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明智光秀の妻「妻木(明智)煕子」光秀に愛された女性の謎多き生涯

明智光秀の妻「妻木(明智)煕子」。光秀に愛された女性の謎多き生涯。

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公、明智光秀。出自も不明で織田信長に仕え始める少し前までの記録がほとんど残っていない謎に包まれた戦国武将です。その妻「妻木(明智)煕子つまき(あけち)ひろこ」もまた、謎に包まれた人生を送っています。大河ドラマ「麒麟がくる」では、木村文乃きむらふみのさんが演じていますね。
今回は、明智光秀の妻「妻木(明智)煕子」の謎多き人生についてみていきたいと思います。

明智光秀の妻 煕子はどんな人だった?

【妻木(明智)煕子】

  • 出自は不明(美濃国 妻木城城主の「妻木範煕つまきのりひろ妻木勘解由左衛門範煕つまきかげゆざえもんのりひろ)」の娘という説が有力
  • 信長が嫉妬するくらいの美人だった
  • 明智光秀とは、幼なじみだった
  • 明智光秀に非常に愛されていた
  • 煕子は明智光秀を心から支え、のちに松尾芭蕉の俳句で詠まれるほどの女性だった

では、一つずつみていきましょう。

・明智光秀の妻 煕子の出自
「細川家記(細川ガラシャの嫁ぎ先、肥後 細川家の記録)」によると明智光秀の妻 煕子は、美濃国 妻木城城主の妻木範煕の娘だったと記録されています。煕子という名前も、範煕の娘だから煕子とつけられたのではないかと考えられています。
また、一説によると同じく妻木城城主で、明智光秀叔父にあたると言われている妻木広忠つまきひろただの娘という説もありますが、典拠となる資料は不明で信憑性は低いと考えられています。
戦国時代は、女性に関する資料があまり残っておらず、その出自は謎に包まれています。それに加えて、明智光秀は主君だった織田信長に謀反をおこし反逆者扱いとなってますから、明智家そのものに関する資料もずいぶん破棄されてしまっていることも、煕子の謎をさらに深くしているのかもしれませんね。

・明智光秀の妻 煕子は信長が嫉妬するくらいの美人だった
明智光秀の妻 煕子に関しての数少ない資料からみていくと、煕子は相当な美人だったようです。その美しさゆえ、織田信長も嫉妬したとかしないとか。
明智光秀が織田信長に仕え始めた後、「明智光秀の妻は美人だ」との噂が織田信長の耳にも届き、それを確かめたくて 織田信長は煕子を後ろから抱きしめ、煕子はとっさに扇で打った という逸話が残っています。一説には、この出来事の後から信長が光秀に嫉妬し、嫌がらせをするようになったのではないか、と考える歴史研究家もいるほどの大事件です。
この事件の後、光秀は妻 煕子によく似た煕子の妹を信長の側室にし事件を治めたと言われています。
また明智光秀の娘の玉(細川ガラシャ)も相当な美人だったと言われていますから、煕子が美しいというのは非常に信憑性が高いです。

・明智光秀とは、幼なじみだった

明智光秀も、煕子も同じ美濃国の出身です。煕子は妻木城城主の娘、その妻木城は以前は、明智光秀の先祖の領地でした。明智家から妻木城を受け継ぎ管理していたのが妻木家なのです。明智光秀は土岐氏の流れを組んでいると言われています。そして、その明智の一族として妻木家がありますので、二人は親戚の関係にあるのです。そのため、二人は幼い頃から互いを知っていたとされています。

・明智光秀に非常に愛されていた
明智光秀は結婚する前から煕子を非常に愛していたという逸話を紹介します。
煕子は光秀と結婚する前に、天然痘にかかってしまいました。天然痘は、天然痘ウィルスが原因による伝染病で、高熱と全身に発疹がでて膿疱のうほうとなり死亡率が非常に高い、世界的にも大流行したことがある病気です。
煕子は運良く一命を取り留めましたが、左の頬に痘痕あばた(膿疱のあと)が残ってしまいました。煕子はその痘痕を非常に気にしており、光秀からの縁談が来た時も「妹を嫁がせてくれ」と懇願したようですが、光秀は 「人の容貌はすぐに変わるけれど、心の美しさは変わらない」 と煕子と結婚することを選び、それを聞いた煕子も非常に感激し、光秀を一生支えていく覚悟を決めたのではないでしょうか。

・煕子は明智光秀を心から支え、のちに松尾芭蕉の俳句で詠まれるほどの女性だった

明智光秀は煕子と結婚後、非常に苦労することとなりました。仕えていた斎藤道三が息子 義龍に敗れたことから明智城を追われ、その後も越前国(現在の福井県)に身を寄せますがなかなか士官先(就職)が決まりませんでした。煕子も妊娠しており、光秀は寺子屋を開き何とか生活をしていたといいます。
そんなギリギリの生活の中、光秀は当時勢いのあった戦国大名 朝倉義景あさくらよしかげの家臣と連歌会をするきっかけができました。しかし、当時の光秀は生活もギリギリの状態で資金的な余裕がありませんでした。
それを知った煕子は自分の美しい黒髪を切り、その髪を売り資金を工面したといわれています。その甲斐あって連歌会は成功し、光秀は朝倉義景に士官(就職)することができたのです。

その逸話は明智光秀の妻 煕子の内助の功を示す有名な話で、松尾芭蕉もこの話に感銘を受け
「月さびよ 明智が妻の 咄[はなし]せむ
(訳:この寂しく澄み輝く月明かりのもとで、明智光秀の妻の昔話をしてあげましょう。)
という俳句を歌っています。
『奥の細道』で有名な俳人 松尾芭蕉まつおばしょうは、煕子が自分の黒髪を売ってまで夫 明智光秀のために資金を作ったという話に非常に感銘を受けたのです。

女性にとって長い髪は大事なものですが、それを売って夫のために資金を工面するなんて素敵な話ですよね。煕子も本当に光秀のことを愛していたことが伺えます。

明智光秀と妻 煕子の関係は?

明智光秀と結婚し妻となってからの煕子は、波乱万丈な人生でした。

主なトピックスを紹介します。

  • 明智光秀が仕えていた主君が敗れ、居城を追われ越前国(現在の福井県)へ逃れる
  • 明智光秀の士官先(就職先)がなかなか決まらずギリギリの生活
  • 明智光秀が本能寺の変を起こし、最後は反逆者の妻となる

1つずつ見ていきましょう。

・明智光秀が仕えていた主君が敗れ、居城を追われ越前国(現在の福井県)へ逃れる
煕子と結婚した当時、明智光秀は斎藤道三さいとうどうさんに仕えていたと言われています。そう、マムシと言われ恐れられていた戦国大名、そして織田信長の妻「濃姫のうひめ帰蝶きちょう)」のお父さんです。

そんな斎藤道三も1556年(弘治2年)長良川の戦いながらがわのたたかいにて、息子である斎藤義龍さいとうよしたつに敗れてしまいます。明智光秀は、もちろん斎藤道三側についており、義龍に明智城を攻められて城を追われてしまいます。
煕子は妊娠中でしたが、明智光秀の母方の親類を頼りに越前国へ一家揃って逃れたのです。妊娠中で身重にもかかわらず険しい山道を超えなければならない過酷な道中、光秀は煕子を背負って越前へ向かったと言われています。

・明智光秀の士官先(就職先)がなかなか決まらずギリギリの生活
明智城を追われ、越前国にたどり着いた光秀と煕子は、なかなか士官先が決まらずいわば浪人状態で、非常にギリギリの生活だったといわれています。
煕子の内助の功もあり、やっとのことで一乗谷城主の朝倉義景に仕えることができました。とは言っても、光秀の屋敷は少し離れた場所でそんなに優遇はされていなかったようです。
そんなギリギリの生活の中でも煕子は自分の髪を売って光秀のために資金を工面したりと、仲睦まじい夫婦生活を送っていたようです。

・明智光秀が本能寺の変を起こし、最後は反逆者の妻となる
紆余曲折ありましたが、明智光秀は織田信長に仕えることとなり、信長の家臣団の中でもどんどん出世をしていきました。そして信長の名を受け各地に城を築城し、最終的には最も信長に信頼された家臣となりました。
しかし、1582年(天正10年)6月2日、日本史上最大のミステリーとも言える「本能寺の変」で、主君である織田信長に謀反を起こしました。織田信長・長男の信忠を自害に追い込みました。その後、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、最終的には命を落としています。
主君 織田信長を討ったとして、光秀は謀反人いわば重罪人扱いをされました。その重罪人の家族ですから、世間の目は非常に冷たかったのでしょう。明智光秀の子孫たちは、名を変え住む場所を変え、生活していたといいます。

光秀と煕子は、非常に仲良く夫婦仲も円満だったようですが、最終的には重罪人の妻として現代に語り継がれています。何だか切ない物語です。現在放映されている大河ドラマ「麒麟がくる」で、その辺がどのように描かれるのか非常に興味深いですね。



光秀は妻 煕子一筋の愛妻家だった?

明智光秀は妻の煕子を非常に愛していた、そんな夫婦仲を感じる逸話をご紹介します。
1576年(天正4年)、光秀は病に倒れてしまいました。光秀は死の境を彷徨ったともいわれますが、煕子の献身的な看病によって光秀は回復したといわれています。必死で夫を支える妻だったことが伺えます。
しかし、光秀が回復したのち、今度は煕子が病に倒れてしまいます。光秀は看病もさることながら、吉田兼見よしだかねみ(神官、細川藤孝のいとこ)に病気平癒の祈祷をお願いしています。吉田兼見の残した「兼見卿記かねみきょうき」に記載されているこの逸話は、光秀と煕子の仲睦まじい姿を語ってくれています。
秀には側室がいたとか、煕子の前に前妻がいたなどという話もあり、真実は不明ですが、数々の逸話から、光秀は妻の煕子を愛し続けた愛妻家だったということが見て取れますね。

光秀と煕子の子供達

光秀と煕子は、三男四女をもうけたといわれていますが、実際に煕子が産んだ子なのかは記録としては残っていません。

光秀の子供達は、

  • 細川藤孝ほそかわふじたかの嫡男「細川忠興ほそかわただおき」に嫁いだ玉(のちの細川ガラシャ)
  • 光秀の家臣「明智秀満」に嫁いだ娘
  • 信長の甥「津田信澄つだのぶずみ」に嫁いだ娘
  • 本能寺の変ののち、光秀が細川家に送った手紙に記載のある「十五郎」
  • ルイスフロイスの書状に記載のある息子

の存在が確実と言われていますが、光秀に関連する資料は非常に乏しいため正確なことはわからない状況です。

明智光秀の家系図に関してこちらの記事により詳しくまとめてあります。

本能寺の変の後、光秀の子孫たちはどうなった?

本能寺の変の後、光秀の家臣や子供達はほとんどが亡くなっています。

  • 細川忠興に嫁いだ玉(細川ガラシャ)- 本能寺の変の後、謀反人の娘として幽閉されました。
  • 明智秀満に嫁いだ娘 - 本能寺の変の後、夫に刺されて死去。夫もその後自害しています。

明智光秀に関する資料は残されているものが非常に少なく、信憑性も薄いものが多いため、光秀の子孫たちに関する資料はあまり残っていないのが現状です。
一説によると、謀反人の子孫ということを隠すため、名を変え住む場所を変えてひっそりと過ごしたとも言われています。

明智光秀の家系図に関してこちらの記事により詳しくまとめてあります。

明智光秀の妻 煕子の最後

明智光秀の妻として波乱万丈の人生を送った、煕子。その最後も光秀同様に謎に包まれています。

病死説

1576年(天正4年)、光秀が病に倒れ、煕子の献身的な看病により回復しました。その看病の疲れからか、煕子は病に倒れてしまいました。光秀は必死に看病し、吉田兼見の祈祷など様々な手を尽くしましたが、その甲斐虚しく煕子は病死したという説があります。
明智家の菩提寺の西教寺(滋賀県大津市)には煕子は病死したと伝わっています。

坂本城での死亡説

本能寺の変の後、煕子たち光秀一家は坂本城に身を寄せていたといわれています。
その後、山崎の戦いで光秀が敗れ光秀の死を知った一家は、光秀の家臣たちと共に自ら命を経ったという説があります。

どちらの説も、資料が乏しく正確なところはわかっていません。

2020年8月に、大津市の聖衆来迎寺にて煕子の戒名が発見されました。それによると、煕子は1581年(天正9年)より前に亡くなっている可能性が高くなり、本能寺の変の際にはすでに亡くなっていた可能性が有力となっています。

まとめ:明智光秀の妻 煕子は一体どんな生涯を送ったのか?

今回は、明智光秀の妻 煕子の生涯を見てきました。
簡単にまとめると、

  • 織田信長が嫉妬するほどの美人で、心も美しい女性だった
  • 光秀とは相思相愛の関係、夫婦仲は非常に良好だった
  • 光秀と同様に、波乱万丈の人生を送った
  • 煕子は、本能寺の変の前に病死している説が有力

明智光秀は、戦国最大のミステリーの首謀者です。その妻も共に謎の多い人物ですね。
現在放映中の大河ドラマ「麒麟がくる」では、明智光秀の妻 煕子がどのように描かれていくのかも、見所の一つではないでしょうか?

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