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清少納言の死因は何?晩年の姿は?墓所はどこ?最期の姿を簡単に解説!

清少納言(966(康保3)〜1025(万寿2))は、平安時代中期に活躍した歌人・作家です。

2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、ファーストサマーウイカさんが演じられることでも話題となっています。

そんな清少納言はどのようにして亡くなったのでしょうか?

この記事では、清少納言の死因や、最期の姿について簡単に解説していきます。

清少納言の死因は何?いつ死んだ?

清少納言は、中宮・定子に仕え、『枕草子』などの作品を残したことで有名です。

そんな清少納言はどのようにして亡くなったのでしょうか?ここでは、清少納言の死因について簡単に解説していきます。

清少納言の死因は判明していない?

清少納言は、自身が仕えていた定子亡き後、宮廷を去ります。

そして、その後の清少納言の行方を記した資料はほとんどないのです。

そのため、清少納言の死因ははっきりと判明していません。

しかし、一説には、晩年は京都に戻って、父親の山荘がある東山月輪に住んでいたと言われています。

死亡推定時期は1025年頃で、約60歳で亡くなったと考えられています。

清少納言の子孫はいる?

清少納言はその生涯で2人の子供を残しています。

1人は最初の夫・橘則光との子である則長。

もう1人は、二人目の夫・藤原棟世との子である小馬命婦(こまのみょうぶ)です。

則長の子は続きましたが、その先が続かず、小馬命婦に関してもはっきりとした資料が残っておらず、清少納言の血は途絶えてしまったようです。

清少納言は晩年をどう過ごした?

清少納言の死因ははっきりと判明していませんでした。

それでは、晩年はどのように過ごしていたのでしょうか?

ここでは、清少納言の晩年の過ごし方を簡単に解説していきます。

清少納言は定子の死後宮中を去った?

清少納言は、その教養の高さを買われて、中宮・定子に仕えていました。

2人は非常に仲がよく、清少納言も定子のことをとても好いていました。

そんな中、定子は産後の肥立ちが悪く、そのまま亡くなってしまいます。

そして、そのショックから、清少納言は宮中を去ることにしたのです。

それ以降、清少納言が歴史の表舞台に登場することはなく、清少納言の晩年について書かれた資料もほとんど存在していません。

そのため、清少納言が晩年どのように暮らしていたのかは、はっきりと判明していないのです。

清少納言の晩年を語った伝承がいくつかある?

先程もお伝えしたように、宮中を去った後の清少納言について書かれた資料はほとんどありません。

しかし、中には少しずつですが、清少納言のことではないかとする資料が存在しています。

・鎌倉時代初期に書かれた説話集『古事談』のエピソード

ある日、殿上人が清少納言の家の前を通りました。

そして、家が崩れているのを見て、「清少納言も落ちぶれてしまったな…」と話します。

すると鬼のような尼僧(清少納言)が簾を掻き上げて、「駿馬の骨を買わないのか」と言いました。

これは、「名馬が欲しいのなら、死んだ馬の骨を買いなさい」という例えを使った中国の故事に由来している台詞となっています。老いて落ちぶれていても、理知的な清少納言を表していると言えるでしょう。

・鎌倉時代初期の評論『無名草子』のエピソード

かつては栄華を極めたけれど、落ちぶれて乳母とともに田舎に移り住み、つぎはぎだらけのボロを着て、宮中で女房衆だった頃の栄華を懐かしんでいるのは「いとあはれ」である。

清少納言は、中宮・定子の墓である鳥辺野陵の近く、泉涌寺周辺の山荘を借りて暮らしていたという説も存在しています。過去の栄華を忘れられず、東山の山の中で侘しい生活を送っていたことを揶揄したのでしょう。

このように、清少納言について書かれたエピソードはいくつかあるのですが、どれも「醜い老婆になった」「田舎(地方)をさまよっている」といったような、とても栄華を極めた清少納言のイメージからは程遠いものばかりとなっています。

清少納言の墓所はどこにある?

清少納言は晩年の記録があまり残っておらず、様々な伝承が残っていました。

最期の地がどこかはっきりと判明していませんが、墓所はいくつか存在しています。

その墓所とはどこにあるのでしょうか?

ここでは、清少納言の墓所について簡単に解説していきます。

清少納言の墓所は四国にいくつかある?

清少納言の晩年は、一説によると地方をさまよったとされることから、西日本の各地では清少納言の墓所とそれにまつわる伝承が伝えられてきました。

【清少納言の墓と考えられている場所】

  • 天塚(徳島県)
  • 清塚(香川県)
  • 名護神社(高知県)
  • 誓願寺(京都府)

そのほかにも、広島県や滋賀県など、至る所で清少納言の墓があるのではないか?という伝承があります。

この中で、現代でも清少納言の墓所としてみなされているのが、天塚と清塚です。

・天塚(徳島県)

清少納言は、晩年に父・清原元輔の領地とされる里浦(徳島県鳴門市の地域名)に移住しました。
ところが、そこで地元の漁師たちに清少納言は辱めを受けてしまいます。

そのことにショックを受けた清少納言は、自ら海に身を投げ、亡くなってしまいました。

すると、このあとから住民の間に目の病気が広まるようになります。住民たちは、これは清少納言の祟ではないかとし、霊を鎮めようと塚を建てたのでした。

それが現代に伝わる「天塚」です。

この場所には、後世になってから「清少庵」が建てられ、そこに住んだ尼が塚を守り供養していきました。

住所:徳島県鳴門市里浦坂田479

・清塚(香川県)

「こんぴらさん」として有名な金刀比羅宮(ことひらぐう)の大門のそばに清塚は存在しています。

この墓所は、江戸時代に伝承とともに発見されました。

1710年頃、大門の脇に太鼓を設置する建物・太鼓楼を作る途中、傍にあった塚が壊れてしまいます。

すると、付近に住んでいた大野孝信という人物の夢に、緋色の袴をはいた女性が現れ、次のように伝えました。

「晩年、父の信仰する金刀比羅宮の参拝のためこの地を訪れ、行き倒れて亡くなり、この塚の下に埋められた。この塚を移してくれるな」

目を覚ました大野孝信が驚いて、金刀比羅宮の人に相談した所、それはここで亡くなったとされる清少納言に違いないということになり、塚を直すことにしました。

この塚が、現代に残る「清塚」です。

住所:香川県仲多度郡琴平町

清少納言の墓所が四国に多い理由は?

清少納言の墓所として伝承が残っている場所は、四国に多いです。

なぜ四国に多いのでしょうか?

その理由はいくつかあります。

【清少納言の墓所が四国に多い理由】

  • 清少納言が晩年地方をさまよったとされることから、当時都から海を隔てた辺境の地であった四国がイメージとしてぴったりだった
  • 徳島には、父親の領地や定子の父親の荘園があったと言われており、それを頼って行った可能性が高い
  • 清少納言の家は、観音信仰に熱心な家柄であったため、四国で古くから伝わる観音信仰に関係があった→金刀比羅宮に参拝しに行こうとしたのではないかとする説
  • 四国の清原氏が自家の名を高めるために、清少納言が来たという話をでっちあげたとする説

どれも信憑性に欠けるものばかりですが、火のないところに煙は立たないですから、清少納言が何かしら関係していた可能性は高いでしょう。

まとめ:清少納言の死因は判明しておらず、様々な伝承が残っていた

清少納言は、中宮・定子に仕えていましたが、定子がなくなるとそのショックから宮中を去ってしまいます。そして、その後の清少納言の様子を事細かに書いた資料はほとんど無いため、清少納言の死因もはっきりと判明していません。

今回の内容をまとめると、

  • 清少納言が宮中を去った以降の資料はほとんど残っていない
  • そのため清少納言の死因は、はっきりと判明していない
  • 清少納言の晩年を語った伝承では、「醜い老婆になった」「田舎(地方)をさまよった」などとされている
  • 清少納言の墓所は、四国に多く存在しており、その他数多くの伝承がある

伝承に出てくる晩年の清少納言の描かれ方はどれもあまりいいものとは言えません。

しかし、色々な所でそういった伝承が残されているということは、いかに清少納言が有名人であったかということも知らせてくれていますね。

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