藤原道長ってどんな人?年表から簡単に解説!性格は?功績は?死因は?
藤原道長(966(康保3)〜1028(万寿4))は、平安時代中期に活躍した公卿です。
2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、柄本佑さんが演じられることでも話題となっています。
そんな藤原道長は、どんな人だったのでしょうか?
この記事では、藤原道長の性格や功績など、どんな人だったのかを簡単に解説していきます。
目次
藤原道長はどんな人?年表で簡単に解説!
藤原道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌を詠んだほど、権力を思いのままにしていました。
そんな藤原道長は、どんな人だったのでしょうか?
ここでは、年表を見ながら、藤原道長がどんな人だったのかを簡単に解説していきます。
藤原道長の年表
藤原道長(ふじわらのみちなが)966年(康保3年)〜1028年(万寿4年)/享年:62歳
父:藤原兼家/母:藤原時姫
妻:鷹司殿(源倫子)、高松殿、源簾子、源重光娘、儼子、藤原穠氏
子:彰子、頼通、頼宗、妍子、顕信、能信、教通、寛子、威子、尊子、長家、嬉子、長信
\ 藤原道長の家系図に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
【藤原道長の年表】
- 966年(康保3年):0歳
藤原兼家の5男として生まれる - 987年(永延元年):21歳
左大臣の源雅信の娘・倫子と結婚する - 995年(長徳元年):29歳
兄・道隆の長男である伊周と後継者争いを繰り広げる
→姉である詮子の後押しで内覧となる
(※内覧=天皇に差し上げる文書を先に見る職業のこと)
→右大臣にも任じられる - 1000年(長保2年):34歳
長女・彰子を一条天皇の中宮にする - 1012年(長和元年):46歳
次女・妍子を三条天皇の皇后にする - 1016年(長和5年):50歳
彰子の産んだ敦成親王が後一条天皇になり、藤原道長は摂政となる - 1017年(寛仁元年):51歳
摂政を長男・頼通に譲り、自身は太政大臣となる - 1018年(寛仁2年):52歳
三女・威子を後一条天皇の中宮にする - 1021年(寛仁5年):55歳
6女・嬉子を皇太子である敦良親王(のちの後朱雀天皇)に嫁がせる - 1028年(万寿4年):62歳
病死する
藤原道長の死因は?
藤原道長の死因は糖尿病だと言われています。
藤原道長は、50歳を過ぎた頃から、様々な体調不良に悩まされ始めます。
その症状は、藤原実資の『小右記』に詳しく書かれていました。
- 喉が渇いて水を大量に飲んでいる
- 痩せて体力がなくなった
- 背中に大きな腫れ物ができた
- 目が見えなくなった
以上のように書かれていたことから、藤原道長の死因は、糖尿病による合併症であろうと推定されています。
また、藤原道長の叔父・兄・甥・孫も同様の症状で亡くなっているため、藤原道長の家系は糖尿病の遺伝子を持っていたとも考えられます。
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藤原道長の功績は?何をした人?
藤原道長は、摂政となり、摂関政治の最盛期を築き上げました。
藤原道長は、どんな功績を残したのでしょうか?
ここでは、藤原道長の功績を簡単に解説していきます。
藤原道長は娘を天皇のきさきにして摂関政治の最盛期を迎えた
藤原道長は、一族の厳しい権力争いに打ち勝ち、朝廷の最高権力者となります。
しかし、そこで藤原道長は慢心することはありませんでした。
その次に行ったことが、自身の娘を入内させることです。
藤原家は代々、娘を入内させて天皇の外戚になることによって、摂政や関白の役職に就き、権力を握ってきました。
藤原道長も同様に、この手法を最大限に利用し、なんと3人もの娘を入内させて摂関政治の全盛期を築き上げるのです。
このように一家から三人の皇后を出したことを「一家立三后」と言います。
具体的に挙げると、
- 第66代天皇:一条天皇→彰子(長女)
- 第67代天皇:三条天皇→妍子(次女)
- 第68代天皇:後一条天皇→威子(四女)
と三人の娘を天皇の妻にしました。
これは、当時としては異例のことで、『小右記』にも「一家立三后を立つるは、未曾なり」と述べられています。
それくらいすごいことをして、藤原道長は権力を手に入れ、藤原氏の地位を絶対的なものにしたわけです。
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藤原道長は多くの文学作品に貢献した
藤原道長は、非常に文学を好んでいたということでも知られています。
漢詩や和歌を詠むのが好きで、漢詩は『本朝麗藻』に数多く収められており、和歌は『後拾遺集』などの勅撰集に33首が選出されているくらいの腕前でした。
また、藤原道長の日記『御堂関白記』は、11世紀初頭の政治や生活に関する貴重な資料として知られています。
このように、自身でも文学に貢献していた藤原道長でしたが、多くの文学作品の執筆に貢献しているのです。
例えば、紫式部の『源氏物語』に関しては、手紙を書いて応援したり、当時としては貴重であった紙を提供したりしていますし、和泉式部の『和泉式部日記』に関しては、恋愛体験記を書くように勧めたのは藤原道長だと言われています。
このように、日本文学の原点と言ってもいいような作品が生み出されたのは、藤原道長の功績だと言っても過言ではないでしょう。
藤原道長は寺院建築にも熱心だった
藤原道長は、自宅や別邸、寺院の建築にも熱心でした。
病気になり出家した後には、自邸の隣に「無量寿院」という阿弥陀堂を建てて住まいとしています。
その後、藤原道長は、敷地内に金堂などの建物を整備し、極楽浄土のように華やかだと言われた「法成寺」を創建しました。
この寺院は、東西に2町(約218m)、南北に3町(327m)の広大な敷地に、数々の伽藍が立ち並ぶという大規模建築でした。
また、この建物は、藤原頼通が建立した「平等院鳳凰堂」のモデルになったとも言われています。
\ 藤原道長のしたことについては、こちらの記事で詳しく解説しております /
藤原道長の性格がわかるエピソードをご紹介
藤原道長は、権力を手中に収め、敵も徹底的に排除していたため、逆らう人はほとんどいない状態でした。そのような状態であれば、自信に満ち溢れているのではないかと考える人もいるでしょう。
実際はどのような性格だったのでしょうか?
ここでは、藤原道長の性格がわかるエピソードを簡単に解説していきます。
藤原道長は野心家だった?
藤原道長が20代半ばの頃のことです。
ある日藤原道長は、藤原道隆の屋敷で行われていた、藤原伊周が人を集めて弓を射ている会に参加しました。
この当時、藤原道長は、藤原伊周よりも官位が下でした。しかし、藤原伊周よりも先に矢を射てしまい、結果的に勝利してしまうのです。
この結果に、関白の息子でもある藤原伊周に花を持たせようと、周りの人間が延長戦を提案します。
内心、納得がいかない藤原道長でしたが、延長戦の提案を受けました。
その延長戦の1本目。
藤原道長は、
「自分の家から帝・后が出るなら、この矢よ、当たれ」
といって、矢を放つと、その矢は見事真ん中に命中しました。
そして、このすぐ後に矢を放った藤原伊周は的を外してしまいます。
さらに、2本目。藤原道長は先程のように、
「私が摂政・関白になるはずなら、この矢よ、当たれ」
といって、矢を放つと、またしても真ん中に命中したのです。
この事態に、周りは気まずい雰囲気が流れ、これをみかねた藤原道隆が「これ以上射るな」と藤原伊周を止めて、弓比べは中止となりました。
相手の立場などを気にせず、自分の野心をアピールするとは、藤原道長の大胆不敵な人柄がわかるエピソードだと言えるでしょう。
藤原道長は孫にデレデレだった?
かなり傲慢なように思えてしまう藤原道長ですが、実は孫にデレデレだったという話があります。
それは、1008年(寛弘2年)、待望の皇子・敦成親王が生まれた後のことです。
ある日、藤原道長が敦成親王を抱き上げると、なんとおもらしをされてしまいます。
普通であれば、おもらしをかけられたとなったら、不快な気分になる人がほとんどでしょう。
しかし、藤原道長は、濡れた服を火で炙って乾かし、
「この若宮(皇子)の尿で濡れるなんて嬉しい。濡れた服を炙っていると、思いが叶った気分になる」
と喜んでいたそうです。
待ちに待った彰子の出産、しかも生まれたのは皇子。
本来であれば不快になるような出来事も、輝かしい未来が見えていたからこそ、藤原道長は嬉しくなってしまったのかもしれません。
また、一方で、純粋に孫が生まれて、嬉しさのあまりデレデレになってしまったのではないかとする説もあります。
まとめ:藤原道長は摂関政治の最盛期を作り上げた人物だった
藤原道長は、自身の娘を入内させることによって、天皇の外戚となり、権力を手中に収めました。また、それだけではなく、文学や建築など多方面にも貢献していました。
今回の内容をまとめると、
- 藤原道長は大胆不敵な一面を持っていた
- 藤原道長は、一族の権力争いに勝った後でも慢心すること無く、権力の集中化を目指した
- 藤原道長は、自身の娘を入内させることによって、天皇の外戚となり、権力を手中に収めた
- 藤原道長は、文学や寺院建築など多方面にも貢献していた
これだけ万全の体制を整えて栄華を誇った藤原道長でしたが、その後すぐに藤原氏の摂関政治は終わりを迎えてしまいます。これだけのことをやり遂げられる才能を持った人物は、なかなかいないのだなということを実感させられます。