平賀源内とうなぎの関係は?土用の丑の日はいつ?その起源は?
平賀源内(1728(享保13)〜1780(安永8))は、江戸時代中期に活躍した発明家です。
平賀源内は発明家としての一面だけではなく、本草学者、蘭学者、地質学者、医者、殖産事業家、戯作者、俳人、浄瑠璃作者など様々な場で活躍していました。
そんな平賀源内は、実は土用の丑の日のうなぎと深い関わりがあるのです。
この記事では、平賀源内とうなぎの関係について簡単に解説していきます。
目次
平賀源内が土用の丑の日のうなぎを流行らせた?
実は土用の丑の日のうなぎは平賀源内が流行らせたと言われています。
どのようにして流行らせたのでしょうか?
ここでは、平賀源内と土用の丑の日の関係について簡単に解説していきます。
平賀源内がうなぎ屋に相談されたのが土用の丑の日の起源?
当時、うなぎは、夏場になかなか売れませんでした。
その理由は大きく2つあります。
1つは、夏がうなぎの旬ではないということ。
魚の旬は、産卵前の脂を蓄えた時期となります。
うなぎの産卵期は冬なので、秋〜冬が一番おいしい旬ということになりますね。
つまり、夏のうなぎは旬からはずれておいしくないと思われていたわけです。
もう1つは、当時のうなぎの蒲焼きの味にあります。
このときのうなぎの蒲焼きは非常に味が濃く、こってりしていました。
そのため、夏場の暑い日に食べるのには、少々合わなかったようです。
しかし、当然夏場にもうなぎ屋さんはうなぎを売りたいと考えます。
そこで、江戸で知恵者で有名な平賀源内に相談しに行ったのです。
相談された平賀源内は、うなぎ屋の店の前に、「本日土用丑の日」と書かれたとても大きな看板を置くように指示しました。
そして、うなぎ屋の店主に、
「精のつくうなぎは夏を乗り切るのに最適」
という宣伝文句を授けます。
すると、店先に置かれた看板を見て、多くの人が足を止めていきます。
そこにすかさず、うなぎ屋の店主が近寄り、平賀源内から授かった宣伝文句を伝えていきます。
こうして客をどんどんと集めていき、このうなぎ屋は夏場でも大繁盛したそうです。
そしてさらに、このうなぎ屋の繁盛ぶりをみて、他のうなぎ屋もそれを真似するようになりました。
こうして、土用の丑の日にはうなぎを食べるという風習が根付いたと言われています。
うなぎは縄文時代から食べられてきた?
そもそもうなぎはいつの頃から食べられてきたのでしょうか?
それは、最低でも縄文時代から食べられてきたと言われています。
その証拠として、約5000年前の貝塚からうなぎの骨が出土しているのです。
それは、特にうなぎの回遊経路となっている黒潮が流れる太平洋岸、特に東京湾や仙台湾周辺の遺跡から見つかっています。
実際は見つかっていないだけで、もっと古くから食べていたのかもしれませんが、正確なところはわかりません。
そんな古くから食べられているうなぎですが、奈良・平安時代あたりになると、スタミナの付く滋養強壮食として食べられるようになります。
現存する最古の歌集である『万葉集』では、大伴家持が
「石麻呂にわれもの申す 夏やせによしといふ物ぞ 鰻とりめせ」
という歌を詠んでいます。
今のように蒲焼きにして食べられるようになったのは江戸時代でした。
この蒲焼きの調理法は、日本独自の調理法で、そこには日本の文化がたくさんつまっています。
(調理するための切れ味の鋭い刃物、醤油や味醂といった発酵調味料など)
この時期には、どじょうや寿司、天ぷらなど多くの料理の基礎が確立されましたが、うなぎはその中でも最も人気の高い料理でした。
平賀源内はうなぎを好んで食べていた?
平賀源内もうなぎを好んで食べていたという文献が残っています。
特に、当時の江戸を詳説した自著『里のをだまき評』では、
「江戸前鰻が旅鰻よりはるかにうまい」
と、江戸前のうなぎへのこだわりを見せています。
また、明治期まで重版が繰り返されたベストセラー戯作集『風流志道軒伝』では、
「厭離江戸前大かば焼き」
と書いています。
つまり、「江戸前のかば焼きがない生活なんて考えられない」と言っているわけですね。
以上のことから、平賀源内がうなぎを愛していたということが伺えます。
平賀源内が流行らせた土用の丑の日はいつ?
土用の丑の日にうなぎを食べるようになったのは、平賀源内がきっかけでした。
それでは、その土用の丑の日とは、いつのことを指すのでしょうか?
ここでは、土用の丑の日について簡単に解説していきます。
土用の丑の日とはいつのこと?
「土用の丑の日」という言葉は、「土用」と「丑の日」という2つに意味をわけることができます。
「土用」は、季節の変わり目を表す言葉で、立春・立夏・立秋・立冬の直前の約18日間の期間を指します。
そして「丑の日」は、十二支の丑からきています。
当時の暦では、日にちを十二支で数えていました。12日周期だったわけです。
これらを合わせて考えると、「土用の丑の日」は土用の期間に訪れる丑の日を示しています。
土用の丑の日とは、夏のイメージが強い方が多いと思いますが、実は年に何回も存在しています。
しかし、平賀源内が広めた土用の丑の日が夏だったために、それが風習として根付き、今でも土用の丑の日といえば、夏というイメージがついたわけですね。
ちなみに、年によっては、夏に土用の丑の日が2回ある場合もあります。
この場合は、最初に訪れる土用の丑の日を「一の丑」、2回目に訪れる土用の丑の日を「二の丑」と呼んでいます。
用の丑の日に『う』のつくものを食べるとよいとする風習があった?
土用の期間というのは、季節の変わり目です。
つまり、気温の変化が激しかったりして体調を崩しやすい期間なのです。
このことから、日本では昔から土用の丑の日には、丑の日の「う」にちなんで、「う」のつくものを食べるとよいとする「食養生」という風習がありました。
特に夏バテしやすい夏土用の丑の日には、疲労回復効果のある梅干しや瓜、うどんなどを食べていた人が多かったようです。
平賀源内はこのことも考えて、精が付くうなぎを推したのでしょうね。
平賀源内以外の土用の丑の日の起源もある?
土用の丑の日を流行らせたのは平賀源内です。
しかし、平賀源内以外を起源とする説も存在しているのです。
ここでは、平賀源内以外の土用の丑の日の起源について簡単に解説していきます。
土用の丑の日にうなぎを食べるようになったのは春木屋の説?
ある時、春木屋に神田和泉橋の藤堂のお屋敷から、「旅に出るのに持っていきたい」と大量のうなぎのかば焼きの注文が入ります。
春木屋の主人・春木屋善兵衛は、子の日、丑の日、寅の日の3日に分けてうなぎを焼き、土蔵に貯蔵して3日間置きました。
すると、丑の日に焼いたうなぎだけが、色合い・風味とも変わらなかったのです。
そこで丑の日に焼いたうなぎを藤堂様にお納めしたところ、大変お褒めをいただいたそうです。
それ以来、春木屋は「土用丑の元祖」という看板を掲げました。
これを、土用の丑の日の起源とする説もあります。
土用の丑の日にうなぎを食べるようになったのは大田蜀山人の説
こちらの説は、江戸時代の歌人・狂言師の蜀山人(大田南畝)が、神田川といううなぎ屋に頼まれ、
「丑の日に、うなぎを食べたら病気にならない」
という内容の狂歌を作って宣伝したことが起源だとしています。
まとめ:平賀源内がうなぎ屋に相談されたことから土用の丑の日のうなぎが広まった
江戸時代にうなぎのかば焼きが開発され、人々の人気を集めました。
しかし、夏はうなぎの旬ではなくなかなか売れませんでした。
そこで、うなぎ屋に相談された平賀源内が、「本日土用の丑の日」と書かれた看板を置くように指示したところ、うなぎが売れるようになり、そこから土用の丑の日のうなぎが広まっていきました。
今回の内容をまとめると、
- 江戸時代にうなぎのかば焼きが開発され、人々の人気を集めた
- 夏はうなぎの旬ではないため、なかなか売れなかった
- うなぎ屋は、江戸で知恵者として有名な平賀源内に相談した
- 平賀源内は「食養生」の風習を利用し、「本日土用丑の日」と書かれた看板をうなぎ屋の店先に置くように指示した
- 平賀源内の狙いは当たり、それ以来夏にもうなぎが売れるようになった
- それを見た他のうなぎ屋も真似したところ、土用の丑の日のうなぎが根付いた
たった1人のキャッチコピーがあっただけで、全く売れなかったうなぎが飛ぶように売れていくなんて、いかに平賀源内が当時のインフルエンサーであったのかが伺えますね。