足利義政が銀閣寺を建てた理由は?いつ建てた?金閣寺との違いはなに?
1994年にユネスコ世界遺産に登録された銀閣寺は、正式名称を東山慈照寺と言います。
同じ室町時代に作られた黄金に輝く金閣寺とは対照的な、少し地味な存在です。
銀閣寺は、室町幕府 8代将軍 足利義政によって建てられました。
今回は、足利義政はなぜ銀閣寺を建てたのか?また、同じ室町時代を代表する金閣寺とは何が違うのか?について見ていきます。
目次
足利義政が銀閣寺を建てた理由は何?
銀閣寺は室町幕府第8代将軍 足利義政によって1490年頃の室町時代に建てられました。
足利義政は、その祖父である足利義満が金閣寺建立してから約90年後に、約6.5㎞離れた京都の東山に銀閣寺を建てています。
銀閣寺建立の目的は、
・隠居するため
・祖父 足利義満に対する憧れ
などという説がありますが、真相は何だったのでしょうか?それぞれ見ていきましょう。
足利義政が銀閣寺を建てたのは、隠居するため?
祖父 足利義満は、晩年に隠居場所として金閣寺を建立しましたが、足利義政が銀閣寺を建立した理由も、隠居するためなのでしょうか?
元々、足利義政は政治を取り仕切ることよりも、和歌や水墨画といった文化に興味があり、早々に隠居して文化を存分に楽しむことを願っていたようです。
政治よりも文化に興味を持つようになったのは、義政が若くして将軍に就いてしまったことが原因かもしれません。
1441年嘉吉の乱(嘉吉元年)で、父である6代将軍 足利義教が暗殺され、兄である7代将軍の足利義勝も早逝したため、1449年(文安6年)にわずか8歳で将軍職に就いています。
もちろん8歳の義政に政治ができるはずがなく、管領が取り仕切っていました。
そんな環境からか、足利義政は政治にはほとんど興味がなく、和歌や水墨画などの文化に興味を持つようになったと言われています。
20歳で”日野富子”を正室と迎えると、政治の実権は官領と富子が握るようになり、義政はますます政治に関心がなくなり、文化の世界にのめり込んでいくようになりました。
そして、1467年(応仁元年)に、足利家の跡目争いが大きくなり、応仁の乱が起こりました。
足利義政と日野富子の間には、男の子が生まれていませんでした。
そのため、義政の弟である足利義視が次期将軍になることが決まっていましたが、日野富子が男の子を産み、さらには跡継ぎにしたいと願ったことから始まった戦いです。
まさに、母の愛が国を揺るがす大きな争いへと発展したのです。
応仁の乱は10年にも渡り、京都の街は荒れ果ててしまっていました。
足利義政は、応仁の乱が続いているにもかかわらず1473年(文明5年)に、息子の足利義尚に将軍職を譲り、銀閣寺の建築をはじめました。
応仁の乱という日本を揺るがす大きな内乱がおき、京都の街は荒れ果てているにもかかわらず、自分の趣味を追求し続けた足利義政は、銀閣寺の完成を見ることなく、55歳にしてこの世を去ることになりました。
政治の世界よりも、好きな文化の世界に浸りながら、のんびりと隠居生活を送るための拠点として銀閣寺建立を行ったのではないかと言われています。
足利義政が銀閣寺を建てたのは、足利義満に憧れていたから?
足利義政が銀閣寺を建てた理由は、祖父 足利義満への憧れからだという説です。
足利義満といえば室町幕府第3代将軍で、金閣寺を建てたことで有名です。
朝廷や守護大名よりも権力や財力があった実力者でした。
足利義政は、その祖父への憧れから金閣寺を真似て建てたのではないかと言われています。
しかし足利義政の時代は、義満の時代と違い、幕府の力も衰えていました。
政治力が全くなく無能と言われていた足利義政は、室町幕府の最盛期を創り上げた祖父の足利義満にあやかろうと銀閣寺を建てたとも考えられます。
完成を待たずに亡くなってしまいましたが、銀閣寺を足掛かりに御所政治を行うことを目的にしていたのかもしれませんね。
銀閣寺の歴史
足利義政が建立した銀閣寺は、どのような歴史を辿っていったのでしょうか?
年表で見ていきましょう。
1467年(応仁元年)
応仁の乱発生
1473年(文明5年)
足利義政は、息子の足利義尚に将軍職を譲り隠居
1477年(文明9年)
応仁の乱収束
1482年(文明14年)
東山・月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始める
1483年(文明15年)
足利義政、東山山荘完成を待たずに移り住む
1490年 (延徳2年)
足利義政死去
1490年 (延徳2年)
義政を弔うため、相国寺の末寺として東山殿を禅寺に改め「慈照寺(銀閣寺)」とする
1550年(天文19年)
第12代将軍の足利義晴と第13代将軍の足利義輝により慈照寺の裏山に中尾城が築かれる
前関白 近衛前久の別荘となり、前久の死後は再び相国寺の末寺として再興される
1952年(昭和27年)
3月29日に庭園が”特別史跡および特別名勝”に指定される
1994年(平成6年)
12月17日に「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録される
銀閣寺を建てる費用はどうやって捻出した?
足利義政が銀閣寺を建立し始めた時は、応仁の乱の後で幕府の財源が不足していました。
足利義政が銀閣寺の建立費用は、
・日明貿易による利益
・御山荘要脚段銭
によって捻出しました。
・日明貿易による利益を銀閣寺の建立費用にあてた
文化に興味を注ぎ、政治には全く興味のないイメージの足利義政ですが、実は政治に力を入れていた時期もあり、当時はかなり権威をふるっていた時期があります。
室町幕府3代将軍の足利義満が1401年(応永8年)に中国の明と行っていた勘合貿易(日明貿易)を、1432年(永享4年)に再開し、幕府の財政を立て直したと言われています。
日明貿易で得た利益を、銀閣寺の建立にもあてたのではないかと言われています。
・御山荘要脚段銭
室町幕府は銀閣寺の建立費用として、諸国に御山荘要脚段銭という臨時課税をかけて造営費の捻出を図りました。
しかし、応仁の乱で疲弊していた諸大名たちからの積極的な協力は得らませんでした。
そんな中でも、将軍家の領国である山城国の公家・寺社領から費用や人夫・用材を徴収して工事が進められましたが、農民の課役滞納願や公家・寺社の不満などにより建設工事は延滞を余儀なくされました。
政治よりも文化の発展に力を注いでいた足利義政ですが、抑えるべきポイントを抑え幕府の権威は保っていたようで、財力が弱くなっていたとはいえ、なんとか銀閣寺の建立費用を賄うことができたようです。
銀閣寺のせいで応仁の乱は長引いた?
銀閣寺が建てられた場所には、もともと天台宗浄土寺がありました。
足利義政は弟の足利義視に早々に将軍職を譲り、隠居生活を送ろうとしていましたが、しばらくして日野富子との間に義尚が生まれ、跡継ぎ問題が起発生しました。
そしてこの後継問題が大きくなり、応仁の乱へと発展しました。
応仁の乱は、初めは足利家の将軍を巡る争いでしたが、
応仁の乱は義政と義視の跡継ぎ争いだけでなく、細川勝元と山名持豊らの守護大名同士の幕府内の権力争い、斯波氏と畠山氏の二つの家での家督争いなどが複雑に絡み合い、それが全国各地に飛び火し、全国の大名を東西二つの勢力に分ける戦乱へと発展しました。
その応仁の乱で、京の街は荒廃し戦火で天台宗浄土寺は焼失してしまいました。
応仁の乱が怒ったことで、自暴自棄になった足利義政は、すっかりやる気をなくし、自が原因となった応仁の乱を収める手段を講じることもなく、早々に義尚に将軍職を譲り隠居、そして隠居場所となる銀閣寺建立に力を注ぐようになりました。
応仁の乱を長引かせた理由が、銀閣寺の建立だったかは分かりませんが、もし銀閣寺の建立がなければ、応仁の乱収束に力を注いでいたかもしれませんね。
銀閣寺と金閣寺の違い
室町時代を代表する、銀閣寺と金閣寺は、外観を含めさまざまな違いがあります。
【銀閣寺と金閣寺の違い】
- 仕様 ・・・銀閣寺 / 金閣寺
- 階層 ・・・2階建 / 3階建
- 境内の面積・・・6,600坪 / 40,000坪
- 建築費用 ・・・10万貫(約60億円) / 100万貫(約100億円)
銀閣寺と金閣寺の特徴を詳しく見ていきましょう。
銀閣寺の特徴
銀閣寺は、名前とは裏腹に、銀色ではありません。
銀箔が貼られる予定だったが予算の関係上できなかった、銀箔は貼られる予定がなかったなど、さまざまな説はありますが、ここでは、銀閣寺の建物としての特徴を見ていきます。
【銀閣寺の特徴】
階層 | ・2階建 / 下から書院作り ・複数の部屋が一つの建物にあり、部屋同士が廊下で繋がっている ・壁があり、障子や襖で部屋を区切られている |
外観 | ・銀箔は施されていない / こけら葺 / 宝形造りの屋根には「青銅の鳳凰」 ・錦鏡池に囲まれており、石橋や浮き石の配置が美しい |
境内の面積 | 6,600坪 |
建築費用 | 10万貫(約60億円) |
金閣寺の特徴
金閣寺は、その名にふさわしく金箔を施してあり黄金に輝いています。
室町幕府3代将軍の足利義満によって建立された、室町幕府・京都を代表する建物です。
【金閣寺の特徴】
階層 | ・3階建 / 下から書院造り、武家造り、禅宗様式 ・1部屋が大きく、1部屋につきひとつの建物を造り、廊下で建物が繋がっている ・壁がなく、扉、すだれ、屏風で仕切りを作る |
外観 | ・2層と3層に金箔が施されている / こけら葺 / 宝形造りの屋根に、黄金に輝いた「青銅の鳳凰」 ・2,000坪の広さの鏡湖池に囲まれており、その池には大小様々な島が浮かんでおり、 神仙逢菜の世界を表現している |
境内の面積 | 40,000坪 |
建築費用 | 100万貫(約100億円) |
足利義政の東山文化と、足利義満の北山文化の違い
室町時代は、「足利義政の簡素で洗練された美しさの東山文化」と「足利義満の優雅で華やかな北山文化」という個性の違う二つの文化が華開きました。
2つの文化の個性を見ていきましょう。
【東山文化の特徴】
- 室町幕府 第8代将軍の足利義政の時代に生まれた文化
- 公家(貴族)・武士・宗教それぞれの文化が融合した文化
- 庶民も含めた様々な身分の人や地方に広がっていった
- 東山文化を象徴する建物は、銀閣寺
- 禅宗の影響を強く受けていて、簡素で深みがあり、書院造りや庭園が造られるようになった
- 北山文化で発展した水墨画が、雪舟によって東山文化で広がった
【北山文化の特徴】
- 室町幕府 第3代将軍の足利義満の時代に生まれた文化
- 公家(貴族)文化と、武家文化が融合した文化
- 北山文化を象徴する建物は、金閣寺
- 禅宗の影響を受けた華やかな文化で、公家や武士が楽しんでいた猿楽や田楽などの芸能が、能楽へと発展した
まとめ:足利義政は、隠居生活を送るために銀閣寺を建てた
室町幕府 8代将軍でありながら、政治よりも文化に没頭していた足利義政。
足利義政が文化に没頭したからこそ、東山文化が華開き、銀閣寺が建立されました。
今回の内容をまとめると
- 足利義政が銀閣寺を建てたのは、隠居生活を送るため
- 足利義政は、政治よりも文化に没頭していた
- 銀閣寺と金閣寺は、その特徴が全く異なる
- 足利義政の東山文化と、足利義満の北山文化もその特徴が全く異なる
将軍家の跡目争いから発展した応仁の乱の収束よりも、好きな文化の世界へのめり込んでいった足利義政。
しかし、銀閣寺を象徴とする東山文化を発展させた功績は大きいと言えます。
足利義政は、大好きな文化をつい急須しながら、銀閣寺で隠居生活をすることを理想としていたのかもしれませんね。