清少納言はどんな人?年表から簡単に解説!性格は?功績は?死因は?
清少納言(966(康保3)〜1025(万寿2))は、平安時代中期に活躍した歌人・作家です。
2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、ファーストサマーウイカさんが演じられることでも話題となっています。
そんな清少納言はどんな人だったのでしょうか?
この記事では、清少納言の功績や性格などを、年表を見ながら簡単に解説していきます。
目次
清少納言はどんな人?年表で簡単に解説!
清少納言は、平安文学の代表作である『枕草子』を書いたことで有名です。
そんな清少納言はどんな人だったのでしょうか?
ここでは、清少納言がどんな人だったのかを年表を見ながら簡単に解説していきます。
清少納言の年表
清少納言(せいしょうなごん):966年(康保3年)〜1025年(万寿2年)
※正確な生没年は不詳
父:清原元輔/母:不詳
夫:橘則光、藤原棟世
子:橘則長、小馬命婦
【清少納言の年表】
- 966年(康保3年):0歳
清原元輔の娘として誕生する - 981年(天元4年):15歳
陸奥守・橘則光と結婚する - 982年(天元5年):16歳
橘則光との子である橘則長を出産する - 991年(正暦2年):25歳
橘則光と離婚する - 993年(正暦4年):27歳
一条天皇の后・定子の教育係として出仕する - 995年(正暦6年):29歳
定子の父・藤原道隆が亡くなる
→藤原道隆の弟・藤原道長が権力を持ち始める
→清少納言はスパイだと疑われ、宮中への出仕を辞める - 1000年(長保2年):34歳
定子に呼び戻され、再び出仕を始めたが、この年に定子崩御
→ショックのあまり宮中への出仕を再び辞める
→藤原棟世と再婚し、摂津国へ向かう - 1025年(万寿2年):60歳(この頃に亡くなったと推測されている)
清少納言の死因は?
清少納言は、自身が仕えていた定子亡き後、宮廷を去ります。
そして、その後の清少納言の行方を記した資料はほとんどないのです。
そのため、清少納言の死因ははっきりと判明していません。
しかし、一説には、晩年は京都に戻って、父親の山荘がある東山月輪に住んでいたと言われています。
死亡推定時期は1025年頃で、約60歳で亡くなったと考えられています。
清少納言の功績は?何をした人?
清少納言は、幼少期から和歌や漢詩の英才教育を受け、非常に高い教養を持ち合わせた女性でした。
そんな清少納言は何をした人なのでしょうか?
ここでは、清少納言の功績を簡単に解説していきます。
清少納言は『枕草子』を書いた
清少納言の代表作品と言えば、『枕草子』です。この枕草子は「随筆」というジャンルの作品になります。そして、「日本最古の随筆」「世界最古のエッセイ文学」とも言われており、日本三大随筆の1つにも選ばれているのです。
内容は基本的に清少納言の身に実際起こったことや、清少納言自身が感じたことなどを中心に書かれています。
約300の章段から成り、大きく分けると下記の3種類に分類されます。
1、「虫は」「木の花は」「すさまじきもの」「うつくしきもの」などと言ったものに代表される「ものづくし」の類聚章段
2、日常生活や四季の自然を観察した随想章段
3、清少納言が出仕していた定子周辺の宮廷社会を振り返った回想章段(日記章段)
この3つの中でも特に特徴的なのが、類聚章段です。
ここは、他の文学作品に類を見ないくらい同じ種類の事柄を集めた章段となっています。
名詞がひたすら綴られていくのですが、その言葉選びから、清少納言の鋭い感性や、知性の高さが伺える文章となっています。
清少納言は中宮・定子の教育係をしていた
清少納言は、その教養の高さから、藤原道隆に目をつけられ、娘の定子の教育係として任命されます。
清少納言は定子のことを大変慕い、また、定子も清少納言のことを気に入り、お互いに非常にいい関係を築いていました。2人の間には非常に深い信頼関係があったのです。
清少納言は宮中でも才能を発揮し、色々な貴族たちと交流していき、定子サロンを代表する女房になりました。
このように、宮中での生活があったからこそ、清少納言は数々の歌人らと切磋琢磨しながらいい作品を生み出していったのでしょう。
そして、周りにもいい影響を与えていったのは間違いありません。
清少納言の性格がわかるエピソードは?
清少納言は、『枕草子』を書いたり、定子の家庭教師をしたりと非常に教養の高い女性でした。
そんな清少納言は、どのような性格だったのでしょうか?
ここでは、清少納言の性格がわかるエピソードを簡単に解説していきます。
清少納言は男性にも強気な態度を取っていた?
清少納言は幼少期から和歌や漢詩の英才教育を受けて育ったため、非常に高い教養を持っていました。そのため、男性を相手にしても引けを取らない強気な態度を取っていました。
それを表しているものが、清少納言の百人一首に選ばれている歌にあります。
その歌は以下のものです。
「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
現代語訳:
「夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き声を真似して夜が明けたと人をだまそうとしても、そんな嘘は通用しませんよ。(中国の)函谷関ならいざ知らず、あなたとわたしの間にあるこの逢坂の関は、決して許すことはありません」
ある夜、清少納言の元にやってきた藤原行成はしばらく話をしていましたが、
「宮中に物忌があるから…」
と言って、早々と帰ってしまいました。
翌朝、
「鶏の鳴き声に急かされてしまって…」
と言い訳の文を藤原行成が送ってきます。
それに対して、清少納言は、
「嘘おっしゃい。中国の函谷関(かんこくかん)の故事のような、鶏の空鳴きでしょう」
と答えるのです。
この「函谷関の故事」というのは、中国の史記にある孟嘗君の話のことになります。秦国に入って捕まった孟嘗君が逃げる時、一番鶏が鳴くまで開かない函谷関の関所を、部下に鶏の鳴き真似をさせて開けさせたのでした。
このように故事を用いながら、清少納言は、
「どうせあなたのいいわけでしょう?」
と言いたかったわけです。
それに対して、藤原行成は
「関は関でも、あなたに逢いたい逢坂の関ですよ」
と弁解します。
そこで歌われたのが、この歌なのです。
「鶏の鳴き真似でごまかそうとしても、この逢坂の関は絶対に開きませんよ」
と、清少納言はきっぱりと拒否したわけですね。
このように清少納言は、言い寄ってくる男性に対して流されること無く、知的に拒否することができる、サバサバした一面も持っていたということですね。
清少納言は実は和歌が苦手?
清少納言と言えば、幼少期から和歌と漢詩の英才教育を受け、男性に引けを取らない高い教養を持っていたことで有名ですよね。
しかし、実は清少納言は和歌が苦手だったと言われています。
清少納言の父親は清原元輔という人物で、和歌の名手でした。
さらに曽祖父も、清原深養父という人物で、『古今和歌集』に収録されていたほどの代表的な歌人でした。
そのような偉大な父と曽祖父がいたため、清少納言は気後れしてしまっていたのです。
ある定子が催した歌会の際のことです。
定子が、清少納言に
「元輔の子のあなたが、なぜ今夜の歌会に加わらないのですか?」
と訪ねました。
すると、清少納言は
「歌人の娘と言われない立場であれば、真っ先に詠んでみせます」
と回答したのです。
このように、随筆には長けていた清少納言でしたが、和歌については父や曽祖父のせいで苦手意識があったようですね。
清少納言はクセ毛に悩んでいた?
清少納言は、実はクセ毛に悩んでいました。
平安時代は、真っ直ぐな黒髪が女性の美のシンボルでした。そのため、清少納言は自身のクセ毛に相当コンプレックスを感じていたようです。
宮中に出仕後間もない時には、
「部屋が明るいせいで、自分のクセ毛が主(定子)にはっきり見えてしまうのが恥ずかしい」
と嘆く一幕もありました。
清少納言は決して不美人ではなかったと言われていますが、自身の容姿にはあまり自信がなかったようです。
まとめ:清少納言は『枕草子』を書いた知的で明るい女性だった
清少納言は、幼少期から和歌や漢詩の英才教育を受けてきたため、非常に高い教養を持ち合わせていました。そして、そのおかげで中宮・定子に仕えることとなり、『枕草子』を書くこととなりました。
今回の内容をまとめると、
- 清少納言は、父・清原元輔、曽祖父・清原深養父という和歌の名家に生まれた
- 清少納言は、幼少期から、和歌や漢詩の英才教育を受けてきたため非常に高い教養を持っていた
- 清少納言は、その教養の高さから、中宮・定子の教育係に任命され、出仕する
- 清少納言は、宮廷で感じたことなどを書き綴った随筆『枕草子』を完成させた
定子と清少納言の関係が良好だったことから、定子サロンは非常に明るく優秀なサロンになっていたと言います。その後にサロンを築くこととなった中宮・彰子と紫式部は、定子サロンと比べられることとなり、非常に肩身の狭い思いをしたんだとか…。それほどまでに、清少納言の影響は大きかったのかもしれませんね。