明智光秀の家臣団にはどんな人物がいたのか?信長を支えた光秀とその家臣団
日本史上最大のミステリーと言っても過言ではない、本能寺の変。天下統一目前の織田信長が最も信頼していた家臣、明智光秀の謀反によって命を落とした事件です。その本能寺の変の首謀者である明智光秀。出自も不明で、経歴も途中までは明らかになっていない非常に謎の多い人物です。織田信長に仕え始めたのも途中から、いわば中途採用にもかかわらずその優秀さから信長の信頼を得てどんどんと地位を上げて行きました。
そんな優秀な明智光秀に仕えていた、家臣団も優秀な人物が揃っていました。今回は、明智光秀の家臣団にどんなメンバーがいたのか?またそれぞれの個性、本能寺の変の後光秀に仕えた家臣たちはどのような人生を辿ったのかを見ていきましょう。
目次
明智光秀の家臣団。光秀と苦楽を共にした家臣たち
織田信長の家来としてに仕えていた明智光秀。そして光秀を支える家臣たちがいました。光秀が信長に仕えていたのと同様に、光秀に仕えていた家臣たちを紹介します。
昔から明智光秀に仕えていた家臣団
明智光秀は、室町幕府の足利将軍家に仕えていた奉公衆で、幕府の再建の目的のもとに活動をしていました。その活動の一環として、足利義昭を織田信長に引き合わせ上洛しています。その頃から光秀に仕えていた家臣たちを紹介します。
【明智一門衆】
明智光秀と血縁関係のある家臣たちです。戦国時代は、いつ戦さが始まるか、いつ裏切られるかもわからない時代です。血のつながりを大事にし、血縁者で家臣団を構成していました。
- 明智秀満
- 明智光忠
- 明智半左衛門
- 明智孫十郎
- 妻木一族(妻木広忠、妻木範煕、妻木範賢、妻木範武、妻木範之)
妻木一族は、明智光秀の妻「妻木煕子」の親族です。明智光秀もまた血の繋がりを大事にし、血縁者で家臣団を構成し、また血縁者たちも光秀を慕い共に戦っていたことが伺えます。
【その他の家臣】
- 藤田行政
- 溝尾茂朝
この二人は、光秀の父の代から仕えてました。この二人に斎藤利三、そして明智秀満、明智光忠を明智五宿老と読んでいます。
信長時代に明智光秀に仕えていた家臣たち
【北山城衆】
明智光秀は信長に使え始めて間もない頃は、室町幕府最後の将軍「足利義昭」にも仕えていました。その足利義昭から、山城に知行を与えられていたので、その北山城衆が光秀に与力として使えていました。
- 山本対馬守
- 渡辺昌
- 佐竹宗実
- 礒谷久次
この北山城衆の山本対馬守・渡辺昌・礒谷久次らは、織田信長が足利義昭を京都から追放したと同時期に、明智光秀から離れ、足利義昭側についています。
与力として明智光秀の家臣団として仕えていたとはいえ、実際は足利義昭を主君としており、その立場を重視して家臣団から抜けたのではないかと言われています。
【堅田衆】
比叡山の焼き討ち後、明智光秀は織田信長から、近江国志賀郡を与えられました。その近江志賀郡を従属させ、家臣団に加えています。
- 猪飼野昇貞
- 馬場孫二郎
- 居初又次郎
- 林員清
【その他家臣たち】
信長が足利義昭を追放したのち、旧幕臣の武士で信長の傘下に入った多くの者は明智光秀の家臣団に与力として入りました。また、明智光秀の友人だった細川藤孝(幽斎)も信長の家臣となり、明智光秀の与力となっています。
- 伊勢貞興
- 諏訪飛騨守
- 津田重久
- 細川藤孝(幽斎)
- 斎藤利三
元々、光秀は細川藤孝にお世話になっていたので、主君関係が逆転してしまった状態です。こうして、足利義昭のもとでは明智光秀よりも地位が上のものたちが、織田信長のもとで明智光秀の家臣団に入ったのです。
この頃、信長は勢力をどんどん拡大し、領地を広げていました。信長の支配下に入った領主たちも、光秀の家臣団に吸収されたていきます。
- 東丹波衆(川勝継氏・小畑左馬助・片岡藤五郎)
- 南山城衆(井戸良弘・御牧景重・御牧景則・)
- 大和衆(筒井順慶)
- 摂津衆(高山重友・池田恒興・中川清秀)
- 和泉衆(寺田又右衛門尉)
- 河内衆(池田丹後守・三好慶長)
その後、織田信長は丹波を平定し、丹波一国を信長から拝領しています。それに伴い、信長の配下に入った丹波の国人たちが明智光秀の家臣団に加わります。
- 並河掃部
- 荒木氏綱
- 松田左衛門
- 四王天政孝
- 荻野彦兵衛
- 中沢豊後守
- 波々伯部権頭
- 尾石与三
- 酒井孫衛門
- 加治石見守
こうして、信長の勢力拡大とともに明智光秀の家臣団も拡大していき、最も多かった時は2万の兵力を抱えていたと言われています。
光秀は、この家臣団を軍規定書によって統制していました。光秀は家臣団をしっかり教育し、合理的に活動させていたことが読み取れます。
また、丹波衆は光秀の家臣団に加わったのは後半ですが、丹波を平定していた光秀は領民たちから大変慕われていたので、丹波衆も光秀への忠誠心は高かったのではないでしょうか。
最後まで光秀と共にした家臣たち
明智光秀が謀反をおこした本能寺の変では、光秀の家臣団も全員が参加したわけではありません。相手はあの織田信長ですから、もし謀反が失敗した場合は重罪人として処罰されることになりますから、当然ですね。
【本能寺の変に参加した主な家臣団】
- 溝尾茂朝
- 藤田行政
- 斎藤利三
- 明智秀満
- 明智光忠
- 古川九兵衛
- 箕浦大内蔵
- 安田国継
明智光秀と血縁関係にあった明智秀満・光忠、本能寺の変の四国説に関係している斎藤利三らが参加しています。やはり、血縁者が最後まで信用できるということですね。
また、明智三羽烏(古川九兵衛・箕浦大内蔵・安田国継)は本能寺の変の際に真っ先に敵陣へ飛び込んで行ったと言われています。特に、安田国継は信長が非常に可愛がっていた小姓の森蘭丸を討ち取っています。
本能寺の変の後、明智光秀の家臣団はどこへ行った?
本能寺の変のあと、光秀は山崎の戦いで豊臣秀吉軍に敗れ、坂本城へ戻る途中に亡くなっています。山崎の戦いで、光秀と共に戦った主な家臣団を紹介します。
- 明智秀満
- 明智光近
- 斎藤利三
- 藤田行政
- 溝尾茂朝
- 伊勢貞興
明智秀満は山崎の戦いの後、光秀死亡を知ると、馬に乗ったまま琵琶湖に飛び込み坂本城まで渡りきったという「明智左馬助の湖水渡り」という伝説にもなっています。
秀満は、秀吉軍に坂本城を包囲され、自分の妻と光秀の妻子を刺し、明智光忠と共に自害しています。
また、斎藤利三は山崎の戦いで敗れたのち逃亡し処刑、藤田行政は自害、溝尾茂朝は、明智光秀の自害の際に介錯を務め、光秀の首を持って逃亡しますが、落武者狩りにあい負傷し自害しています。
山崎の戦いで光秀と共に戦った家臣団は、ほとんどが負傷して亡くなったり自害しています。信長の勢力に捕まると、罪人として極刑は免れないでしょうから、判断の難しいところですね。
本能寺の変の後、明智光秀は信長に仕えていた者や、関係者に協力を仰いでいます。
中でも細川藤孝や筒井順慶の両者は光秀への協力を断っています。
光秀からの協力要請を断った後、細川藤孝は出家しました。そして、光秀の娘 玉(細川ガラシャ)と結婚していた藤孝の嫡男 細川忠興は、玉を幽閉しています。特に細川藤孝は、明智光秀との旧知の中で古くからの友人でしたから、光秀にとっても、また藤孝にとっても断腸の思いだったのではないでしょうか?
明智光秀の家臣団についてのまとめ
今回は、明智光秀の家臣団についてまとめてみました。信長軍の中でも異例のスピードで出世した光秀には、優秀な家臣団がいたことがわかりましたね。
今回のまとめ
- 信長の家臣としても優秀だった明智光秀にも優秀な家臣団がいた
- 明智光秀の家臣団の中には、明智一門衆(血縁者)を含め、父の時代から仕えていた家臣たちがいた
- 明智光秀の家臣団は、最大2万の兵力を有していた
- 家臣団の主なメンバーは、山崎の戦いで戦死したか自害している
明智光秀は、治めていた土地の領民たちからは非常に慕われていたと言います。頭脳明晰で、人柄もよく領民たちからも慕われていた光秀には、光秀を慕い最後まで光秀と共に戦った優秀な家臣団が、光秀と共に散っていきました。