アフィリエイト広告を利用しています

野口英世の年表|どんな人?功績は?死因は?その生涯を簡単に解説!

野口英世(1876(明治9)〜1928(昭和3))は、明治から昭和のはじめにかけて活躍した医師で細菌学者です。主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究によって世界的に有名になりました。

そんな野口英世はどのような生涯を送っていたのでしょうか?
この記事では、野口英世の年表を見ながら、その功績や死因などを簡単に解説していきます。

野口英世の生涯を年表で簡単に解説!

野口英世は世界的に有名になるまでの功績を残しました。そこに至るまではどのようなことがあったのでしょうか?ここでは、野口英世の年表を見ながら、その生涯について簡単に解説していきます。

野口英世はどんな人?

野口英世(のぐちひでよ):1876年(明治9年)〜1928年(昭和3年) 享年:53歳
出身地:福島県耶麻郡三ツ和村(現在の猪苗代町)
父:野口佐代助 / 母:シカ
妻:メリー・ロレッタ・ダージス
養子:栄

野口英世は簡単に言い表すと、「逆境を乗り越え、努力をし続けた人物」と言えるでしょう。
英世は、幼少期にひどい火傷を負ってしまい、家業である農家を継ぐことができなくなってしまいます。しかし、そこから勉学に励み、最終的に医学の道に進むのです。

医学者になってからも、英世が努力を欠かすことはありませんでした。
それは、他の研究所員から「ノグチはいつ眠るのか」と言われるくらいでした。

そうした努力の結果、黄熱病や梅毒の研究によって、英世は世界的に有名になったのです。

野口英世の年表

【野口英世の年表】

  • 1876年(明治9年):0歳
    福島県三ツ和村にて生まれる
  • 1878年(明治11年):1歳
    囲炉裏に落ちて左手にひどいやけどを負う
  • 1883年(明治16年):6歳
    三ツ和小学校に入学する
  • 1884年(明治17年):7歳
    斉藤幸元医師により左手の手術を受ける
  • 1889年(明治22年):10歳
    猪苗代高等小学校に入学する
  • 1892年(明治25年):15歳
    渡部鼎先生により左手の手術を受ける
  • 1893年(明治26年):16歳
    会陽医院にて薬局生として入門し、医学・英語・仏語・独語を学ぶ
  • 1897年(明治30年):20歳
    医術開業試験に合格し、医師の資格を得る
    高山医学院講師となり、その後順天堂医院で働く
  • 1898年(明治31年):21歳
    名前を清作から英世に改名する
    北里伝染病研究所助手となる
  • 1900年(明治33年):23歳
    横浜より渡米する
  • 1901年(明治34年):24歳
    ペンシルベニア大学のフレキスナー博士の助手となる
    ナショナル・アカデミー・オブ・サイエンスにて蛇毒研究の成果を発表する
  • 1904年(明治37年):27歳
    ロックフェラー医学研究所の一等助手となる
  • 1911年(明治44年):34歳
    梅毒スピロヘータの純粋培養に成功する
    メリー・ロレッタ・ダージスと結婚する
  • 1914年(大正3年):37歳
    東京帝国大学により理学博士の学位を授与される
    ロックフェラー医学研究所正員に昇進する
    ノーベル賞候補となる
  • 1915年(大正4年):38歳
    帝国学士院より恩賜賞を授与される
    再びノーベル賞候補となる
    日本に一時帰国し、母・シカと再会する
  • 1918年(大正7年):41歳
    エクアドルに出張し、当地の黄熱病病原体を発見する
  • 1920年(大正9年):43歳
    黄熱病研究のため、メキシコやペルーなどを訪れる
    再びノーベル賞候補となる
  • 1928年(昭和3年):51歳
    ガーナで黄熱病の研究中、自身が黄熱病にかかり亡くなる

野口英世は幼少期にひどいやけどを負った?

野口英世は、1歳半の頃、自宅の囲炉裏に落ちてしまい、そのときに左手にひどいやけどを負ってしまいます。畑仕事をしていた母が、英世の泣き声を聞きつけ急いで戻ってきたのですが、英世の家はとても貧しかったため、医者の元へ連れて行くことはできませんでした。
そして、自然治癒に任せた結果、英世の左手は指同士が癒着し、こぶのようになってしまい、野口英世は左手が自由に使えないというハンディキャップを背負うことになるのです。
しかし、そのやけどのことがあったからこそ、手術をした際に医術のすばらしさを知り、医学への道へ進みたいと考えるようになったのでした。

\ 野口英世の火傷に関することは、こちらの記事でより詳しく解説しております /

野口英世は家族に支えられ功績を掴んだ?

英世は、幼少期にやけどを負ってしまったため、家業である農家を継ぐことができなくなってしまいました。
母親であるシカは、「自分の不注意で英世にやけどを負わせてしまった」という後悔をし続け、農家を継げないのなら、何としても学問で身を立てさせてやらなければならないと考えたのです。

そこからは、シカは自らが人の何倍も働き、英世を家事から遠ざけ、勉強だけに集中できる環境づくりをしました。当時は、子供であっても、一家の貴重な労働力と考えられていたので、英世を一切の家事から遠ざけるシカの配慮をよく思わない人も周りにはいました。

しかし、シカはそうした声に耐え、英世が勉強に集中できる環境を与え続けました。

また、勉強が思うように進まず弱音を吐く英世に対しても、

「学問で身を立てなければ、お前は生きていくことができないのだよ」

とやさしく言い聞かせ続けたそうです。

このように、シカは英世が挫けそうになっても必死に支え続けたのでした。

また、英世を支えたのはシカだけではありません。

姉のイヌは英世が家のことをできないため、シカの大きな支えとなっていました。

そんな中、シカは跡継ぎとして、イヌに婿をもらい、家督を継がせようと考えました。

しかし、イヌは

「長男の清作(英世)を差し置いて家を相続することはできない」と拒否。

そればかりか、家を出て猪苗代町の塩谷家に奉公人として住み込んでしまいました。

よほど家を継ぐのが嫌だったのかもしれません。これに困ったシカは、やはり英世に家を継がせようと嫁をもらうことにしました。

しかし、英世はまだまだ自分のやりたいことがあり、結婚にはあまり乗り気ではありませんでした。

そこで英世は、何度もイヌの元へと行き、

「俺が医者になって成功し、姉ちゃんや母ちゃんを楽にすっから」

と説き伏せました。

こうして、イヌは実家に戻り家を継ぐことになるのです。

英世の夢のために、自分が家を継いであげたというわけですね。

また、イヌは、英世が上京するときや、渡米するときなどに、自分も決して裕福なわけではなかったのですが、わずかなお金を餞別として送っています。

それほどまでにイヌは英世の夢を応援してくれていたのです。このように、英世は姉にも支えられていたわけです。

後に英世は、「この母なくして医学者である自分はない」と語っています。

それくらい、シカの深い愛は英世のことを支え続けたのでしょう。

家族の支えがなければ、英世は勉学に集中することはできなかったでしょうし、偉大な功績も掴めていなかったかもしれませんね。

野口英世は何をした人?功績まとめ

英世は、偉大な功績を残しました。その功績は、主に5つ。
ここでは、英世の5つの功績について簡単に解説していきます。

野口英世の功績1|梅毒菌の培養に成功

まず1つ目の功績として挙げられるのが、梅毒菌の純粋培養に世界で初めて成功したことです。

梅毒という病気は、15世紀末には存在していました。
非常に古くからある病気で、多くの歴史上の偉人たちも感染したと言われています。

そのため、梅毒のことを研究する人は、野口英世の前にもたくさんいました。
その人達も試行錯誤を繰り返し、梅毒の培養を試みていましたが、誰一人として成功することはありませんでした。

そんな中で、英世が梅毒菌の培養に成功したということは、世界中に衝撃を与え、英世の名を世界中の医学会へと知らしめることになったのでした。

野口英世の功績2|梅毒菌を梅毒患者脳内で発見

野口英世は梅毒についてもう1つ大きな功績を残しています。

それは、梅毒菌を梅毒患者の脳内で発見したことです。

当時進行性麻痺・脊髄癆(せきずいろう)は梅毒患者の末期の症状であるということは認められていたのですが、それを証明することはできていませんでした。

つまり、進行性麻痺・脊髄癆と梅毒菌との因果関係を見いだせていなかったのです。

しかし、英世が進行性麻痺の患者の脳内から梅毒菌を発見したことによって、その関係性が証明されたのです。

発見するために、英世は数え切れないほどの標本を顕微鏡で確認しました。
その努力が無事に梅毒菌を見つけることに繋がったというわけですね。

また、この功績は、野口英世の功績の中でも最大の功績と言われており、これを受けてノーベル医学・生理学賞の候補となりました。

野口英世の功績3|黄熱病の病原体の特定

3つ目の功績は、黄熱病の病原体を特定したことです。野口英世といえば黄熱病という認識の方も多いのではないでしょうか?

この当時、エクアドルでは黄熱病が大流行していました。

その死亡率はなんと30〜50%。エボラ出血熱と同等の死亡率で、非常に危険な感染症と言われていました。そこで、英世はエクアドルに赴き、現地で黄熱病の研究を始めるのです。研究の結果、黄熱病の病原体の特定に成功し、英世はその細菌を元にワクチンを開発します。そのワクチンは野口英世の名前から、「野口ワクチン」と呼ばれるようになりました。
そして、このことは当時の世界のトップニュースとなったのです。それほどまでにすごい発見だったということですね。

野口英世の功績4|オロヤ熱とペルー疣が同じ病気であると証明

野口英世は、オロヤ熱とペルー疣(いぼ)というまったく症状の異なる2つの病気が同じ病気であると証明しました。

オロヤ熱は溶血性貧血により重篤な症状を引き起こす病気で、
ペルー疣は手足に数センチに及ぶ疣ができる病気です。

症状が全く違うため、この2つが同じ病気であるなど考えられていませんでした。

一時期はペルーの医学生が同じ病気であることを主張していましたが、それもハーバード大学によって否定されていたのです。

しかし、英世はこの2つの病原体を特定・分離し、猿を使った実験により同じ病気であることを証明してみせたのです。この証明をする際にも、膨大な量の患者の血と疣のサンプルを顕微鏡で観察していったそうです。つまり、これも英世の絶え間ない努力の結果と言えるでしょう。

野口英世の功績5|多数の感染症の病原体を特定

野口英世が病原体を特定したものは、黄熱病の他にもありました。
【野口英世が病原体を特定したもの】

  • ・小児麻痺(急性灰白髄炎、ポリオ)
  • ・狂犬病
  • ・トラコーマ

19世紀から20世紀にかけては、細菌学が躍進している時代でしたが、主要な病原体は有名な微生物学者によって発見され尽くしていました。

そのため、新たに病原体を証明することは極めて困難なものでした。そのような中でも、野口英世は諦めることはありませんでした。「ノグチはいつ眠るのか」と他の研究員から言われるくらい熱心に研究し、様々な病原体の特定に至ったのです。本当に英世は努力の人だったと言えますね。

野口英世の受賞歴・名誉称号は?

【野口英世の受賞歴】

  • ・1913年 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)
  • ・1914年 勲三等(スウェーデン)、ノーベル賞候補
  • ・1915年 恩賜賞(日本)、ノーベル賞候補
  • ・1918年 ノーベル賞候補
  • ・1920年 ジョンスコットメダル名誉賞(アメリカ)
  • ・1924年 レジオンドヌール勲章(フランス)
  • ・1925年 正五位(日本)
  • ・1928年 勲二等旭日重光章(日本)、防疫功労金牌(フランス)

【英世の名誉称号授与歴】

  • ・1907年 ペンシルベニア大学名誉修士
  • ・1918年 エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
  • ・1920年 サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
  • ・1921年 ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
  • ・1925年 パリ大学名誉医学博士

\ 野口英世の功績に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております /

野口英世の最後の姿は?

地道な努力を続け、野口英世は偉大な功績を残しました。それでは、その最後の姿はどのようなものだったのでしょうか?ここでは、英世の死因や最後の姿などを簡単に解説していきます。

野口英世の死因は?

野口英世の死因にはいくつか説が存在しています。

  • ・黄熱病
  • ・梅毒
  • ・他殺

この中でも、最も有力だと言われているのが黄熱病によるものです。
野口英世は1926年に黄熱病の研究のためにガーナのアクラに向かいます。そこで、自身が研究している黄熱病に感染してしまい、そのまま亡くなってしまいました。

本当に黄熱病かどうかというところは、しっかりと根拠があり、英世の死後、英世の血を実験用の猿に注射したところ、猿が黄熱病になったのです。
さらに、ロンドンの博物館にある英世の肝臓を調査した結果も、黄熱病であったと診断されています。このように、英世が黄熱病であったという証拠が揃っているので、英世の死因は黄熱病の説が1番有力なのです。

\ 野口英世の死因に関しては、こちらの記事でより詳しく解説しております/

野口英世の最後の言葉は?

野口英世は1928年の5月に黄熱病で亡くなった説が有力とされていますが、実は黄熱病に感染した同年の1月にも軽い黄熱病にかかっていました。

そのため、そこから回復した英世は「自分は黄熱病の終生免疫がついた」と考えていたのです。

しかし、5月に黄熱病に再び感染してしまいます。英世は、黄熱病は一度かかれば終生免疫が続くはずなのに、何故二度目にかかったのかと不思議に思っていたそうです。

そのため、黄熱病によりだんだん弱っていき、最後に、

「どうも私にはわからない」

という言葉を残して亡くなりました。晩年黄熱病の研究に従事し、アフリカの黄熱病を解決する目処がたっていた矢先だっただけに、英世は本当に無念だったでしょう。

野口英世の人物像がわかるエピソードを簡単に解説!

家族に支えられ、地道な努力を続け、世界的に有名になるくらいの功績を残した野口英世でしたが、実は意外なエピソードがあるのです。

ここでは、英世の人物像がわかるエピソードを簡単に解説していきます。

野口英世は1日3時間しか眠らなかった?

野口英世は研究している際、ほとんど眠らなかったと言われています。

眠らないといえば、ナポレオンが夜3時間しか眠らなかったというのは有名ですよね。

野口英世はこれを受けて、
「ナポレオンにできるのだから私にもできないはずがない」
として、1日3時間しか眠らなかったそうです。

そのため、英世がロックフェラー医学研究所で研究をしていた際、あまりにも眠らずに研究に没頭しているので、
「日本人は眠らないのか」
「日本人は2日に1度しか眠らなくても済む」
などと噂されていました。

英世がどのくらい研究に没頭していたのかがよくわかる名言です。

野口英世はお金の扱いが下手だった?

野口英世といえばお札の肖像を思い浮かべる人も多いでしょう。

そんなお金にもなった英世ですから、お金の使い方も上手だったと思いきや、実は悪い癖がありました。

それは、勉強などでストレスがたまると、浪費、放蕩、飲酒などで解消するという癖です。
英世が上京後、ずっと支援してくれていた血脇守之助からの支援金も、そのような目的でだいぶ消費していたようなのです。

特にひどかったのは、野口英世が渡米を考え始めたときのことです。

渡米費用が血脇だけでは足りないと考えた英世は、箱根の温泉地にて知り合った斉藤文雄という富豪男性から、支援金を受け取ることに成功します。

しかし、英世はなんとこの譲り受けたお金を、自身の送別会と称して、横浜の一流料亭で使い切ってしまうのです。
普通なら考えられませんよね。

しかし、そこで現れたのが血脇です。血脇は事情を聞いて、奥さんの着物を質に入れるなどまでして英世の渡米費用を作り出してくれたのです。

このおかげで、英世はなんとか渡米することができました。

また、英世は斉藤から支援金を譲り受けた際、「帰国した後にあなたの姪と結婚する」という約束もしていました。

しかし、英世はアメリカで結婚してしまい、斉藤の姪との婚約を勝手に破棄してしまうのです。
当然、斉藤は怒り狂います。ここで現れるのが、また血脇です。

血脇は、英世が借りた分のお金を斉藤に英世の代わりに返したのです。

いくら才能に惚れ込んでいたと言っても、普通はここまで尽くすことはできないでしょう。しかし、英世が成功すると信じ、支援し続けてくれた血脇がいたからこそ、英世はお金に困ることなく勉学や研究に没頭できたといっても過言ではありませんね。

まとめ:野口英世は地道な努力を重ねて偉大な功績を掴み取った人物だった

野口英世は、幼少期にひどいやけどを負ってしまいましたが、そのハンディキャップを乗り越え、地道な努力を重ねて偉大な功績を掴み取りました。その影には、家族や周囲の人たちの大きな支えがありました。

今回の内容をまとめると、

  • 野口英世は幼少期に囲炉裏に落ちてひどい火傷を負った
  • 農家を継げなくなったため、勉学に励むことになった
  • 黄熱病や梅毒の研究によって世界的に有名になった
  • 最後は自身が研究している最中であった黄熱病にかかり亡くなった
  • 1日に3時間しか眠らないほど研究に没頭し、地道な努力を重ねることのできる人物だった

野口英世が細菌学を始めた頃は、新しい知見を証明することは困難な状態でした。

しかし、英世は諦めることなく研究を続け、偉大な功績を掴み取ることに成功しました。この英世の諦めずに困難に立ち向かっていく姿勢は、今を生きる私達も見習わなくてはならないところだなぁと感じます。

スポンサーリンク

最初のコメントをしよう

必須

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください