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禁門の変をわかりやすく解説!原因は?中心人物は?その後の影響は?

禁門の変(1864(元治元年))は、京都の御所付近で長州藩と幕府軍が武力衝突した事件です。

この戦いは、大砲なども投入された激しい戦いになったのですが、なぜこのような事件が起こったのでしょうか?

この記事では、禁門の変が起こった原因やその後の影響など、簡単に解説していきます。

禁門の変をわかりやすく解説!

禁門の変は、京都の御所付近で起きた武力闘争のことでした。
具体的には、どのような戦いだったのでしょうか?
また、なぜこのような事件が起こったのでしょうか?
ここでは、禁門の変について簡単に解説していきます。

禁門の変とは?原因は何?

禁門の変は、1864年(元治元年)に起こった、京都の御所付近で長州藩と幕府軍が武力衝突した事件のことです。

御所のことを禁裏といい、御所の門のことを禁門と言います。つまり、御所の門付近で戦闘が行われたため、禁門の変と呼ばれているわけですね。

この戦いで、長州藩は幕府に主に次のようなことを訴えかけました。

  • 八月十八日の政変で藩主に罪がないこと
  • 政変によって追放された尊王攘夷派の公家を復帰させること

つまり、長州藩の立場の回復を狙って起こした事件だったというわけです。

禁門の変はなぜ起きた?池田屋事件がきっかけ?

禁門の変は、八月十八日の政変によって失われた長州藩の地位回復を目的として起こった事件でした。

しかし、禁門の変が起こった原因は、それだけではありません。

もう1つの主な原因は、池田屋事件です。

八月十八日の政変によって追放された長州藩でしたが、一部の藩士は京都に潜伏し、勢力回復のため他藩の尊王攘夷派と会合を繰り返していきます。

ところが、その会合の情報を探知した新撰組が、会合が開かれていた旅館である池田屋を襲撃しました。これが池田屋事件です。

この事件により、池田屋に集まっていた長州藩士や他藩の尊王攘夷派の志士は、ほぼ壊滅してしまいました。

そしてこれを受けて、長州藩や尊王攘夷派の志士は激しく怒り、禁門の変へと繋がっていくのです。

禁門の変の結果は?

長州藩と幕府軍(会津藩・薩摩藩など)の戦いとなった禁門の変ですが、最初は長州藩が会津藩・桑名藩を押していました。しかし、薩摩藩が援軍として駆けつけると形勢逆転し、そのまま長州藩が劣勢となっていきます。

長州藩の指揮官であった久坂玄瑞は、最後まで朝廷との話し合いの希望を捨てずに、公卿の鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)の元へ向かいます。

命からがらたどり着き、長州藩の地位回復を懇願しますが、鷹司輔煕はこれを拒否するのです。

最後の希望を失った久坂玄瑞は、そのまま鷹司邸で自害。長州藩もわずか一日で敗北することとなってしまいました。

禁門の変と蛤御門の変の違いは?

禁門の変と蛤御門の変の違いはありません。両者は同じ戦いのことを指します。

それでは、なぜ呼び方が違うのかと言うと、禁門というのは御所の門全体を指しますが、蛤御門というのはその中の1つのことを指します。

蛤御門だけがピックアップされているのには、蛤御門で行われた戦闘が、この戦いの最大の激戦地となったからという背景があったからです。

この戦いは、その他にも元治の変と呼ばれることもあります。

禁門の変の中心人物は?

禁門の変は、長州藩と幕府軍の武力衝突でした。

それでは、それぞれの中心人物は誰だったのでしょうか?

ここでは、禁門の変の中心人物を簡単に解説していきます。

禁門の変の中心人物|久坂玄瑞

久坂玄瑞(1840(天保11)〜1864(元治元年))は、幕末における長州藩の尊王攘夷派の中心人物として活躍しました。

高杉晋作とともに「松下村塾の双璧」と呼ばれ、長州藩を尊皇攘夷一色に染め上げました。そして、関門海峡を通行する外国船に向け砲撃し、日本で初めて攘夷を決行したことでも知られています。

禁門の変では、長州藩のリーダーとして参戦。

長州藩が不利になっても、希望を捨てずに鷹司邸まで行き、長州藩の地位回復のために動きましたが、その望みは叶えられること無く、そのまま久坂玄瑞は鷹司邸宅で自刃しました。

享年25歳と、高杉晋作同様に短い人生でした。

禁門の変の中心人物|西郷隆盛

西郷隆盛(1828(文政10)〜1877(明治10))は、薩摩藩出身の維新の十傑の1人です。また、大久保利通、木戸孝允らと並んで維新の三傑にも数えられています。

西郷隆盛は、身分の低い家に生まれましたが、薩摩藩主・島津斉彬に才能を見出され、次第に頭角を現していきました。

倒幕派の中心人物として活躍していくのですが、特に有名なのが「薩長同盟」を結んだことです。

そんな西郷隆盛は、禁門の変においては薩摩藩のリーダーとして参戦しました。

当初、薩摩藩には、長州藩が入京する前に撃退せよとの命令が幕府からくだっていました。しかし、西郷隆盛はこれを拒否します。

薩摩藩は、あくまでも皇居の守護のみに注力するとしました。

西郷隆盛には、

「長州であろうが、幕府であろうが、朝廷を独占すべきではない」

という考えがあり、薩摩藩は中立の立場であると示したかったのです。

このため、いざ皇居周辺で長州藩と幕府軍が衝突すると、西郷隆盛は援軍として幕府軍に加わり、長州藩の撃退に大きく貢献しました。

禁門の変のその後の影響は?

禁門の変は、長州藩の敗北にて終わりを迎えました。

それでは、これによってどのような影響があったのでしょうか?

ここでは、禁門の変のその後の影響などを簡単に解説していきます

京都で大規模な火災が起こった?

禁門の変は、砲撃まである大変大規模な戦となりました。

長州藩屋敷のみならず、尊王派に属すると言われていた公家屋敷などにも砲撃があり、さらに一般の町民が住む民家からも火の手があがり、戦闘の混乱も重なったことにより、一気に町中に火が燃え広がります。

その結果、京都中心部は広い範囲で火事により焼け落ちてしまったのです。

(東本願寺や本能寺など多くの寺院も焼け落ちてしまいました。)

この火災は「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などと呼ばれています。

鎮火にはなんと3日もかかり、京の市中にあった全世帯の半数ともされる28,000もの世帯が焼失、負傷者を含む犠牲者は1,000人を超えるほどの大惨事となってしまいました。

こうして京が焼け落ちてしまったことは、東京遷都の大きな理由の1つとなったのです。

長州藩は朝敵となった?

長州藩の地位回復を狙って禁門の変を起こしたわけですが、長州藩は敗北。

地位を回復するどころか、長州を嫌う幕府に長州へ攻め込む絶好の機会を与えてしまうことになってしまいました。

さらに、禁門の変の際、長州藩は京都御所に向かって発砲してしまい、このことが原因で朝敵とみなされるようになってしまうのです。

このことにより、長州藩の立場はとても弱いものになっていきます。

第一次長州征伐が起こった?

この当時、幕府は日米和親条約や日米修好通商条約を結び、開国路線を進めていました。

しかし、攘夷派であった長州藩はそれを阻止しようとします。

そのため、幕府にとって長州藩は非常に邪魔な存在でした。

禁門の変で、攻め込む機会をもらった幕府は利用しない手はないとして、諸大名に長州討伐を命じます。

ここから始まる長州藩への攻め込みを、「第一次長州征伐」と言います。

これにより、長州藩はさらに弱体化していくのです。

長州藩が政権交代した?

第一次長州征伐と、四国艦隊下関砲撃事件により、長州藩は諸外国、幕府、朝廷と全てを敵に回した最悪な状況に陥ってしまいます。

そこで、長州藩の信用を回復するべく、今まで政権を握っていて禁門の変を主導した家老達は切腹し、幕府の言うことに従うというグループが政権を執りました。

このことは、幕府も認めており、長州藩は幕府に屈服することになるのでした。

まとめ:禁門の変によって、長州藩は朝敵となり弱体化していった

禁門の変は、八月十八日の政変によって追放された長州藩が、自分たちの地位回復のために動いた結果起こった事件でした。しかし、その願いは叶うこと無く、長州藩の敗北に終わり、長州藩はさらに弱体化していくこととなってしまいました。

今回の内容をまとめると、

  • 禁門の変は、蛤御門の変とも呼ばれている
  • 禁門の変の原因は八月十八日の政変によって追放された長州藩が、地位回復のために動いたから
  • 禁門の変の、長州藩の中心人物は久坂玄瑞
  • 禁門の変で、長州藩は最初優勢だったが、薩摩藩が援軍として加わり形勢逆転し、長州藩の敗北で終わった
  • 禁門の変の影響で、長州藩は朝敵となり、どんどん弱体化していった

久坂玄瑞は、当初このように武力で訴えるべきではないと主張していました。しかし、池田屋事件を受け、仲間が多く斬られたとなっては黙ってはいられないと、リーダーとして禁門の変を起こしたのです。このときに冷静になれていれば久坂玄瑞は、もっと長生きしたかもしれません。

優秀な人材が早くに亡くなってしまったことは、非常に残念でなりません。

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