田沼意次の改革内容は?どんな政策だった?賄賂政治?松平定信との関係は?
田沼意次(1719(享保4)〜1788(天明8))は、江戸時代中期に活躍した江戸幕府の老中です。第9代将軍・徳川家重と第10代将軍・徳川家治の治世下で側用人と老中を兼任し、幕政を主導しました。
そんな田沼意次が政治を主導していた時期は、「田沼時代」とも呼ばれていました。
いったいどのような政治改革をしたのでしょうか?
また、松平定信とはどのような関係だったのでしょうか?
この記事では、田沼意次の改革について簡単に解説していきます。
目次
田沼意次の改革「田沼時代」の特徴は?
田沼意次が政治を主導していた時期のことを、田沼時代と呼びます。
田沼意次は、この時期にどのような改革をしていたのでしょうか?
ここでは、田沼時代の特徴を簡単に解説していきます。
重商主義へと転換した?
徳川家重の代では、凶作が起こり、増税への反発から各地で一揆が頻発します。
こうした社会不安の高まりから、幕府は財政難に陥ろうとしていました。
そこで、田沼意次はこれ以上農民から税を搾り取るのは不可能だと考え、別のところから取るように考えます。
それまでは、農業主義の政策でしたが、重商主義の政策へと転換していくのです。
商業を盛んにすることで、財政を立て直そうとしたわけですね。
これまで江戸幕府は、商人や都市の住民からほとんど税らしきものを徴収してきませんでした。
そのため、ここから税を徴収するという考えは、当時にしてみれば斬新な考えだったのです。
常識に囚われない大胆な発想の改革だった?
農業主義の政策から重商主義の政策へと転換したこともそうですが、田沼意次の政策は、常識に囚われない大胆な発想のものが数多くありました。
過去の権力者たちが思いつかなかったスケールの大きな政策は、田沼意次だからこそできたものだったと言えるでしょう。
田沼意次の大胆さを表すエピソードがあります。
ある時、ロシアが蝦夷地に来襲しようとしているという情報が入りました。
すると、田沼意次は、ロシアとの通商交渉を即刻開始したのです。
それまで、日本の貿易はオランダと清に限られ、他国とは鎖国状態を保ってきました。
しかし、その状況をためらいもなく打ちこわし、敵対する可能性もある未知の大国・ロシアと通商交渉を始めるのです。
このことから、田沼意次の大胆さが伺えますね。
田沼意次は改革で何をした?その内容は?
田沼時代では、重商主義へと移っていったり、常識に囚われない改革が行われたりしていました。
田沼意次は、具体的にはどのような改革をしたのでしょうか?
ここでは、田沼意次が改革で何をしたのか簡単に解説していきます。
株仲間を奨励するなど商業を活性化させた?
田沼意次は、商業を盛んにすることで財政を立て直そうとしました。
そこで、
- 同業者同士の結成された組合である「株仲間」の奨励
- 銅座、朝鮮人参座、枡座といった「座」を作って専売制を実施した
- 運上・冥加と呼ばれる営業税・営業免除税を納入させた
- 長崎貿易の制限を緩和
- 対清貿易のための干し鮑やふかひれなどの産品開発
- 鉱山の開発
- 貨幣制度を統一するために、全国で使える「南鐐二朱銀」を大量に鋳造して流通させた
以上のようなことを田沼意次はやっていきました。
田沼意次のおかげで貨幣経済が発展し、江戸の町は豊かになります。
その結果、歌舞伎や浮世絵などの江戸文化も花開きました。
蝦夷地や印旛沼など様々な土地の開発を行った?
田沼意次は、様々な土地の開発も行っていました。
・蝦夷地の開発
田沼意次は、蝦夷地がロシアに侵略される前に蝦夷地を支配下に置くために、まず蝦夷地の調査をしました。
すると、蝦夷地を開拓して耕作地にすると、江戸幕府はなんと5,800,000石以上の増収になることが判明します。
当時の幕領は、合計でも4,500,000石でしたから、これが実現すれば一気に2倍以上になるというわけです。
そこで蝦夷地の開発を進めていくことにしたのです。
・印旛沼の干拓
田沼意次は、印旛沼に流れ込む水を堰き止め、17kmに及ぶ水路(今日の印旛水路)を築いて水を抜き、大水田地帯を作るという計画も立ち上げ、推進していきました。
この水路が完成すれば、常総と下総国の物資が1日で江戸に届くようになると考えられていましたから、計り知れない経済効果が期待されていたのです。
以上のように、幕領を増やしつつ、経済効果も上げていく、田沼意次のビッグプロジェクトは大胆なものでした。
しかし、これらの計画は、田沼意次の失脚により中断されてしまいました。
田沼意次はなぜ失脚した?
田沼意次のおかげで幕府の財政は改善され、景気もよくなりましたが、田沼意次は後に失脚することになります。
田沼意次は、なぜ失脚したのでしょうか?
ここでは、田沼意次が失脚した理由を簡単に解説していきます。
田沼意次に対する反感が高まりすぎた?
田沼意次が政治の主導権を握っていた時代は、江戸時代最大の異常気象の時期でもありました。全国で異常気象や疫病、火山の大噴火などが頻発し、極めつけには天明の大飢饉が起こり、この期間だけで約90万人もの人が命を失いました。
儒教では、
「天変地異が起こるのは、そのときの為政者に徳がないから」
という思想があります。
そして、当時の日本にも儒教は浸透していたため、人々は相次ぐ天変地異は田沼意次のせいに違いないと考えるようになり、不満を募らせていくのです。
また、田沼意次は、士農工商にとらわれない実力主義に基づく人材登用を行っていました。
これが幕府内にいた保守的な閣僚の反感を買うようになります。
このように、幕府の内外から田沼意次をやめさせるような風潮が起こり始めるのです。
そんな中、田沼意次の嫡男・田沼意知が江戸城にて刺殺され、田沼意次を支援してきた徳川家治も亡くなってしまいます。
跡継ぎと後ろ盾を失った田沼意知の求心力は一気に低下し、反田沼派によって老中を辞任させられてしまうのです。
田沼意次は異例な過酷な処分を受けた?
老中を辞任させられた田沼意次は、異例な過酷な処分を受けました。
まず、第11代将軍・徳川家斉が着任すると、田沼意次は老中時代に不正があったという罪で蟄居を命じられます。
さらに、江戸と大阪にあった蔵屋敷は没収され、領地であった相良城は破壊され、財産まで没収されてしまうのです。
これは、江戸時代の幕閣に対する処分としては異例の厳しさでした。
なぜこんなに厳しい処分を受けたのかというと、松平定信が関係していると言われています。
松平定信は、第8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる人物でした。
そして、自分が将軍になれなかったのは、田沼意次のせいだと恨んでいました。
そのため、完全に私怨で田沼意次に厳しい処分を課していたのではないかとされているのです。
真偽はわかりませんが、厳しい処分を受けた田沼意次は失意のうちに70歳で亡くなりました。
田沼意次の賄賂政治は「黒」ではなかった?
田沼意次といえば、賄賂政治だと学校で習ったという人も多いのではないでしょうか?
そのため、田沼意次の政治というと、黒いイメージがつきがちです。
しかし、近年田沼意次の政治は黒ではなかったのではないかと、見直されてきています。
当時、賄賂は当たり前のことでした。
賄賂というと、聞こえが悪いかもしれませんが、誰かに頼み事をしに行く際、手ぶらではいけませんよね。そこで、人々は挨拶代わりに賄賂を持っていったわけです。
田沼意次は老中という立場上、非常に頼まれごとが多かったのでしょう。
彼の元には、彼の意思とは関係なくたくさんの賄賂が集まってきたのです。
田沼意次の賄賂に関するエピソードはいくつか存在しています。
- 田沼意次が屋敷を新築した際、「庭の池に魚がいると面白そうだ」と呟きました。
すると、その日の夕方までに商人や諸大名から大量の魚が届いた - 某大名から「等身大の京人形です」と大きな箱に入った美女が届けられた
- 田沼意次が「最近万年青(おもと:すずらん科の観葉植物)の栽培に凝っている」と呟いた。
すると、その日のうちに江戸中の万年青が売り切れになった
このように、田沼意次が商人や大名に与える影響は非常に大きかったということが伺えます。
また、失脚後、田沼意次は将軍に次のような内容の手紙を送ります。
「全ては自分のためではなく、老中として天下のために身を捧げた。自分は少しも偽りを行わなかった」
ここからもわかるように、田沼意次自身はずっと私腹を肥やすわけではなく、天下のために動いていたのです。
ちなみに、受け取った賄賂は、部下に酒やごちそうを振る舞うのに使っていました。
田沼意次は全く黒い人物ではなかったというわけですね。
田沼意次と松平定信の関係は?
松平定信は、田沼意次の後に老中になった人物です。
この田沼意次と松平定信の二人はどのような関係だったのでしょうか?
一説によると、松平定信は田沼意次のことを恨んでいたという話があります。
それは何故かというと、自分の将軍のチャンスを潰されたからです。
松平定信は、田安徳川家の祖・田安宗武の嫡男として生まれました。つまり、第8代将軍・徳川吉宗の孫だったわけです。
幼少期から聡明で、いずれは田安家を継いで、将軍になるだろうと期待されていました。
しかし、実際は将軍になることはなく、奥州白河藩主・松平定邦のもとへ養子に出されてしまうのです。
これは、松平定信が田沼意次の政治を「賄賂政治」だと批判したことで、田沼派から不興を買ったためではないかと言われています。
このことから、松平定信は田沼意次のことを恨んでいるのです。
そして、田沼意次を老中から引きずり落とし、その後厳しい処分を与えたわけですね。
しかし、田沼意次は実力主義の人材登用をしていた人物ですから、本当に松平定信が聡明な人物であったのであれば、左遷のようなことをするとは考えにくいです。
つまり、田沼意次の意思とは関係なく、田沼派の人物が勝手にしたことではないかとも考えられます。
そうだとしたら、完全に田沼意次は被害者なわけで、かわいそうな人物であったと言えるでしょう。
まとめ:田沼意次は常識に囚われない大胆な改革を行っていた
田沼意次は、それまでの常識に囚われない大胆な改革を行っていきました。しかし、それは保守派から反感を買い、不幸なことに重なった天変地異のせいで人々からも不満が募り、最終的には老中を辞任させられることになりました。
今回の内容をまとめると、
- 田沼時代は農業主義の政策から重商主義の政策へと転換した
- 田沼意次は常識に囚われない大胆な改革を行っていた
- 田沼意次は、幕府内外から不満が募り、最終的には反田沼派によって老中を辞任させられた
田沼意次といえば「賄賂政治」と学校で習った人は非常に多いでしょう。
しかし、きちんと見てみると、田沼意次は非常に部下思いで、世のために尽くした人物だったということがわかります。様々な視点から歴史を見るということの重要性に気付かされますね。