聖武天皇は何をした人?年表で簡単に解説!奈良の大仏を造った?功績は?
聖武天皇(701年(大宝元年)〜756年(天平勝宝8年))は、奈良時代に活躍した第45代天皇です。
仏教を深く信仰していたため、全国に国分寺や国分尼寺を建立したり、東大寺の大仏を建立したりしたことでも知られています。
そんな聖武天皇は、具体的には何をした人なのでしょうか?
この記事では、聖武天皇の年表を見ながら、功績などを簡単に解説していきます。
目次
聖武天皇は何をした人?年表で簡単に解説!
【聖武天皇の年表】
- 701年(大宝元年):0歳
文武天皇の長男として誕生する - 714年(和銅7年):13歳
皇太子となる - 724年(神亀元年):23歳
即位して天皇となる - 729年(神亀6年):28歳
長屋王の変が起きる
→藤原不比等の娘・光明子を皇后として迎える - 737年(天平9年):36歳
天然痘が大流行する
→藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死する - 740年(天平12年):39歳
藤原広嗣の乱が起きる
→以降5年間は、恭仁京、紫香楽宮、難波宮と、目まぐるしく遷都を繰り返す(彷徨五年) - 741年(天平13年):40歳
国分寺建立の詔を出す - 743年(天平15年):42歳
東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出す
墾田永年私財法を出す - 749年(天平勝宝元年):48歳
娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位して、太上天皇となる - 752年(天平勝宝4年):51歳
東大寺大仏の開眼法要を行う - 756年(天平勝宝8年)
崩御する(宝算:56歳)
聖武天皇がしたこととは?功績一覧
聖武天皇がしたことは、主に3つのことが挙げられます。
- 全国に国分寺や国分尼寺を建立したこと
- 東大寺の大仏を建立したこと
- 墾田永年私財法を出したこと
それぞれ詳しく解説していきます。
・全国に国分寺や国分尼寺を建立したこと
聖武天皇が天皇になってからというもの、天然痘の流行や災害、飢饉が多く、また政治情勢も非常に不安定であったため、聖武天皇は「どうしたら世の中が安定するのだろう」と常に頭を悩ませていました。
場所が悪いのかもしれないと遷都を繰り返してみたものの、あまり効果はありません。
そんな中、聖武天皇は、次第に仏教への帰依を深めていくのです。
そして、仏教による鎮護国家を目指していくこととなります。
その政策の一歩として掲げられたのが、全国に国分寺や国分尼寺を建てることです。
各寺院には、四天王による御加護が得られる金光明最勝王経が安置されました。
こうすることにより、全国民の仏教への信仰を深めようとしたのです。
・東大寺の大仏を建立したこと
鎮護国家を目指してしたことは、国分寺・国分尼寺の建立だけではありません。
次にしたことは、大仏の造立です。
国家を上げた一大プロジェクトとなった大仏の造立ですが、これを作ることにより、社会の安寧を願い、祈る場所としました。
大仏の大きさは天平当時で15m以上であり、その大仏を納める大仏殿も合わせると、相当な規模だったことが伺えます。
また、仕上げの段階で金鉱脈が発見されたことにより、金メッキ仕上げとなったようで、工事に関わった人員は、延べ260万人以上とも言われています。
聖武天皇自らも、民衆とともに作業を行ったようで、いかにこの事業へ積極的に取り組んでいたのかがわかりますね。
ちなみに、後世大仏は二度の戦火に遭い、現在見られる大仏は江戸時代に修復されたものとなっています。
・墾田永年私財法を出したこと
聖武天皇は仏教のことばかり考えていたわけでもありません。
経済対策として、「墾田永年私財法」を出します。
これは、「新しく耕した土地は永久に私有を認める」という決まりでした。
当時、飢饉や貧しさに苦しんだ農民たちが、土地を捨てて逃げ出した結果、土地は荒れ果て税も取れなくなってしまっていたのです。
このままではいけないと、聖武天皇は墾田永年私財法を出して、土地の個人所有を認めたわけですね。
しかし、大宝律令では、「土地と人民は国のものである」という公地公民制があります。
この墾田永年私財法は、その大前提を崩すものだったのです。
個人所有が認められた結果、「荘園」が発生し、次第に公地公民制は崩れていきました。
以上のように、聖武天皇は鎮護国家を目指して仏教を広めることに尽力していたことがわかります。
聖武天皇が鎮護国家を目指した理由
聖武天皇は、どうしてそこまで鎮護国家を目指すことにこだわったのでしょうか?
聖武天皇の治世では、立て続けに飢饉や病気の流行が起きたり、政治情勢もあまりよくなかったりしました。
そして、当時、災いなどが起きると、それは為政者のせいにされる風潮があったのです。
聖武天皇も例に漏れず、立て続けに起こる飢饉や病気の流行は、自身の責任であると考えました。
どうしたらよいのかと悩む中、光明皇后の勧めもあり、仏教に解決を求めます。
光明皇后自身も、篤い仏教信者だったのです。
仏教に帰依することにより国の安泰を願う、それが聖武天皇にできる唯一のことだったのかもしれません。
聖武天皇は晩年に出家した
聖武天皇は鎮護国家を目指していましたが、なかなか不安定な政治情勢は解消されません。
そんな中、聖武天皇の第二皇子である安積親王が急死してしまい、その直後に聖武天皇自身も病気で重篤に陥ります。
その後、一時は回復の兆しを見せるも、聖武天皇と共に政務を遂行していた元正太上天皇が崩御してしまったことにより、再び体調が悪化してしまうのです。
このように憔悴しきった聖武天皇は、体調不良を理由に、皇女の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位することにします。
そして、東大寺に行幸し、大仏の前に着座し、仏の僕を意味する「三宝の奴」を自称し、そのまま出家してしまいました。
天皇の出家は、聖武天皇が初めてのことで、天皇が仏の臣下であることを宣言するという異例の事態は、さぞ臣下たちを驚かせたことでしょう。
このように、聖武天皇は、自らが出家することによって、仏教に対する深い信仰心を示してみせたのです。
聖武天皇に関するQ&A
聖武天皇に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 聖武天皇の時期に栄えた文化は?
- 奈良時代の天皇には誰がいた?
- 奈良時代の権力争いの変遷は?
聖武天皇の時期に栄えた文化は?
聖武天皇の時期に栄えた文化は、天平文化と言います。
奈良時代は、遣唐使の影響などによって、国際色豊かな仏教文化が日本にもたらされました。
その結果、天平文化は、唐を中心にペルシアやインドなど世界各地の影響を包含した文化となっています。
また、聖武天皇の仏教政策の影響を受け、国家仏教色が強いのも特徴の1つです。
そして、平城京を中心に、壮大で華麗な建造物や仏像などが次々と建てられました。
\ 天平文化に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
奈良時代の天皇には誰がいた?
奈良時代の天皇は全部で7人(1人重祚)いました。
それぞれの名前と在任期間は以下の通りです。
【奈良時代の天皇一覧】
- 第43代天皇:元明天皇(707年(慶雲4年)〜715年(和銅8年))
- 第44代天皇:元正天皇(715年(和銅8年)〜724年(養老8年))
- 第45代天皇:聖武天皇(724年(神亀元年)〜749年(天平感宝元年))
- 第46代天皇:孝謙天皇(749年(天平勝宝元年)〜758年(天平宝字2年))
- 第47代天皇:淳仁天皇(758年(天平宝字2年)〜764年(天平宝字8年))
- 第48代天皇:称徳天皇(764年(天平宝字8年)〜770年(神護景雲4年))(孝謙天皇重祚)
- 第49代天皇:光仁天皇(770年(宝亀元年)〜781年(天応元年))
- 第50代天皇:桓武天皇(781年(天応元年)〜806年(大同元年))
奈良時代の権力争いの変遷は?
奈良時代の天皇は、天皇中心の政治を作っていこうとしていましたが、実際の権力は、藤原氏とその他が交互に担っていくこととなりました。
簡単に流れを見ていくと、
藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂(恵美押勝)→道鏡→藤原百川
以上のような流れで、激しい権力争いが繰り広げられていました。
この中でも、特に注目したいのが藤原不比等です。
奈良時代初期の元明・元正天皇は女帝で、自然と太政大臣の発言力が強まっていきました。そしてこの際、実質的に最上位の地位にあったのが、右大臣・藤原不比等でした。
奈良時代の基本路線は、この藤原不比等によって作られたと言っても過言ではありません。
さらに、藤原不比等は自身の娘を文武天皇と結婚させるなどして、天皇との結び付きを深めていきました。
このことが、後に絶大な権力を握ることとなる藤原家の基盤となっていくのです。
奈良時代は、平安時代に全盛期を誇る藤原氏の、基礎が出来上がった時代と言い換えることもできるでしょう。
まとめ:聖武天皇は鎮護国家を目指して仏教を布教した
不安定な世の中が続いたため、聖武天皇は鎮護国家を目指して仏教を布教していきました。国分寺や国分尼寺、東大寺の大仏を建てることによって、国の安泰を願ったのです。
今回の内容をまとめると、
- 聖武天皇の治世では国が非常に不安定だった
- 聖武天皇は国の安泰を願い、鎮護国家を目指した
- 聖武天皇は、仏教を布教するため、国分寺や国分尼寺、東大寺の大仏を建てた
- 聖武天皇自身も、晩年に出家した
国のトップで、それより偉い人はいないと思われていた神様のような扱いの天皇が、突然仏の僕であると宣言するんですから、当時の人々の動揺は計り知れません。しかし、それほどまでに、聖武天皇は仏教を深く深く信仰していたということなのでしょうね。