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大政奉還をわかりやすく解説!なぜ?その後の日本はどうなった?坂本龍馬も関係してる?

大政奉還は、1867年(慶応3年)10月14日に江戸幕府が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許したことです。

それでは、幕府はなぜ大政奉還をすることになったのでしょうか?
また、大政奉還をしたことによってどのような影響が起こったのでしょうか?
この記事では、大政奉還についてわかりやすく簡単に解説していきます。

大政奉還とは?わかりやすく解説!

大政奉還をすることによって、江戸幕府は終わりを迎えることになりました。

それでは、大政奉還とはいつどのようにして行われたのでしょうか?
また、なぜ大政奉還することになったのでしょうか?

ここでは、大政奉還について簡単に解説していきます。

大政奉還はいつ、どこで?何をした?

大政奉還は、1867年(慶応3年)10月14日に、時の将軍・徳川慶喜が京都の二条城にて行われました。

具体的には、江戸幕府が有していた政権を、明治天皇(朝廷)に返上したのです。

日本では、鎌倉時代からずっと「武士」が政治の中心にいました。

朝廷から征夷大将軍を任命された武家政権のトップが、

「朝廷から権力を預かって政治を行う」

という仕組みが約700年続いていたのです。

その約700年も続いた武士による政治を終わりにする、それが大政奉還でした。

大政奉還をすることになったきっかけは?

大政奉還をすることになった大きなきっかけには、「黒船の来航」が挙げられます。

1853年(嘉永6年)、浦賀にペリー率いる軍艦4隻が来航しました。そして、長年鎖国していた日本に対して開国を要求してきます。外国との圧倒的な技術力の差を理解していた幕府は、戦争回避のため「日米和親条約」や「日米修好通商条約」といった日本にとって不利な条約を結んでいくのです。

当時の世の人々は、外国のことをよく知らないため、外国に怯えを覚えたり、外国に対して弱腰な幕府に不満を募らせたりしていきます。そして、次第に「外国を日本に入れたくない」「弱気な幕府に頼ることはできない」という思いから尊王攘夷運動が起こっていきました。

しかし、尊王攘夷運動は、下関戦争や薩英戦争を経て外国との実力差を知り、攘夷から開国へと思想を転換していきます。外国の技術などをどんどん取り入れて日本を強くしていこうと考えたわけですね。

しかし、ここで再び問題が発覚します。

開国し、再び日本が力をつけていくためには、江戸幕府の存在が邪魔になってくるのです。

再び力をつけたいにもかかわらず、当時の幕府は外国に怯えるあまり、次々と日本に不利な要求を受け入れてしまっていました。このままでは、外国に植民地化されるのも時間の問題です。

また、欧米列強に対抗するためには、日本を中央集権国家に改変する必要もありました。

それにするには、分権的な幕藩体制では難しかったのです。

さらに、近代的な軍隊ではないと欧米列強の侵略に対抗することができないのですが、それにするには武士階級の解体が必須でした。

以上の観点から、幕府に今まで通りいてもらっては困るということになり、倒幕運動が盛んになっていったのです。

その倒幕派の勢いは凄まじく、将軍・徳川慶喜は「このままでは徳川家が危ない」と考えます。
そして、倒幕派の勢いを無くすために大政奉還を決めました。

つまり、江戸幕府をなくすことで、倒幕をするという目的自体を潰そうとしたわけです。

なぜ大政奉還したのか?

大政奉還をした目的は、主に2つあります。

【大政奉還をした目的】

・徳川家存続のため

大政奉還には、倒幕派の勢いを無くすという大きな目的もありましたが、その実、本当の狙いは徳川家の存続にありました。

大政奉還が実現される直前、岩倉具視ら倒幕派は、明治天皇より倒幕の密勅を受け取っていました。

このままでは徳川家が潰されてしまうと危機を感じた土佐藩が、徳川慶喜へ政権の返上を勧めたとされています。

朝廷は、平安時代末期に武家政権に移行して以来実権を握ってこなかったため、政治のノウハウなどが全くわからず、政治を動かす力がありませんでした。

それに対して、徳川家は莫大な財産や領地を保持していることはもちろんのこと、約260年間政権を握ってきたという実績もあります。

そのため、たとえ天皇に政権を返上しても、引き続き徳川家が実権を握ることは可能であると考えられました。

・外国の支配から逃れるため

幕府や新政府軍は開国をした後、諸外国との武器の性能格差を埋めるため、外国から武器の支援を受けていました。

このとき、幕府はフランスから、新政府軍はイギリスから支援を受けていたのです。

つまり、このまま対立が続いていけば、イギリスとフランスが支援を建前に、日本で戦いを始めることは火を見るより明らかでした。

どちらが勝利しても外国の植民地になってしまうことが容易に予測できてしまいます。

そのため、対立することをやめ、外国の支配から逃れるために大政奉還をしたのです。

「大政奉還」と「王政復古の大号令」の違いは?

「大政奉還」という言葉と一緒によく出てくる言葉として、「王政復古の大号令」というものがあります。この違いはなんでしょうか?

「大政奉還」は、

「幕府が持っていた政権を明治天皇(朝廷)に返上する」こと。

対して、「王政復古の大号令」とは、

「明治天皇が新たな政府の設立を宣言したこと」となります。

薩長を中心とする倒幕派は、徳川慶喜の大政奉還の真の狙いをわかっていました。

なんとかして徳川家を排除しないと、新政府も従来の幕政の延長になってしまうと考えます。

そこで、宮廷クーデターを企てることにしたのです。

そのクーデターとは、薩摩藩とその仲間の藩(土佐藩、広島藩、尾張藩、福井藩)の兵が事前に示し合わせて、幕府と親しい公家を締め出した状態で御所の門を閉じ、明治天皇に新政府設立の宣言をさせるというものでした。

この宣言が「王政復古の大号令」です。

王政復古の大号令では、政府の組織として「総裁・議定・参与」の3つの職を置くことが規定されていました。そして、このどの職にも徳川慶喜が任命されることはありませんでした。こうして、徳川家は政治から排除されたのです。

大政奉還の中心人物は?

大政奉還は、江戸幕府が政権を明治天皇に返上したことでした。
それでは、大政奉還を行った人物や、それに影響を与えた人物は誰なのでしょうか?

ここでは、大政奉還の中心人物について簡単に解説していきます。

徳川慶喜

徳川慶喜は、15代将軍であり、大政奉還を行った人物です。

水戸藩主・徳川斉昭の7番目の子として産まれた慶喜は、兄弟の中でも優秀で、11歳になると一橋家に養子に入りました。そして、その後29歳の時に、15代将軍となるのです。

しかし、慶喜が就任した時点で、幕府はすでに瀕死状態でした。そして、尊王攘夷運動が活性化し、倒幕の動きが出てきてしまいます。

慶喜は土佐藩からの提言を聞き入れ、大政奉還を行うことにするのです。

政治から遠のいた慶喜は、その老後を趣味の狩猟や写真などに没頭して静かに暮らしたと言われています。

坂本龍馬

坂本龍馬は、尊王攘夷運動が高まる中、多くの人と交流し、攘夷論を超えた国際的視野に立つ、日本の未来像を描いた人物です。

勝海舟のもとで航海術を学び、貿易や海運業を通じて広い視野を持つようになった龍馬は、「船中八策」という日本の未来像を具体的に示したものを著します。

船中八策には、憲法の制定や議会の設置、平和的外交、貨幣制度の整備など、当時としては画期的なアイディアが詰め込まれていました。

中でも、船中八策の中で示された「大政奉還」は、土佐藩を通じて時の将軍・徳川慶喜に提案されたと言われています。

しかし、近年では、「船中八策」は後の創作だったのではないかとする説が有力になってきています。そのため、大政奉還には直接的には関わっていないとも考えられています。

山内容堂

大政奉還は、土佐藩によって建白書が提出されたと言われています。

その土佐藩の当時のトップだったのが、山内容堂です。

山内容堂は、同じく土佐藩の後藤象二郎に大政奉還を進言され、賛同し、慶喜に建白書を提出しました。

それでは、何故土佐藩は、そのような役割を果たしたのでしょうか?

それは土佐藩が、幕府寄りのスタンスを取っていたからです。

土佐藩山内家は、藩祖・山内一豊が関ヶ原の戦いに貢献した恩賞として、徳川家康から土佐一国を与えられました。

そのため、徳川家に対して深い恩義を抱いていたのです。

したがって、薩長が進める武力倒幕には否定的で、たとえ幕府が潰れたとしても徳川家が生き残れるようにと大政奉還を提案したと言われています。

大政奉還後の日本はどうなった?

大政奉還をしたことによって、政権は江戸幕府から明治天皇へと返上され、江戸幕府は終わりを迎えました。それでは、その影響はあったのでしょうか?

ここでは、大政奉還後の日本がどのようになっていったのかを簡単に解説していきます。

江戸幕府は終わりを迎えたが、徳川慶喜が政権を握った

江戸幕府は大政奉還により、その約260年の歴史に幕を閉じることになりました。

しかし、幕府が終わりを迎えたからといって、徳川家の時代が終わるわけではありませんでした。

その理由としては、長年武士が政権を握ってきたということが挙げられます。

朝廷は、平安時代末期に武家政権に移行して以来実権を握ってこなかったため、政治のノウハウなどが全くわからず、政治を動かす力がありませんでした。

それに対して、徳川家は莫大な財産や領地を保持していることはもちろんのこと、約260年間政権を握ってきたという実績もあります。

そのため、たとえ明治天皇に政権を返上しても、引き続き徳川家が実権を握ることができたのです。

王政復古の大号令が出て、戊辰戦争が起こった

先ほどお伝えしたように、大政奉還をしたことにより、江戸幕府は終わりを迎えましたが、依然として徳川家の時代は続いていきそうでした。

しかし、このままではだめだと、倒幕派は「王政復古の大号令」を出し、徳川家を政治から追い出すことにします。そして、持っている土地などすべて差し出すように徳川家に迫りました。

これには徳川家も我慢することができず、新政府軍と旧幕府軍の戦いである戊辰戦争が始まります。

戊辰戦争の結果は、新型軍備を固めていた新政府軍の勝利に終わります。そして徳川家の治世が完全に終わりを迎えるのです。

こうして、再び天皇を中心とした政治へと戻るのでした。

まとめ:大政奉還は倒幕派の目的を無くすことに成功したが、そのまま徳川家の時代は終わりを迎えてしまった

大政奉還は、倒幕派の勢いを無くすために、江戸幕府が政権を明治天皇に返上したことでした。

時の将軍・徳川慶喜は江戸幕府が終わりを迎えても実権を握り続ける予定でしたが、新政府軍の勢いに負け、徳川家の時代はそのまま終わりを迎えてしまいました。

今回の内容をまとめると、

  • 黒船来航により、世の江戸幕府に対する不満がどんどん高まっていった
  • 江戸幕府を倒幕しようとする尊王攘夷運動が広まっていった
  • 倒幕派の勢いを無くすため、江戸幕府は大政奉還を行った
  • 大政奉還により江戸幕府は終わりを迎えたが、徳川慶喜は実権を握り続けようとしたが、新政府軍の勢いに負け、徳川家の時代は終わりを迎えた

大政奉還をしなければ、江戸幕府は勢いのある倒幕派の手によって倒され、多くの血が流れたかもしれません。どちらを選んでも江戸幕府は終わりを迎えていたのであれば、大政奉還を実行した徳川慶喜の決断は英断であったと言えるでしょう。

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