タイトル:清少納言の性格は?どんな人だった?性格がわかるエピソードなどを簡単に解説!
清少納言(966(康保3)〜1025(万寿2))は、平安時代中期に活躍した歌人・作家です。
2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、ファーストサマーウイカさんが演じられることでも話題となっています。
そんな清少納言の性格はどのようなものだったのでしょうか?
この記事では、清少納言の性格について簡単に解説していきます。
目次
清少納言の性格は?
清少納言は、宮中に仕え、仕事をバリバリにこなす、今で言うキャリアウーマンでした。
そんな清少納言はどのような性格をしていたのでしょうか?
ここでは、清少納言の性格について簡単に解説していきます。
清少納言は知的で明るい社交的な性格だった?
【清少納言の性格】
- 明るく社交的
- 勝ち気で負けず嫌い
- サバサバしている
- 思いやりや優しさを持っている
- 自分の気持ちに嘘偽りがなく素直
- 芯が強い
- 感性豊か
清少納言の父親は、清原元輔という著名な歌人でした。
また、曽祖父は清原深養父という、これまた古今和歌集を代表する歌人でした。そのため、清少納言は、幼少期から漢学を学び、この時代における最高水準の教育を受けて育ちました。
当時宮中では「漢字は男が使い、ひらがなは女性が使う」という考えが一般的だったのですが、清少納言はそのようなことは気にせず、和歌や漢詩の知識を活かして、定子や貴族たちとセンスのいい会話や歌のやり取りに興じていました。
時には、男性と漢詩を使った応酬をしてやり込むということもあったようです。
このように、清少納言は教養の高さを活かしたユーモアあふれる明るい性格であったため、周りに自然と人が集まる、そのような人物でした。
清少納言は社交的な一方で毒舌な一面もあった?
清少納言は、非常に明るく社交的な性格の持ち主でした。
しかし、その一方で毒舌な一面もあったのです。
それは、自身の作品である『枕草子』の中で、その一面が見られます。
一例を挙げると、
- 「取りどころなきもの」(取り柄のないもの)は、見た目がブサイクで性格も悪い人
- 「見ぐるしきもの」(見苦しいもの)は、ブサイク同士の昼寝
- 「ありがたきもの」(めったにないもの)は、主人の悪口を言わない従者、容貌・性格などすべてに欠点のない人
- 男というものは自分中心で人がどう思うか気にしない。男は何人もの女に同じように声をかけ、魅力のある女でもあっさり捨ててしまうのは理解できない。
以上のように、清少納言は自分の思ったことをはっきりと包み隠さずに言ってしまうタイプだったようです。
そのため、時には周りから「馬鹿にし過ぎ」と文句を言われることもあったとか…。
しかし、清少納言は自分の失敗談すらもオープンに話していたという点から、他人を陥れたいなどそのような意識は無く、ただ単純に自分の気持ちに正直なだけだったのかもしれませんね。
清少納言は明るいだけではなくコンプレックスもあった?
清少納言は知的で明るく、社交的な性格でした。
しかし、そんな清少納言にも、明るいだけではなくコンプレックスが存在していたのです。
ここでは、清少納言のコンプレックスなどについて簡単に解説していきます。
清少納言はクセ毛に悩んでいた?
清少納言が一番悩んでいたのは、実はクセ毛のことでした。
平安時代は、真っ直ぐな黒髪が女性の美のシンボルでした。
そのため、清少納言は自身のクセ毛に相当コンプレックスを感じていたようです。
宮中に出仕後間もない時には、
「部屋が明るいせいで、自分のクセ毛が主(定子)にはっきり見えてしまうのが恥ずかしい」
と嘆く一幕もありました。
清少納言は決して不美人ではなかったと言われていますが、自身の容姿にはあまり自信がなかったようです。
清少納言は繊細な一面もあった?
常に自信満々だと思われがちな清少納言ですが、実は繊細な一面も存在していました。
それは、初めて宮仕えをしたときのことです。
あまりの緊張に泣きそうになり、定子の前に出ず、物陰に隠れていたことがありました。
また、宮仕えに慣れてきた頃、ある歌の下の句に上の句をつけるように、清少納言が頼まれたことがありました。
この際、清少納言は返事を待つのが立派な貴族たちだと聞いて、「どう思われるのか心配…」と弱気な心情を綴っていました。
男性にも打ち勝ってしまうほど負けず嫌いで勝ち気な性格の印象が強い清少納言ですが、このように非常にナイーブな一面もあったということですね。
清少納言の恋愛事情は?
知的で明るく、社交的な清少納言は、非常にモテたという話があるのです。
どのような恋愛をしていたのでしょうか?
ここでは、清少納言の恋愛事情を簡単に解説していきます。
清少納言の結婚相手は複数人いた?
清少納言の結婚相手としてはっきりと確定しているのは、2人存在します。
1人目は、「橘則光」という人物です。
清少納言とは、ほぼ同年代であったと言われています。そして、子供を1人授かりますが、性格の不一致から離婚することになります。
しかし、離婚することになっても、2人の仲は決して悪くなかったようです。
その証拠に、離婚後も2人は宮中では兄妹と呼ばれるほど仲が良かったと言われています。
2人目は、再婚相手の「藤原棟世」という人物です。
藤原棟世は、清少納言よりも20歳以上も年上であったと言われているので、親子並みの年齢差があったということですね。
藤原棟世という人物に関しての記述はあまり残っていないので、どのような人物なのかははっきりとしていません。
しかし、2人の間には「小馬命婦(こまのみょうぶ)」という娘がいたことが判明しており、小馬命婦は清少納言と同じように、後に宮仕えをしていたそうです。
結婚相手としては、この2人が挙げられますが、その他にも、藤原道長や藤原斉信、藤原実方といったように、数々のプレイボーイからも迫られていたようです。
清少納言の歌には恋の駆け引きをしている場面がある
清少納言の百人一首にも選ばれている歌には、恋の駆け引きをしているエピソードが詠まれています。
その歌は以下のものです。
【清少納言の百人一首に選ばれている歌】
「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
現代語訳:
「夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き声を真似して夜が明けたと人をだまそうとしても、そんな嘘は通用しませんよ。(中国の)函谷関ならいざ知らず、あなたとわたしの間にあるこの逢坂の関は、決して許すことはありません」
ある夜、清少納言の元にやってきた藤原行成はしばらく話をしていましたが、
「宮中に物忌があるから…」
と言って、早々と帰ってしまいました。
翌朝、「鶏の鳴き声に急かされてしまって…」と言い訳の文を藤原行成が送ってきます。
それに対して、清少納言は、
「嘘おっしゃい。中国の函谷関(かんこくかん)の故事のような、鶏の空鳴きでしょう」
と答えるのです。
この「函谷関の故事」というのは、中国の史記にある孟嘗君の話のことになります。秦国に入って捕まった孟嘗君が逃げる時、一番鶏が鳴くまで開かない函谷関の関所を、部下に鶏の鳴き真似をさせて開けさせたのでした。
このように故事を用いながら、清少納言は、
「どうせあなたのいいわけでしょう?」
と言いたかったわけです。
それに対して、藤原行成は
「関は関でも、あなたに逢いたい逢坂の関ですよ」
と弁解します。
そこで歌われたのが、この歌なのです。
「鶏の鳴き真似でごまかそうとしても、この逢坂の関は絶対に開きませんよ」
と、清少納言はきっぱりと拒否したわけですね。
このように清少納言は、言い寄ってくる男性に対して流されること無く、知的に拒否することができる、サバサバした一面も持っていたということですね。
まとめ:清少納言は、知的で明るい社交的な性格の魅力ある女性だった
清少納言は、幼少期から培ってきたその知識を活かし、ユーモアあふれる会話や歌の詠み合いなどを行っていました。その結果、非常に明るく社交的な魅力のある女性として活躍することとなりました。
今回の内容をまとめると、
- 清少納言は、知的で明るい社交的な性格だった
- 清少納言は、勝ち気で負けず嫌いだったため、男性と漢詩勝負をする場面もあった
- 清少納言は、一方で繊細な一面も持ち合わせていた
- 清少納言は、その明るい性格故に、様々な男性に言い寄られていた
清少納言は、現代で言うところのいわゆる「陽キャ」と呼ばれる部類の人間だったのでしょう。そんな明るく社交的な清少納言の周りには、自然と人が集まってきたというのもわかる気がしますね。