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清少納言の百人一首の歌はどんな歌?意味や背景のエピソードなどを簡単に解説!

清少納言(966(康保3)〜1025(万寿2))は、平安時代中期に活躍した歌人・作家です。

2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、ファーストサマーウイカさんが演じられることでも話題となっています。
そんな清少納言の歌が、百人一首に収録されています。
それは、どのような歌なのでしょうか?

この記事では、清少納言の百人一首の歌について簡単に解説していきます。

清少納言の百人一首の歌はどんな歌?

清少納言の歌が、百人一首に収録されています。

百人一首とは、百人の優れた歌人の歌を、1人につき一首ずつ選んだ秀歌撰のことです。

それでは、百人一首に選ばれた清少納言の歌はどのようなものだったのでしょうか?

ここでは、清少納言の百人一首の歌を簡単に解説していきます。

清少納言の百人一首の歌の現代語訳や意味は?

清少納言の百人一首の歌

「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」

現代語訳:
「夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き声を真似して夜が明けたと人をだまそうとしても、そんな嘘は通用しませんよ。(中国の)函谷関ならいざ知らず、あなたとわたしの間にあるこの逢坂の関は、決して許すことはありません」

清少納言の歌は、百人一首の第62番目の歌で、『後拾遺集』より出典されています。

この歌は、清少納言と親しい間柄であった藤原行成との間でやり取りされたものだと言われています。

中国の故事を踏まえながら、藤原行成のアプローチを突っぱねるという、清少納言の教養の高さが表れている歌となっています。

清少納言の百人一首の歌の表現技法は?

この歌の表現方法を詳しく見ていきましょう。

「夜をこめて」

動詞の連用形「こめ」は、もともと「しまい込む」「包み込む」と言った意味があります。

そのため、「夜をこめて」は、「夜がまだ明けないうちに」となるわけです。

「鳥のそらねは」

ここでの「鳥」は鶏のこと。そらねは、漢字で書くと「空音」となり、鳴き真似のことを指します。

「はかるとも」

「はかる」は、「だます」という意味です。「とも」は逆接の接続助詞で、「〜しても」という意味になります。

先程の部分と繋げると、「鶏の鳴き真似の謀ごと」というようになるのですが、これは中国の史記の中のエピソードを指しています。

「よに逢坂の関はゆるさじ」

「よに」は「決して」という意味です。

「逢坂の関」は、男女が夜に逢って過ごす「逢ふ」と意味を掛けた掛詞となっています。つまりこれは、「逢坂の関を通るのは許さない」という表の意味と、「あなたが逢いにくるのは許さない」という裏の意味が掛けられているのです。

清少納言の百人一首の歌の背景エピソードは?

清少納言の百人一首の歌には、詠まれた背景エピソードが存在します。

ある夜、清少納言の元にやってきた藤原行成はしばらく話をしていましたが、

「宮中に物忌があるから…」

と言って、早々と帰ってしまいました。

翌朝、

「鶏の鳴き声に急かされてしまって…」

と言い訳の文を藤原行成が送ってきます。

それに対して、清少納言は、

「嘘おっしゃい。中国の函谷関(かんこくかん)の故事のような、鶏の空鳴きでしょう」

と答えるのです。

この「函谷関の故事」というのは、中国の史記にある孟嘗君の話のことになります。秦国に入って捕まった孟嘗君が逃げる時、一番鶏が鳴くまで開かない函谷関の関所を、部下に鶏の鳴き真似をさせて開けさせたのでした。

このように故事を用いながら、清少納言は、

「どうせあなたのいいわけでしょう?」

と言いたかったわけです。

それに対して、藤原行成は

「関は関でも、あなたに逢いたい逢坂の関ですよ」

と弁解します。

そこで歌われたのが、この百人一首の歌なのです。

「鶏の鳴き真似でごまかそうとしても、この逢坂の関は絶対に開きませんよ」

と、清少納言はきっぱりと拒否したわけですね。

即座にこれだけの教養を盛り込んだ歌を返したところに、清少納言のすごさを感じますね。

清少納言はどんな人?

清少納言(せいしょうなごん)966年(康保3年)〜1025年(万寿2年)

代表作品:『枕草子』

清少納言は、清原元輔の娘として生まれました。

和歌や漢学を学ぶ環境に恵まれていたため、幼少期から文学的才能を育んでいました。

そして、その才を買われて、中宮・定子の家庭教師として宮中仕えすることになります。定子は清少納言のことを気に入り寵遇しました。そんな定子に、清少納言も惚れ込みました。

ところが、定子の父・藤原道隆が逝去すると、清少納言の立場は変わっていくのです。

藤原道隆が逝去したことにより、弟の藤原道長が権力を強めます。そして、定子の兄・藤原伊周が策謀により流刑とされると、「清少納言は道長方のスパイだ」という噂が流れ始めるのです。

これを受けて、清少納言は宮中を出て、家に引きこもってしまいます。

定子は、清少納言に早く戻ってきてほしいと、当時としては大変貴重だった上質な紙を20枚も送りました。

清少納言は、これをとても喜んで、その紙に宮中での出来事を色々と書き込んでいきます。それが『枕草子』です。

定子の思いに応えて宮中に戻った清少納言でしたが、その後すぐに定子は産後の衰弱により亡くなってしまいます。

清少納言はとてもショックを受け、再び宮中を去り、隠遁生活に入りました。

60歳近くまで生きたと言われていますが、死因ははっきりとわかっていません。

清少納言の他の代表作品は?

清少納言は、歌人でありましたが、同時に作家でもありました。

そのため、百人一首の歌の他にも代表作品が残っています。

ここでは、清少納言の他の代表作品について簡単に解説していきます。

『枕草子』

清少納言の『枕草子』は、「随筆」というジャンルの作品であり、日本三大随筆に選ばれています。

そのため、内容は基本的に清少納言の身に実際起こったことや、清少納言自身が感じたことなどを中心に書かれています。

約300の章段から成り、大きく分けると下記の3種類に分類されます。

1、「虫は」「木の花は」「すさまじきもの」「うつくしきもの」などと言ったものに代表される「ものづくし」の類聚章段

2、日常生活や四季の自然を観察した随想章段

3、清少納言が出仕していた定子周辺の宮廷社会を振り返った回想章段(日記章段)

この3つの中でも特に特徴的なのが、類聚章段です。
ここは、他の文学作品に類を見ないくらい同じ種類の事柄を集めた章段となっています。

名詞がひたすら綴られていくのですが、その言葉選びから、清少納言の鋭い感性や、知性の高さが伺える文章となっています。

『清少納言集』

清少納言の代表作品としてもう1つ挙げられるのが、『清少納言集』です。

こちらの作品は、清少納言の和歌を集めた歌集となっています。

しかし、自撰ではなく後人の撰であり、成立時期も、平安時代後期から鎌倉時代中期頃だと言われています。

そのため、清少納言の作品と言ってよいのかは定かではありません。

まとめ:清少納言の百人一首の歌は、清少納言の教養の高さをよく表した歌だった

清少納言の百人一首の歌は、中国の史記のエピソードを引用するなど、その教養の高さがよく表れているものでした。

今回の内容をまとめると、

  • 清少納言の百人一首の歌は、百人一首の第62番目の歌で、『後拾遺集』より出典されている
  • 清少納言の百人一首の歌は、藤原行成とのやり取りの最中に詠まれた歌だった
  • 清少納言の百人一首の歌は、中国の史記にある函谷関の故事を引用するなど、清少納言の教養の高さをよく表している

何気ない日常会話をしているときに、中国の故事を引用しようと思いつく人が、この世の中にどれだけいるでしょうか?そう考えるだけでも、清少納言がいかに頭が良かったのかということがはかり知れますね。

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