家が政治の中心にいたかもしれませんね。