千利休とはいったいどんな人?本名・名言・逸話など簡単に解説!

千利休とはいったいどんな人?本名・名言・逸話など簡単に解説!

Google AdSense

日本史上最も有名な茶人と言っても過言ではない千利休せんのりきゅう。千利休は単なる茶人ではなく、あの織田信長や豊臣秀吉と同時代を生き、信長・秀吉と共に日本の文化を作ったと言っても過言ではない人物なんです。
今回は千利休とはいったいどんな人だったのか?本名・名言・逸話などをご紹介します。

千利休とはどんな人物なのか?

茶聖と呼ばれた千利休。「千利休といえばお茶」というイメージが強いですが、もともとは商人の家の生まれで、商人としての顔もありました。まずは、千利休のプロフィールを見ていきましょう。

ただの茶人ではない、千利休の生涯年表

【千利休プロフィール】
本名:田中与四郎
法名:千宗易
1522年(大永2年)− 1591年4月21日(天正12年2月28日)
出身:和泉国 堺(現在の大阪府堺市)
身長は180cmほどあり、当時としては非常に大柄だった。
30代、40代は稼業に打ち込み、一大財産を築いたといわれています。

【千利休 生涯年表】

西暦:年齢
1522年:1歳
 和泉国 堺で魚問屋(魚屋ととや)にて田中与兵衛の次男として誕生

1540年:19歳
 北向道陳きたむかいどうちんの勧めで、茶湯を学び始める。
 南宗寺なんしゅうじにて法名「宗易そうえき」とする
 武野紹鴎たけのじょうおうに師事し、茶湯改革に取り組む

1570年:49歳
 織田信長に茶頭さどうとして迎えられる
  今井宗久いまいそうきゅう津田宗及つだそうぎゅうとともに天下三宗匠てんかさんそうしょうと呼ばれる
 織田信長が御茶湯御政道おんちゃのゆごせいどうを確立させ、政治に茶の文化を定着させた。
 *織田信長は、手柄をたてた家臣たちに、茶器を褒美として渡すことで、茶器
  の価値を向上させたと言われています。
  茶会を開くことを許されたたった4人の側近(柴田勝家・丹羽長秀・
  明智光秀・豊臣秀吉)でした。
  秀吉は茶会を開くことを許された時、泣いて喜んだと言われている。

1582年:61歳
 本能寺の変で信長が自害。その後、豊臣秀吉に仕える

1583年:62歳
 豊臣秀吉の茶頭となる。秀吉の命を受け、茶室「待庵たいあん」をつくる

1585年:64歳
 禁裏茶会きんりちゃかいにて、正親町天皇おおぎまちてんのうに献茶。
 正親町天皇から「利休」の居士号きじごうを与えられる
 秀吉の命を受け、黄金の茶室を設計

1587年:66歳
 北の大茶会の主管を務める

1591年:70歳
 秀吉により堺を追放される。京都にて切腹させられる

千利休はどんな性格だった?

千利休は、茶人ということもあり非常に温厚な性格のように思われている方も多いのではないでしょうか?
しかし、田中与四郎という元々は商人だったということもあり、気性が激しい性格だったという記録も残っています。商人としてもある程度成功し財をなしていましたから、ビジネスセンスに長け、戦国武将たちとも対等に渡り合える度胸も備えていたと言います。
千利休の性格を知れる逸話を紹介します。

【織田信長にも恐れず意見した】
当時信長は、毛利軍の水軍と対決するために軍艦を造り家臣たちに自慢していた時のこと。その軍艦は鉄張で、大砲や大鉄砲を備えた当時としては最新の軍艦です。
信長はその軍艦を自慢し、完成した軍艦を目の前に家臣たちと共に喜んでいました。
そんな自慢している信長に対し、利休は「いまいち格好良さにかけますね」っと意見したと言います。
当時の織田信長は最強と言われている武将、まして自分に逆らうものは情け容赦なく討つような気性の持ち主です。
そんな信長に意見した利休を、周りの家臣たちは「終わった・・・」というような目で見ていました。
しかし、信長は「何がいまいちなのだ?」と利休に聞きました
すると利休は、「色がいまいちですね!全て黒くお塗りなさい」と。
それを聞いた信長は「よしっ採用!!」と全てを黒く塗らせました。これがあの毛利水軍を破った「鉄甲船」です。
当時の信長に意見するとは、とんでもない度胸の持ち主ですよね。

千利休とはいったい何をしたのか?

千利休は、ただの茶人ではなく、商人として、文化人としての一面も兼ね備えていました。そして、織田信長や豊臣秀吉に仕え、政治面でも強い影響力を持っていました。

千利休の功績

千利休の功績は数多くありますが、主な功績をご紹介します。

  • 侘茶(わび茶・)の完成
  • お茶を文化として格式高いものへ引き上げる
  • 黄金の茶室を設計

それでは一つづつ解説していきます。

・侘茶(わび茶)の完成
 当時お茶は貴族が嗜むもの、いわば高級で華やかなものでした。現代で言うと、ホテルの高級カフェやレストランで、旬のフルーツを使ったスイーツなどを楽しむAfternoon tea Partyのようなイメージでしょうか。
そんなお茶に、日本伝統の禅の思想「わび」を加え、きらびやかな装飾や派手な演出などを一切排除し、作法などを改革し侘茶を完成させました。
また豊臣秀吉の命を受けつくった茶室「待庵」は、無駄なものを一切排除し利休の侘茶の美を追求し体現した、現存する唯一の茶室で国宝に指定されています。

【千利休の侘茶】

  • お茶の前では皆平等、純粋にお茶を楽しむ
  • 誰にでも良い加減のお茶を提供する

千利休は作法にも非常に厳しく、それは利休七則として表されています。

  • 茶は服のよきように(訳:お茶は心を心を込めて)
  • 炭は湯の沸くように(訳:何事も丁度よく)
  • 夏は涼しく冬は暖かにせよ(訳:季節の移ろいを大切に)
  • 花は野にあるように(訳:自然の美しさを大切にする)
  • 刻限は早めに(訳:時間は少し早めに)
  • 降らずとも雨の用意(訳:あらゆることを予想して準備をする)
  • 相客に心せよ(訳:相手に対する気遣いをする)

こうして見ると、当たり前のことを当たり前にすることを、非常に大切にしていたことがわかります。
また、利休は四規という教えも説いています。

  • ・・・和やかな心
  • けい・・・敬う心
  • せい・・・外見、内面も清らかに
  • じゃく・・・心を落ち着かせ何事にも動じない

この利休の教えは、四規七則しきしちそくと呼ばれています。お茶の世界でもそうですが、生活していく上で非常に大事な基本を教えてくれていますね。

・お茶を文化として格式高いものへ引き上げる
 織田信長は、貴族と一部の文化人たちのみが嗜んでいたお茶、そしてそのお茶会の際に使用されていた茶器を文化として非常に格式高いものに引き上げました。そしてその中で重要な役割を果たしたのが千利休です。
当時のお茶会で使用されていた茶器は、中国などから輸入されてきた茶器が多く、その希少性から非常に高価でやりとりされていました。それを信長は金と権力の力で収集し、手柄をたてた家臣たちに褒美と渡すことでその茶器の価値を一気に高めました。
茶器をもらっても、その家臣が茶会を開くことができる訳ではありません。信長は、茶会を開催できる人間をも制限し、茶会の希少性も高めたのです。このことを御茶湯御政道と読んでいます。
信長が茶会の開催を許可したのはたったの4人。
柴田勝家しばたかついえ」「丹羽長秀にわながひで」「明智光秀あけちみつひで」「豊臣秀吉豊臣秀吉」です。
秀吉は、茶会の開催を許された時、泣いて喜んだそうです。それだけ格式高い文化として引き上げた影には、千利休が大きく関係していました。
千利休は、茶器を鑑定したり茶会の空間をプロデュースしたりと信長に仕えていた時からその才能を発揮していました。
ちなみに、信長が始めたこの御茶湯御政道は、信長亡き後も秀吉が受け継ぎ、利休は秀吉の代になってもその才能を買われ、秀吉にも重宝されていました。

・黄金の茶室の設計
 1586年、秀吉が関白就任の感謝の意を表し禁中にて茶会を行いました。その際に、秀吉の命を受け利休が設計したのが「黄金の茶室」です。
この茶室は、壁や天井、床も全て黄金でできていて尚且つ使用された茶器なども全て黄金だったのです。
しかも、場所は禁中(現代の皇居内)ですから、黄金の茶室は組み立て式で設計されていました。今から500年以上も前に、組み立て式の茶室を設計していたとは、千利休の頭の良さを垣間見れますね。

千利休と信長・秀吉との関係性

利休は、織田信長と豊臣秀吉の2人に茶頭として重宝されています。そのため、利休の地位は非常に高く、家臣たちからの信頼や尊敬も厚かったといいます。

【千利休と織田信長の関係】
千利休と織田信長の出会いは、1570年に信長が堺の名物を収集し始めた頃。
信長は、戦国を代表する大名ですが、ただ戦さが強かっただけではありません。文化にも精通しており、商売にも精通しており非常に教養も高かったと言われています。
信長は、当時茶会で使用されていた茶器を買い占めることで、その価値を一気に高め、家臣たちに褒美として与える、そして茶会を開催できる家臣を限定させることでより高貴なものにしたのです。そう、御茶湯御政道というかたちで政治にも利用していたのです。
その御茶湯御政道に重要な役割を果たしたのが、千利休です。
堺で収集した名物をどうやって目利きするのかがポイントです。その目利きを行っていたのが、千利休をはじめとする天下三宗匠(今井宗久・津田宗及)です。
褒美として渡すものの価値を見極める、いわば利休の一声でいくらでもコントロールできたのです。そんな非常に重要な役割を果たしていた利休は、信長に意見できるほどの影響力と権力を持っていました。
もちろん、信長も利休に信頼を寄せており、二人の関係は、信長亡き後、秀吉と利休の関係へと引き継がれていきました。

【千利休と豊臣秀吉の関係】
1582年本能寺の変で織田信長が討たれた後、山崎の戦いで謀反人「明智光秀」を討ち天下を統一した豊臣秀吉。秀吉もまた、信長の行っていた御茶湯御政道を引継ぎました。
秀吉は信長が行っていたその御茶湯御政道を、さらに格式高いものへ引き上げました。信長の時代は3人いた茶頭を一人に絞りました。その秀吉の茶頭として白羽の矢がたったのが、千利休です。利休は信長の時代からの茶頭で、すでに秀吉をはじめとして絶大な信頼を得ていました。

千利休は秀吉にたった一人の茶頭ですから、秀吉の関白就任を祝う茶会(禁中茶会)をはじめとして、あらゆるお茶に関することプロデュースしたのです。
利休はプロデュースだけでなく、「お茶を師事するなら利休」と戦国大名の憧れへとなっていきました。そうして利休は、秀吉だけでなく秀吉の家臣たちからも絶大な信頼を得ていきました。それは同時に権力とも言えるほどに。
千利休はこうして豊臣政権の中でも重要な立場になっていきました。

秀吉の弟 豊臣秀長が、
「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と言うほどです。

また、秀吉は利休の娘を嫁に欲しがるほど利休を信頼し評価していました。
しかし、秀吉が娘を妻にといった申し出を利休は断っています。
当時の秀吉の申し出を断れるほどの権力があったということが推測できますね。

千利休の最後。なぜ秀吉に切腹させられたの?

豊臣秀吉のたった一人の茶頭として、絶大な信頼を得ていた千利休。秀吉の家臣たちからも信頼を得ており、また他の戦国大名の憧れでもあった千利休。利休の最後は、秀吉から切腹を命じられると言うものでした。

なぜ秀吉は切腹を命じたのか?

当時切腹は、武士が行うもの。一般庶民は斬首などで死罪になるのが一般的でした。千利休は武士ではなく、商人・茶人です。そんな利休は、秀吉の命により切腹させられてしましました。
なぜ、利休は切腹させられたのでしょうか?

  • 大徳寺三門(山門)に千利休の木像が安置されていたこと
  • 茶の道具を高値で売買していた

という説があります。それぞれ解説します。

・大徳寺三門(山門)に千利休の木像が安置されていたこと
 大徳寺三門にある金毛閣きんもうかくに千利休の木像が安置されていました。
利休は、応仁の乱で焼けた寺を再建するために多額の寄付をしていたため、その感謝の意を込めて安置されていたものでした。
しかし、その三門は秀吉も通ります。
いわば「利休の木像が関白秀吉の頭を踏むではないか!」けしからんっ!っといった理由です。
その利休の木像は、利休自身が建立安置したものではなく、お寺からの感謝の意を込めて安置されたものです。さらに、その場所に安置することは事前に秀吉の弟の秀長に届出て許可を得ていたと言う記録があります。
実際にはどうだったのか、今となってはわかりませんが、まぁこじつけですね。。

・茶の道具を高値で売買していた
 利休は信長の時代よりも前から、茶器の目利きをしておりその眼力は信長も秀吉も信頼していました。その目利きの力を利用して、茶器を高値で売買してることが、個人の財を蓄えるためととられてしまいました。
実際には、利休は私財を増やすためではなく、利休の類稀なる美的感覚で選んだ茶器が、市場で高値で取引されたため、結果として利休の販売する茶器の価格が高騰したんです。
利休が選んだものは、誰がみても美しいよって価格が高騰する。いわば市場の原理です。
信長や秀吉も、利休のその眼力を信頼していたのに…これもこじつけですよね。。
そのほかにも、

  • 黄金の茶室を代表するように豪華絢爛を好む秀吉と、余計なものは一切排除した美を追求する利休とは方向性がずれてきた
  • 戦国大名たちの利休への信頼の厚さを、秀吉が恐れた
  • 秀吉は、自分が天下人(唯一無二の存在)でありたかったため、利休に嫉妬した

などと利休が切腹を命じられた理由については諸説あります。黄金の秀吉と漆黒の利休、二人のすれ違いが、千利休の最後へとつながっていったのです。

千利休、最後の名言

千利休は、最後まで茶聖として茶の心を大切にしていました。
利休の切腹を執行するために見届けにきた、秀吉の家臣を茶の間に迎え入れ、穏やかに「お茶の支度ができております」と、お茶を出したといいます。
これが、利休が最後に入れたお茶です。
そして見届け人がお茶を飲み終わると、妻も見守る中切腹をしました。

利休の最後の言葉
「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛」

【利休の最後の言葉】
「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛」
訳:人生70年、えいっやぁ!俺のこの宝剣で祖仏ともに殺す!我が必殺の一太刀で、今この時我が命を天に解き放つ!

侘茶を確立した、四規七則の茶聖「千利休」の最後に発した言葉とは思えないほど、勢いよく勇ましい言葉ですね。この言葉を言い放ち、利休は腹を切ったのです。

茶人ということもあり、穏やかなイメージだった千利休、その裏には勇ましい人格が隠されていたのでしょうか?千利休と田中与四郎、茶人と商人という二面性が利休にはあったのかもしれませんね。
この利休最後の時、秀吉は、利休に信頼を寄せ憧れていた大名たちが利休を奪還しに来ることを恐れ、上杉景勝うえすぎかげかつに命じて、3000人もの兵士たちで利休の屋敷を取り囲んでいたと言います。それだけ、利休の影響力が強まっていたということがみて取れますね。

千利休のお墓

千利休の切腹の後、利休の首は一条戻り橋で晒し首にされ、秀吉が利休に対して切腹を命じる原因と言われている「大徳寺に安置されていた利休の木像」で踏まれたと言われています。
利休のお墓は、臨済宗大徳寺派総本山 大徳寺の聚光院じゅこういんにあります。聚光院は利休の菩提寺で、聚光院の境内には様々な由緒ある茶頭かの墓所があり、その中心に利休のお墓があります。

大徳寺聚光院
住所:京都府京都市北区紫野大徳寺町53

聚光院は三好義継みよしよしつぐが、父 長慶ながとしの菩提を弔うために建立されました。その大徳寺の代17世住職「笑嶺宗訴しょうれいそうきん」が千利休の禅の師匠だったことから、利休は聚光院を菩提寺としました。
聚光院には、武者小路千家、表千家、裏千家の茶道三千家歴代の墓所があります。そのため、茶道家にとっては聖地とされています。

その三千家の墓所の中心にある、2メートルほどの仏塔が利休のお墓です。ちなみに、聚光院は通常一般公開されていません。
利休が亡くなったとされる、旧暦28日にちなんで毎月28日を利休忌とし法要と茶会が行われています。その日は一般の方も茶会に参加できるようです。

大阪堺市にある臨済宗大徳寺派の南宗寺には、千利休の遺髪が埋葬されており供養塔があります。南宗寺は、若き日の利休が、その師匠であるとされる武野紹鴎と禅の修行をしていたお寺です。
武野紹鴎のお墓もあり、また茶道三千家の供養塔が並んでいます。

南宗寺
住所:大阪市堺市堺区南旅篭町東3丁-1-2

まとめ:千利休とはいったいどんな人だったのか?

今回は、千利休とはいったいどんな人だったのかを、名言や逸話を踏まえて見てきました。
千利休とは簡単にまとめると、

  • 日本を代表する茶人だが、元々は商人として財をなしていた
  • 織田信長にも豊臣秀吉にも仕え、その家臣たちからも非常に信頼されていた
  • 利休の最後は、秀吉の命により切腹
  • どこまでも茶を愛し、茶の前では皆平等という精神を最後まで貫いた
  • 利休のお墓は、京都の大徳寺聚光院、遺髪は大阪の南宗寺にある

千利休は最後まで侘茶の精神を体現していました。
四規七則を確立し貫いた利休らしからぬ最後の一言は、千利休という茶聖と田中与四郎という一人の商売人という2つにして一つになった、一人の男の想いが詰め込まれている気がして、感慨深いですね。

GoogleAdSense

最初のコメントをしよう

必須

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください