【織田信長まとめ】信長の49年の生涯を年表形式で簡単に解説!
日本の歴史上最も有名な武将の一人と言っても過言ではない織田信長。
織田信長というと、本能寺の変、残酷など連想される人も多いのではないでしょうか?
今回は、織田信長は一体どんな人でどんなことをしてきたのか?などこの記事を読んでいただけばちょっとした信長通になれるように、簡単に年表形式で簡単に解説してきます。
目次
織田信長の年表。49年の歴史を簡単に解説
織田信長は、いつどこに生まれていつなくなったのか?簡単にまとめていきます。
【信長のプロフィール】
- 生年月日 :1534年(天文3年) 5月12日
- 死没年月日:1582年(天正10年)6月2日
- 出身地:尾張国(現在の名古屋県)勝幡城
- 両親: 父;織田信秀 / 母;土田御前
※生まれた日については諸説あり
【織田信長の年表】
1534年(天文3年) 1歳 誕生(勝幡城)
1546年(天文15年)13歳 元服し三郎信長と名乗る
1549年(天文18年)17歳 濃姫と結婚
1552年(天文21年)19歳 父 信秀の他界により家督を継ぐ
1559年(永禄2年) 25歳 尾張国を統一
1560年(永禄3年) 27歳 桶狭間の戦い ー 今川義元を討つ
1567年(永禄10年)34歳 斎藤龍興を討ち稲葉山城へ入城。岐阜と改める
1568年(永禄11年)35歳 上洛、足利義昭を室町幕府第15代将軍にする
1570年(元亀元年)37歳 姉川の戦い ー 浅井・朝倉連合軍を破る。
石山合戦の開始(〜1580年まで)
1571年(元亀2年) 38歳 延暦寺焼き討ち
1572年(元亀3年) 39歳 三方ヶ原の戦い ー 武田信玄に惨敗
1573年(元亀4年) 40歳 足利義昭を京都から追放
1575年(天正3年) 42歳 長篠の戦い ー 武田勝頼を破る
1576年(天正4年) 43歳 安土城の築城
1582年(天正10年)49歳 本能寺の変 ー 自害
織田信長は何をした人?
織田信長は、一言でいうと「天下布武(天下統一)を目指した武将」ですが、実は、戦さの面・経済面でも大きな改革をしています。ここでは、経済面(政策)・戦さの面で信長が行った改革、そして信長の主な戦いをみていきましょう。
信長が行った政策
戦さ関連
・戦闘スタイルの変革(鉄砲を取り入れた)
鉄砲隊を結成し、戦さに取り入れた。当時最強の騎馬隊と言われた武田軍に対して、鉄砲隊で勝利した。
・農兵分離(職業軍人の雇用)
当時は、農民が農家の閑散期に兵士として戦さにでる兼業軍人が多かったんです。そのため、遠方への遠征や、長期戦がしづらい状況でした。信長は経済力があったため、職業軍人(今で言う傭兵?)を雇うことができ、それによっていつでも兵士を集めることができたと言います。
経済・生活関連
・楽市楽座(商売の自由化による経済の活性化)
商人の組合を廃止し、自由な商取引ができる場を作り経済を活性化させました。
・関所の廃止(通行や流通の円滑化)
領国中の関所・関税を廃止し、人の行き来をスムーズにしました。これにより、税金がかからない分、商品の値段は安くなり、経済も活性化したと言われています。
・道路の整備
道路を整備したことで、人々の旅の苦労が減り交流を盛んにしました。
・キリスト教の布教を認める
キリスト教の宣教師たちと交流を深め、新しいものを積極的に取り入れていました。
信長の有名な戦いを解説
天下布武を掲げ、数々の武将と戦った織田信長。中でも有名な戦さをピックアップしてご紹介します。
・1560年 桶狭間の戦い VS今川義元
今川軍 約25,000に対して信長軍 約2,000、圧倒的な兵力の差がありながら、信長が圧勝した戦いです。この桶狭間の戦いで、信長は全国に知れ渡りました。
・1570年 姉川の戦い VS浅井・朝倉連合軍
この戦いは、単純に浅井・朝倉連合軍と戦っただけではなく、室町幕府第15代将軍 足利義昭を追放するきっかけとなった戦いです。これがきっかけで、のちの比叡山焼き討ちにまで発展します。
・1571年 比叡山焼き討ち VS比叡山延暦寺
先の姉川の戦いの後、浅井・朝倉に見方をしかくまっていたことなど、信長の再三の忠告も聞かなかったことなどが引き金となりました。この焼き討ちが「信長は神仏をも恐れない男だ」という印象をつけたとも言われています。
※当時の宗教団体は、現在のような宗教団体ではなく一つの大きな勢力として各地の大名も恐れていました。一向一揆などはほとんどが僧兵(武装した僧侶たち)が主導しています。
宗教という名の下に、市民にお金を貸し厳しい取り立てをしたり、女性を寺に連れ込んだりと、現在とは全く異なるものだったと言われています。
・1575年 長篠の戦い VS武田勝頼
武田信玄の没後、長篠城を奪還しようとした武田勝頼との戦いです。当時最強と言われていた武田の騎馬隊を、鉄砲隊を有した信長軍が圧勝した戦いです。
・1782年 本能寺の変 VS明智光秀
信長が絶大な信頼を置いていた明智光秀による謀反です。信長は自ら戦いましたが、最後は自害。その後、信長の長男 信忠も自害に追い込まれ、実質的に織田家は壊滅状態になりました。
光秀は、その後10日あまりで山崎の戦いにて羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、坂本城に戻る途中で命を落としています。
大うつけと呼ばれていた
青年時代の信長は、「尾張大うつけ」と呼ばれていました。大うつけとは、まぬけなどといった決して喜ばしい呼び方ではありません。
では、一体なぜ「大うつけ」と呼ばれていたのでしょうか?
・個性的で派手な格好をしていた
信長は、上はお風呂上がりに羽織る浴衣のようなもの(湯帷子ゆかたびら)の袖を外したものを着て、したは短い丈の半袴はんばかまを履き、派手な大太刀を腰にさし、瓢箪や縄を腰につけた格好をしていたと言われます。
当時の侍たちの姿からは想像を絶する奇抜なファッションですね?
仮にも尾張の虎と呼ばれていた大名の息子ですから、そんな奇抜なファッションをしていたら「大うつけ」と呼ばれても仕方がないかもしれません。
・行儀が悪かった
信長はファッションだけでなく、街中で人目を気にせず栗・柿・瓜などをかじりながら歩いていたといいます。食べながら歩くなんて現代でも行儀の悪いことですよね?
大名の息子がそんな行動をしていたら、行儀が悪いと思われて当然です。
・父の葬式で焼香を投げつけた
父「信秀」の葬式の時、葬儀にはとても相応しくない格好(大刀と脇差を縄で巻き付け、袴すら履いていなかった)で遅刻して現れ、焼香を仏前に投げつけ帰ってしまいました。
遅刻した上に普段着で現れ、焼香を投げつけて帰っていく。しかもそれが長男。考えただけでもぞっとします!
この信長の行動は、
「なぜこんな大変な時に」
「俺が織田家をしっかり引っ張っていく」
といった意味も含まれていたのではないかと言われていますが、とんでもない自己表現ですね。しかも次男はちゃんと正装をして参列していたといいますから、尚更です。
まぁ、こんな行動をしていれば「大うつけ」と呼ばれてもしょうがないですね。そんな大うつけ信長が、天下統一目前、後世にも名を残す男になるなんて誰も思わなかったのではないでしょうか?
とにかく合理的!
信長は非常に合理的で無駄なことが嫌いな性格だったようです。
その結果として、
- 能力主義
- 鉄砲の導入
- 農兵分離
- 楽市楽座
などを導入しています。
能力のある者には役職や褒美をしっかり与え、逆に能力がない者は追放する。
新しい物でも、効率がよくなるものは積極的に取り入れる(鉄砲・農兵分離・楽市楽座など)ことで、盤石な織田家を作り上げていきました。
合理的で、自分で判断することが多かったようですから、さっと決断して即実行といった実践タイプだったのかもしれませんね。
ネーミングセンスが抜群!
信長は、ネーミングセンスも抜群でした。もはや特技といってもいいくらいのレベルです!
- 豊臣秀吉「はげねずみ」
- 明智光秀「金柑頭」
- 長宗我部元親「鳥なき島のコウモリ」
- 佐久間盛信「おおぬる山」
秀吉は「サル」と呼ばれていた思っている人もいるかもしれませんが「はげねずみ」と呼ばれていたようです。
子供につけた名前(幼名)も絶妙です。
- 織田信忠「奇妙」
- 織田信雄「茶筅」
- 織田信孝「三七」
- 織田信吉「酌」
- 織田信貞「人」
- 織田信好「良好」
- 徳姫「五徳」
自分の子供につけるネーミングとは思えないほど、絶妙なネーミングセンスです。子供達はどう思っていたのでしょうか?それに、子供達の世話をする人たちはなんて読んでたんでしょうね?謎です。。。
子供は20人!?
信長は実施が20人以上と、非常に子沢山でした。豊臣秀吉が4人、徳川家康が16人ですから、当時の中でもずば抜けて多いです。
【信長の息子たち】
- 織田信忠
- 織田信雄
- 織田信孝
- 羽柴秀勝
- 津田勝長
- 織田信秀
- 織田信高
- 織田信吉
- 織田信貞
- 織田信好
- 織田長次
【信長の娘たち】
- 徳姫
- 相応院
- 永姫
- 報恩院
- 秀子
- 於振
- 源光院
- 三の丸殿
- 鶴姫
- 月明院
- 慈眼院
わかっているだけでこれだけいます。母親が不明だったり、記録が不明確な部分もありますが、20人以上も子供を産ませるなんてまさに「英雄色を好む」を体現していますね。
織田信長のまとめレポート
今回は、織田信長の年表、してきたこと、逸話、とまとめました。
この記事の内容を簡単にまとめると、
- 信長は享年49歳(1534年(天文3年) 5月12日〜1582年(天正10年)6月2日)
- 戦さや経済面でも新しいことを積極的に取り入れていた
- 冷酷で残酷なイメージがあるが、実はいろんな逸話があり必ずしも冷酷ではない?
信長のことを知れば知るほど、大河ドラマや映画では語られていない部分が見えてきて、信長の魅力を感じますね。好きな戦国武将で名前が必ず出てくるほど、人気な理由もわかります。