天草四郎の伝説や数々の奇跡は本当?豊臣秀吉の孫だった?逸話を交えて解説!
天草四郎(1621(元和7)〜1638(寛永15))は、江戸時代初期のキリシタンで、島原の乱における一揆軍の最高指導者です。本名は益田四郎と言います。
当時わずか16歳で、日本史上最大の一揆の総大将となった天草四郎ですが、数々の奇跡を起こしたと言われています。その奇跡とはどのようなものなのでしょうか?
この記事では、天草四郎の伝説や数々の奇跡について、逸話を交えながら簡単に解説していきます。
目次
天草四郎にまつわる伝説を簡単に解説!
天草四郎は、数々の伝説を残したと言われています。
その中には、本当に起こり得るのかどうか怪しいものまであるのです。
ここでは、天草四郎にまつわる伝説を簡単に解説していきます。
天草四郎は運命を予言されていた?
天草四郎は、なんと生まれる前から、その運命を予言されていたと言われています。
その予言とは、島原の乱から25年前に遡ったときのことです。
当時キリスト教の弾圧により島原藩を追放された神父・マルコス宣教師が以下のような予言を残しました。
「当年より五々の数をもって天下に若人一人出生すべし。その稚児習わずして諸学を極め、天の印顕わるべき時なり。野山に白旗立て諸人の頭にクルスを立て、東西に雲焼る事有るべし。野も山も草も木も焼失すべきよし」
天変地異が起きたときに救世主が現れるみたいな内容なわけですが、この予言通り、25年後(五々の数は、5×5で25年後となる)に現れたのが天草四郎だったというわけなのです。
天草四郎は生まれながらにして、字が書けたりとこの予言と一致する点が多かったようなのです。
こうして、天草四郎はこの島原の地の救世主として君臨することになるわけですね。
天草四郎は数々の奇跡を起こした?
天草四郎は数々の奇跡を起こしたと言われています。
【天草四郎が起こしたと言われている奇跡】
- 5歳にして大人顔負けの書をかいた
- 目の見えない少女に手を当てると、少女の目が見えるようになった
- 大矢野から島原まで海の上を歩いて渡った
- 枝に止まっていたスズメに呪文を唱えると動かなくなった
- 弓矢も鉄砲の弾も四郎を避けた
- 天草四郎にもとにやってきた鳩が卵を生むと、その中からキリストの画像と巻物の聖書がでてきた
- 天草四郎を怪物だと罵り、害を加えようとした役人の2人は、途端に口が聞けなくなったり、足が曲がったまま伸びなくなったりした。許しをこいた2人に四郎がお祈りするともとに戻った
- 天草四郎が大矢野岳の山頂で、西の海に向かってお祈りしていると、海から赤い火が出てきて、大きな光の十字架になり、天草四郎と供に十字架も消えた
これらを見てみると、本当に起こっていたのか疑わしくなるようなものばかりです。
もし、これらの奇跡を目の当たりにしたら、本当に天草四郎は救世主なのではないかと信じてしまいますよね。これらの奇跡が天草四郎のカリスマ性を引き上げていたのです。
天草四郎はイエス・キリストの生まれ変わりだと思われていた?
天草四郎が起こしたと言われている奇跡の数々は、実はイエス・キリストが起こした奇跡と共通しているものが多いのです。
そのため、「天草四郎=イエス・キリストの生まれ変わり」だという認識が広まっていきました。
キリシタンが多い島原藩にとって、イエス・キリストは神で、崇めるべき対象です。
天草四郎はその生まれ変わりなわけですから、一緒に戦うことは、神と一緒に戦うこととなります。
そうなれば、当然士気は上がりますよね。
こうして、天草四郎は群を抜く美貌と才知、さらには数々の奇跡により、多くの人々を強く惹きつけたのです。
天草四郎は島原の乱で活躍した?
天草四郎は、島原の乱(1637年(寛永14年))の際、なんと16歳という若さでリーダーを務めることになります。どうしてそんな若い天草四郎がリーダーに選ばれたのでしょうか?
天草四郎は島原の乱で何をしたのでしょうか?
ここでは、島原の乱の際の天草四郎について簡単に解説していきます。
天草四郎は島原の乱でリーダーを務めていた?
島原藩は、元々キリシタン大名・有馬晴信の土地だったこともあり、キリシタンが非常に多い土地でした。しかし、松倉重政によりキリスト教弾圧が始まり、キリシタンにとってとても住みにくい土地に成り代わってしまいました。
さらに、重政は重税を課しており、子の勝家の代になるとその重税はよりひどいものになりました。
取り立てに応じないと、人質をとったり、拷問をかけたりすることもあったようです。
しかも、そこに追い打ちをかけるように、数年間にわたって飢饉が頻発します。
島原藩にいるキリシタンにとって、地獄のような日々だったに違いありません。
そのような中、天草四郎は独特な扮装で島原藩の各地を回って、キリスト教への立ち返りを説いて回っていました。すると、天草四郎にまつわる伝説や奇跡などの噂が広まっていき、島原の人々に神のように慕われるようになっていきます。
そして、勝家の圧政に不満を爆発させた人々は、密かに一揆を起こす計画を立てます。
そこで総大将として白羽の矢が立ったのが天草四郎でした。
当時16歳という若さの天草四郎には、戦術に長けているなどの才能はなかったので、選ばれた理由は一重に神の生まれ変わりだと言われるまでの人気が理由だったのでしょう。
しかし、神と一緒に戦えるということほど心強いものはありません。
この島原の乱は、天草四郎のカリスマ性により人がどんどんと集まり、日本史上最大の一揆となっていくのです。
天草四郎は島原の乱で死んでいなかった?
島原の乱は結局幕府軍の勝利で終わります。
幕府軍の制圧のなかで、天草四郎も討ち取られて戦死したと言われています。
しかし、実は死んでいなかったのではないかという説もあるのです。
これにはいくつか理由があります。
1つ目は、討ち取られた天草四郎の首が正確に見つかっていないこと。
幕府軍は当時、天草四郎が総大将だということは知っていても、本人の顔を知らなかったのです。
そのため、幕府軍は多くの殺された少年の首を天草四郎の母親に見せ、母親が泣き崩れたものを首だと特定しました。
しかし、母親は決して天草四郎の首だとは断言していないのです。
この母親は、幕府軍が島原の乱の最中、天草四郎に戦をやめるように説得する旨の手紙を書けと言われた際に、素直に従うふりをして、実際には「最後まで戦い抜きなさい」という手紙を書いたと言われています。
このような人ですから、幕府軍に天草四郎が生き延びているのを悟られないように動いたとしてもおかしくないわけです。
2つ目は、籠城戦を繰り広げていた舞台である原城は海に面する場所にあり、さらに実は城の下に地下道があったこと。
天草四郎は、この地下道を通り、海を渡ってフィリピンに逃げたのではないかと言われているのです。
当時フィリピンには、徳川家康に追放されたキリシタン大名が作った「日本街」がありました。
おそらくそこを頼りに逃げたのでしょう。
これらの理由から天草四郎は生き延びていたのではないかと言われているのです。
しかし、それ以前に、天草四郎は存在していなかったのではないかとする説も存在します。
奇跡の話など現実に起こったとは考えにくいことばかりなので、作り話だと言われたほうがしっくりきてしまうのも事実ですね。
このように、天草四郎の死についてははっきりと判明していません。
天草四郎は豊臣秀吉の孫だった?
天草四郎は、実は豊臣秀吉の孫だったのではないかという説があります。
大阪に住んでいたはずの豊臣秀吉の血が、どうして九州の天草四郎となったのでしょうか?
ここでは、天草四郎と豊臣秀吉の関係について簡単に解説していきます。
豊臣秀頼が実は生き延びて九州に渡っていた?
豊臣秀吉の血はどのようにして九州に渡ったのでしょうか?
そのキーマンとなるのが、秀吉の子・豊臣秀頼です。
豊臣秀頼は、大阪夏の陣にて自害したと言われています。
しかし、実は生き延びていたのではないかとする説があるのです。
秀頼の遺体は発見されておらず、秀頼の最後を確認した人もいないという状況で、当時京ではこんな歌が流行ったと言われています。
「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きに退いたり鹿児島へ」
つまり、真田幸村が秀頼を連れて薩摩藩へと逃げたという歌ですね。
このことは、「幸村君伝記」にも書かれているようです。
さらに、鹿児島には秀頼の墓だと伝えられているものや、豊臣家ゆかりのものがいくつも存在します。
このように、秀頼は生き延びて九州に渡っていたという証拠が揃っているのです。
天草四郎は豊臣秀頼の息子だった?
豊臣秀頼が九州に渡って生き延びていたことと合わさって出てきたのが、天草四郎が秀頼の息子だったのではないかとする説です。
豊臣秀頼には隠し子がおり、行方不明になっていた子供がおり、天草四郎もそのうちの1人なのではないかと考えられているのです。
天草四郎が豊臣秀頼の子だとする理由はいくつかあります。
- ・天草四郎は豊臣秀吉と同じ「千成瓢箪(せんなりひょうたん)」を馬印として使用していた
- ・天草四郎が「豊臣秀綱」を名乗っていたという資料が鹿児島に残っている
- ・江戸幕府が島原の乱について記した文章の中に、「天草四郎は秀頼の子」という記述が残されている
豊臣家と同じ馬印は、当時簡単に使用できるものではありませんでした。
そのため、豊臣家とゆかりのある人物だということは確実なのでしょう。
本当かどうかははっきりとわかっていませんが、天草四郎に豊臣秀吉の血が流れているのだとしたら、その溢れ出るカリスマ性にも納得がいきますね。
まとめ:天草四郎は数々の奇跡を起こし、そのカリスマ性から若くして島原の乱でリーダーになった
天草四郎は、運命を予言され、数々の奇跡を起こした結果、16歳という若さで島原の乱のリーダーに抜擢されてしまいました。しかし、そんな若い天草四郎には、なにかできるようなこともなく、奮闘虚しく亡くなってしまったと言われています。
今回の内容をまとめると、
- 天草四郎は当時の島原の人たちにとっては救世主のような存在であった
- 数々の奇跡を起こしたことにより、そのカリスマ性は上がっていった
- そのカリスマ性から、島原の乱で16歳という若さでリーダーに抜擢された
- 天草四郎は、家族を人質に取られるなどひどい目にあいながらも奮闘した
- 天草四郎は、豊臣秀頼の子供である可能性もある
16歳といえば、現代で考えてもまだまだ子供の年齢ですよね。そんなときに、かなり大きな反乱のリーダーに祭り上げられた天草四郎は、どんなにプレッシャーなどがあったことでしょうか?
それを飲み込んで、最後までみんなのために動いた天草四郎は、本当に救世主だったのではないかと感じざるを得ませんね。