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藤原道長の娘は何人天皇のきさきになった?紫式部との関係は?家系図で簡単に解説!

藤原道長(966(康保3)〜1028(万寿4))は、平安時代中期に活躍した公卿です。

2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、柄本佑さんが演じられることでも話題となっています。

そんな藤原道長は、娘たちを利用して権力を手中に収めたという話があります。

どのようにして権力を掴み取ったのでしょうか?

この記事では、藤原道長の家系図を見ながら、その娘たちについて簡単に解説していきます。

藤原道長の娘は何人いる?家系図で簡単に解説!

藤原道長は、自分の娘たちを利用して権力を手中に収めました。

それでは、藤原道長の娘にはどんな人がいたのでしょうか?

ここでは、藤原道長の娘たちについて簡単に解説していきます。

藤原道長の家系図

【藤原道長の家系図】

藤原道長の娘は何人いた?

藤原道長は、2人の妻との間に、全部で6人(彰子、妍子、寛子、威子、尊子、嬉子)の娘がいました。

それぞれを簡単に解説していきます。

・藤原道長の長女:彰子(しょうし)

彰子は、12歳の時に一条天皇の女御として入内し、翌年中宮となりました。

そして、これが史上初の「二后」ということとなります。

普通天皇の后は1人なのですが、一条天皇だけは2人の后がいたのです。これには、藤原道長が大きく関与しています。

一条天皇には、元々定子という后がいました。しかし、定子が出家をしていたことなどを理由に、もう一人后を持つことを藤原道長がゴリ押ししたのです。

この二后の期間は実はあまり長くは続きませんでした。なぜならば、1年も経たないうちに定子が難産のために亡くなってしまったからです。

その後、彰子は無事、一条天皇との間に2人の子(後の後一条天皇と後朱雀天皇)を出産します。

こうして、彰子は天子の母である「国母」となったのです。

藤原道長の次女:妍子(けんし)

妍子は、彰子の妹で、居貞親王(後の三条天皇)に嫁ぎました。

妍子が入内した翌年に、一条天皇が崩御したことにより、居貞親王が即位し三条天皇となりました。それに伴い、妍子も中宮となります。

彰子同様、皇子を出産することを藤原道長から望まれていましたが、残念ながら妍子は皇女しか出産できませんでした。

ちなみに、藤原道長の娘たちの中で、妍子が一番の美形であったと言われています。

・藤原道長の三女:寛子(かんし)

寛子の母親は、彰子たちとは異なり、源明子です。

寛子は、三条天皇の第一皇子である敦明親王に嫁ぎました。

敦明親王は正式な皇太子でしたが、藤原道長からの嫌がらせにより自ら皇太子を降りることにします。

寛子はその返礼として嫁に出されたようです。

藤原道長の四女:威子(いし)

威子は、妍子の妹で、20歳の時に後一条天皇に嫁ぎました。後一条天皇よりも9歳年上だったことに、強いコンプレックスを感じていたようです。

威子が天皇に嫁いだことにより、藤原道長の娘が3代連続で天皇の妻となりました。

威子も、妍子同様、皇子には恵まれず、皇女しか出産することができませんでした。

藤原道長の五女:尊子(そんし)

尊子は、寛子の妹です。

そして、藤原道長の娘の中で、唯一「たゞ人」(非皇族・非公卿)と婚姻を結んだ人物です。

尊子は、藤原頼通の猶子・源師房と結婚しました。

なぜ尊子が皇族に嫁がなかったかというと、

  • 当時、皇族・公卿の中に藤原道長の娘婿に相応しい未婚の適齢者がいなかった
  • 源師房は、藤原道長の「義理の孫」にあたり、とても可愛がられていた

以上のような理由から、尊子は源師房に嫁ぎました。

・藤原道長の六女:嬉子(きし)

嬉子は、威子の妹で、14歳の時に敦良親王(後の後朱雀天皇)に嫁ぎました。

入内した4年後、藤原道長が待望の皇子(後の後冷泉天皇)を授かります。

しかし、出産の2日後、嬉子は赤斑瘡(あかもがさ)という炎症型天然痘のせいで亡くなってしまいます。

つまり、嬉子は自分の子供の顔をろくに見ることもできずに亡くなってしまったのです。

国母となることを夢見ていた嬉子でしたが、その夢が叶うことはなく、藤原道長の娘たちの中で最も短い生涯を終えてしまいました。

藤原道長の娘は天皇のきさきになった?

藤原道長の娘たちは、全部で6人いました。その娘たちは、ほとんどが天皇のきさきになったとされています。
なぜ天皇のきさきになれたのでしょうか?
ここでは、藤原道長が娘たちを天皇のきさきにした理由を簡単に解説していきます。

藤原道長の娘はどの天皇のきさきになった?

藤原道長は「一家立三后」を実現させた人物でした。

一家立三后とは、藤原道長が自身の娘を天皇や皇太子の妻として送り込み、一家から三人の皇后を出したことを指しています。

つまり、娘を天皇や皇太子の妻にすることによって、天皇と親戚になったということですね。

  • ・第66代天皇:一条天皇→彰子(長女)
  • ・第67代天皇:三条天皇→妍子(次女)
  • ・第68代天皇:後一条天皇→威子(四女)

また、嬉子も入内して皇子を産んでいますが、敦良親王が即位する前に亡くなってしまっているので、実際は天皇の后にはなっていません。

藤原道長はなぜ娘を天皇に嫁がせた?

藤原家は代々、自分の娘を入内させ、天皇の外戚になることによって、摂政や関白の役職に就き、権力を握ってきました。

藤原道長も同様に、この手法を最大限に利用し、なんと3人もの娘を入内させて摂関政治の全盛期を築き上げるのです。

これが先程もお伝えした「一家立三后」です。

当時としては異例のことで、『小右記』にも

「一家立三后を立つるは、未曾なり」
と述べられています。

それくらいすごいことをして、藤原道長は権力を手に入れ、藤原氏の地位を絶対的なものにしたわけです。

しかし、嬉子が産んだ後冷泉天皇には、皇子が生まれることはなく、藤原氏の摂関政治はわずかな期間で終わりを迎えることとなってしまいました。

藤原道長は娘を天皇のきさきにした後、歌を詠んだ

藤原道長は、自身の娘たちを天皇のきさきにして権力を手中に収めました。
その一家立三后が実現した日、藤原道長は以下のような歌を詠んでいます。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

(現代語訳)

「この世は私のためにある世界だと思う。この満月のように欠けたところは何一つなく、すべて自分の意のままに満足すべきものである」

現代語訳にあるように、この歌は藤原道長が権力を握り、「この世の中は自分のためにある」と公言しているのです。

これを詠んだのは、一家立三后が実現したことを祝う祝宴中でした。

このようなことを皆の前で言ってしまうくらい、藤原道長は喜んでいたのかもしれませんね。

藤原道長の娘と紫式部の関係は?

紫式部は、藤原道長の長女・彰子の家庭教師でした。

それは、どういう経緯で藤原道長の娘の家庭教師になったのでしょうか?

藤原道長は、彰子に天皇の子を産ませることによって、権力を手にしようと考えていました。

しかし、当時天皇は愛する定子を亡くしたばかりで、定子のことを忘れられないあまり、定子の妹の元に通うなどしており、彰子に全く興味を持ってくれていませんでした。

そこで、藤原道長は、彰子の周辺に優秀な女房を揃えることによって、彰子自身を魅力的な女性に教育させようと考えたのです。

そして、目をつけられたのが、『源氏物語』を書いたことで宮中で評判になっていた紫式部でした。

こうして、彰子の魅力向上のために、紫式部はその才能を買われ、家庭教師となったのです。

\藤原道長と紫式部との関係に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております/

まとめ:藤原道長は娘を天皇のきさきにして権力を手中に収めた

藤原道長は、全部で6人の娘がいました。そのほとんどの娘を天皇のきさきにして、権力を手中に収めることに成功したのでした。

今回の内容をまとめると、

  • 藤原道長の娘は全部で6人
  • 藤原道長は、娘のうち彰子、妍子、威子と、3代連続で天皇のきさきにしたことにより、「一家立三后」を実現した
  • 藤原道長は、一家立三后を実現した日に「この世をば…」の歌を詠んだ
  • 藤原道長の娘、嬉子が皇子を産んだものの、その後は続かなかった

娘を政治利用して嫌な父親だと思う方もいるかもしれませんが、藤原道長は子供や孫のことを溺愛していました。

その証拠に、晩年は自分よりも先に亡くなってしまった娘たちのことを思って衰弱してしまうということもあったようです。

子どもたちにとっては、良い親だったのかもしれませんね。

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