池田屋事件をわかりやすく解説!原因は?中心人物は?その後の影響は?
池田屋事件(1864年(元治元年))は、池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、新撰組が襲撃した事件です。池田屋の変、池田屋事変、池田屋騒動とも呼ばれています。
池田屋事件は、なぜ起こったのでしょうか?
またこの事件によってどのような影響があったのでしょうか?
この記事では、池田屋事件について簡単に解説していきます。
目次
池田屋事件をわかりやすく解説!
池田屋事件は、池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士を新撰組が襲撃した事件でした。
池田屋事件はいつどこでなぜ起こったのでしょうか?
ここでは、池田屋事件について簡単に解説していきます。
池田屋事件とは?いつどこで起こった?
池田屋事件は、1864年(元治元年)6月に、新撰組が池田屋に集まっていた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃した事件です。
池田屋とは、京都にある旅館のことで、ここに多くの尊王攘夷派の志士が潜伏していました。
また、新撰組は、会津藩の下で警察のような治安維持の仕事をしていました。
そして、京都内で潜伏している尊王攘夷派志士たちが、よからぬ企みをしているという情報を聞きつけ、取り締まるために池田屋に襲撃しに行ったというわけです。
池田屋事件が起こった原因は?
池田屋事件が起きた原因は、八月十八日の政変まで遡ります。
八月十八日の政変とは、簡単に言うと、過激に攘夷活動をしている長州藩を朝廷から追放した事件です。これにより、長州藩は追放されたものの、一部は京都に潜伏して反撃しようとしていました。
これを新撰組は、たまたま捕縛した浪士から聞きつけ、ただちに探索を開始して、商人・桝屋喜右衛門の家宅捜索に踏み切るのです。
家宅捜索をすると、なんと店舗の地下倉庫からおびただしい量の火薬と銃が発見されます。
また、隠された書状から、のちの池田屋事件のきっかけとなる連判状も見つかり、桝屋喜右衛門の正体も発覚。
本当の名前は「古高俊太郎」という、筋金入りの尊王攘夷派だったのです。
この古高俊太郎を新撰組は連行し、拷問をかけて尊王攘夷派の陰謀を自供させます。
その際に発覚した計画が以下のとおりです。
- 1864年(元治元年)6月20日前後、強風の夜を選んで御所の風上に火を放つ
- 慌てて参内してくる公家連中を片っ端から捕縛
- 公武合体派の領袖・久邇宮朝彦親王を幽閉し、京都守護職の会津藩主・松平容保は斬殺
- 天皇を長州へ連れ去る
この情報を聞いた新撰組局長・近藤勇は、ただちに京都所司代と京都守護職に報告します。
京都守護職には、同日の出動を要請しており、新撰組にも動員をかけました。この時点で6月初旬だったため、行動は急いだほうがいいと判断したのです。
こうして、池田屋事件が起こりました。
池田屋事件の結果は?
池田屋事件当日、新撰組は攘夷志士達の潜伏場所を探すために、3部隊(近藤隊、土方隊、井上隊)に分かれて市中へと繰り出しました。
そして、午後10時過ぎに近藤隊が池田屋で30名ほどの攘夷志士を発見し、討ち入りを開始します。
暗闇の中斬り合いが始まり、池田屋は騒乱のるつぼとなりました。
最初は戦いに慣れていた新撰組が有利でしたが、戦いの最中に、沖田総司が病に倒れ、藤堂平助は額を斬られ視界が塞がり戦闘ができない状態になってしまいます。
こうして後退を余儀なくされた新撰組でしたが、まもなく土方隊が合流。
そこから新撰組は盛り返し、かろうじて勝利を治めることに成功したのでした。
そして、肥後藩の宮部鼎蔵や長州藩の吉田稔麿など大物浪士9人を討ち取り、他にも4人を捕縛します。さらに、京都市中掃討も行い、20名近くの浪士を召し捕りました。
池田屋事件と寺田屋事件、近江屋事件の違いは?
池田屋事件とよく間違われる、近い時期に起きていた事件が、「寺田屋事件」と「近江屋事件」です。これらの違いを簡単に解説していきます。
・寺田屋事件
寺田屋事件は、1862年5月21日に薩摩藩の指導者・島津久光が、薩摩藩の尊王派による討幕の挙兵を未然に防ぎ、これを粛清した事件です。
この際に、後の鹿児島県知事・大山綱良らの手で、有馬新七などが粛清されています。
・近江屋事件
近江屋事件は、1867年12月10日に坂本龍馬と中岡慎太郎、山田藤吉の3人が京都河原町の近江屋・井口新助邸において暗殺された事件です。
実行犯については、江戸幕府の京都見廻組説が有力となっています。また、黒幕は会津藩主・松平容保であったと言われています。
池田屋事件の中心人物は?
池田屋事件は、尊王攘夷派志士と新撰組の戦いとなりました。
それでは、その中心人物には誰がいたのでしょうか?
ここでは、池田屋事件の中心人物を簡単に解説していきます。
新撰組
池田屋事件の中心人物は、何と言っても新撰組です。
新撰組は、不逞浪士を取り締まるなど、京都の治安維持のために結成されました。
局長に近藤勇、副長に土方歳三などがいます。
池田屋事件当初、新撰組は総勢40名しかいませんでしたが、過激浪士らが囚われている古高俊太郎を奪還しようと、新撰組屯所を襲撃する可能性もあったため、全員が出撃することはできませんでした。
そのため、副長の山南敬助ら6人が屯所に残り、実際に出動したのは36人となりました。
池田屋事件当日、新撰組は近藤勇率いる近藤隊、土方歳三率いる土方隊、井上源三郎率いる井上隊の3部隊に分かれて市中へと繰り出しました。
なお、この時点で会合がどこで行われていたのかはわかっておらず、旅籠や旅館を片っ端から捜索する必要がありました。
そのため、3部隊はばらばらに分かれて捜索。
近藤隊が池田屋を特定し、そのまま襲撃。
その最中に、沖田総司や藤堂平助らが戦線離脱することになりましたが、土方隊が合流したことにより、かろうじて新撰組の勝利で終わりました。
そして、このことがきっかけで、新撰組はさらに勢力を拡大していくこととなるのです。
桂小五郎(木戸孝允)は逃げた?
桂小五郎も本来であれば、池田屋でこの計画を話し合っているうちの1人でした。
しかし、うっかりとミスで池田屋に早く着きすぎて、あまりにも暇だったので外に出て近くにいた友人と話していたのです。
本当にたまたま外に出ていたおかげで、桂小五郎は池田屋事件に巻き込まれること無く済みました。
巻き込まれずに済んだ桂小五郎は、その後必死に新撰組や幕府の手先から逃げまくります。
このことから、桂小五郎はのちに「逃げの小五郎」と呼ばれるようになってしまいました。
池田屋事件のその後の影響は?
池田屋事件は、新撰組の勝利で終わりました。
それでは、池田屋事件の後どのような影響があったのでしょうか?
ここでは、池田屋事件のその後の影響を簡単に解説していきます。
新撰組の名が全国に知れ渡った
池田屋事件の後、陰謀を未然に防いだ功績として、会津藩は近藤勇に刀を一振り送り、新撰組には報奨金500両と酒樽、朝廷からも慰労金100両が下賜されました。
さらに京都守護職からは、一人あたり50両の報奨金も与えられます。
このように、莫大な資金をもらい、新撰組はさらに勢力を拡大することに成功し、徐々に新撰組の名を全国へと轟かせていくことになるのです。
禁門の変が勃発した
朝廷への復帰を狙っていた長州藩でしたが、実はその内では、進発論派と慎重論派の2つに分かれていました。
進発論:状況を打開するために武力で抗議。兵を挙げて京都に進軍しよう!
慎重論:今は動くべきではない。朝敵とみなされる可能性があるぞ…
この2つがぶつかり合っている中、池田屋事件が起こってしまいます。
池田屋事件によって仲間を大量に斬り殺されてしまった長州藩は、激しく怒り、進発論派が怒りに任せて京都への進軍を決行してしまうのです。
こうして、長州藩と幕府側が戦うこととなった禁門の変が勃発してしまいました。
まとめ:池田屋事件によって新撰組は有名になり、尊王攘夷派は痛手を負った
池田屋事件は、池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士を、新撰組が襲撃した事件です。
この事件により、新撰組はその名を全国に轟かせることになり、尊王攘夷派は痛手を負ってしまいました。
今回の内容をまとめると、
- 八月十八日の政変によって朝廷から長州藩が追放され、長州藩は反撃をするために京都に潜伏していた
- 池田屋事件は、町周辺の計画知った新撰組が、取り締まるために池田屋を襲撃した事件
- 池田屋事件は新撰組の勝利で終わり、尊王攘夷派は痛手を負った
- 新撰組は池田屋事件の功績によって、これにより知名度をあげた
- 池田屋事件に怒った長州藩が、その後禁門の変を起こした
池田屋事件の後、血の付着していない新撰組隊士は一人もおらず、中には上半身が血で真っ赤という隊士までいたそうです。ここからも、いかにこの戦いが激しいものであったかということが伺えます。それくらいのことをしたのだからこそ、新撰組は今でも人気があるのでしょう。