明智光秀の家紋は水色の「桔梗紋」その家紋の由来と水色の意味
織田信長の家臣でありながら謀反を起こし本能寺の変の首謀者と言われている「明智光秀」。大河ドラマなどで本能寺を兵で囲んだ際、兵士の側に描かれた 「水色桔梗」 は見覚えがある方も多いのではないでしょうか?
今回は、明智光秀の家紋「水色桔梗」の由来や意味、水色桔梗が「悲劇の家紋」と言われている所以などをまとめていきます。
目次
明智光秀の家紋はなぜ桔梗紋なの?
日本では、昔から家柄をあらわす紋章として家紋を使用してきました。戦さの際に、自軍の目印としての意味で使用したり、現代でも家紋目にする機会はあると思います。現代風に言うと、「家のロゴマーク」ですね。日本では約20,000種類以上の家紋が存在すると言われています。
では、明智光秀はなぜ桔梗紋を使用していたのでしょうか?詳しくみていきましょう。
光秀の「桔梗紋」の由来
「桔梗紋」はキキョウ科の多年草「キキョウの花・葉・茎」を図形化して家紋となりました。昔はキキョウの花を仏様や神様に捧げて、吉凶を占ったといわれており「吉凶を占う花」ということで吉凶が桔梗に転じて花の名前になったと言われています。
一方では、「桔梗」を分解すると「木」「吉」「木」「更」、「更に吉(さらによし)」と縁起を担いだとも言われています。
光秀が使用していた「桔梗紋」は、当時、美濃国(みののくに*現在の岐阜県)を治めていた「土岐(とき)氏」の一族が使用していた家紋です。土岐氏は、清和源氏(せいわげんじ)の英雄「源頼光(みなもとのよりみつ)の流れを組んでいると言われている名家です。
その流れを汲んだ「土岐光衡(ときみつひら)」が戦さの時、水色の桔梗の花を兜にさして戦い大勝利を収めたことから桔梗紋を縁起物として使用し始めたと言われています。
その、土岐氏の庶流の明智、そう「明智光秀」へと繋がっていくのです。
「水色桔梗」光秀の家紋はなぜ水色だったの?
光秀は、そんな土岐氏にゆかりのある桔梗紋のなかでも特に「水色桔梗」を使用していたと言われています。白黒の家紋を使用する大名の多かった当時、水色は非常に珍しく目立ったため、あの 織田信長も羨ましがった なんてエピソードもあります。
では、なぜ水色だったのでしょうか?
それは、戦国時代より以前、土岐一族が「桔梗一揆」という武士団を結成しており、その桔梗一揆が掲げていた旗が水色だったそうです。その水色の旗が光秀の「水色桔梗」の由来と言われています。
「桔梗紋」は悲劇の家紋?
明智光秀が謀反を起こした本能寺の変以降、 「桔梗紋=裏切り者の家紋」 と言う印象が着いてしまい、別の家紋に帰る大名もいたそうです。
特に、織田家の子孫たちは現代でも桔梗の花を避けているなんて話もあります。
桔梗紋にまつわる悲劇のエピソード
桔梗紋を使用していた大名などの数名が悲劇的な最後を遂げています。そのため、桔梗紋は悲劇の家紋とも言われています。
- 明智光秀
本能寺の変の後、落ち武者狩りにあった、致命傷を受けて自害したなど、真相は不明
- 加藤清正
加藤清正も「蛇の目」の家紋だけでなく、桔梗紋も使用していました。清正の最後は、徳川家康の毒殺?病死?など真相は不明です。
加藤清正の家紋に関しては以下の記事でも詳しく解説しています。
加藤清正の家紋は「蛇の目紋」と「桔梗紋」!明智光秀との関係はあるの?>>
- 坂本龍馬
坂本龍馬も「組合い角に桔梗」という桔梗紋の庶流でした。明智太郎五郎が先祖とも言われています。龍馬の最後も、新撰組説、見廻組説など真相は不明のままです。
- 太田道灌(おおたどうかん)
太田道灌は江戸城の基礎を築いた人物です。江戸城の内桜田門は、別名「桔梗門」とも呼ばれています。道灌も「丸に桔梗紋」と言われる家紋を使用していました。道灌の最後は、風呂あがりの無防備なところを刺客に襲われました。北条氏による暗殺説など、真相は不明のままです。
桔梗紋は、もともと縁起がよい家紋とされていたため多くの人物が使用していたと言われています。そんな中、特に目立つ人物が悲劇的な最後を遂げたと言うことも、悲劇の家紋と呼ばれている所以なのかもしれませんね。
まとめ
今回は、明智光秀の家紋「水色桔梗」の由来や意味、そして悲劇の家紋と言われている所以をまとめてみました。
明智光秀は、いまだに謎の多い人物ですが、水色桔梗に関してはある程度はっきりわかっているんですね。また、縁起の良いと言うことで使用され始めた桔梗紋は、裏では悲劇の家紋と呼ばれているなんて意外でした。
「坂本龍馬は明智光秀の子孫」だから、桔梗紋を使っていたなんて説もありますが、真相は不明ですね。
桔梗紋を使用していたから悲劇にあったのではなく、悲劇にあったのがたまたま桔梗紋を家紋としていた人だったのだと信じたいものですね。