北条家の家紋「三つ鱗」執権北条氏と小田原北条氏も使用したその由来と意味は?
鎌倉幕府の執権職を世襲し、鎌倉時代を支えた北条氏の家紋は「三つ鱗」でした。
一方戦国時代、小田原城を本拠に関東一体を支配していた戦国大名 小田原北条氏の家紋も同じ「三つ鱗」です。
同じ北条氏という名がついていますが、この二つの北条氏は異なる一族です。
それなのに同じ家紋なのはなぜでしょうか。
今回は、三つ鱗の家紋の由来や、二つの北条氏が使用するようになった理由に注目していきます。
目次
北条氏の家紋「三つ鱗」
三つ鱗は、三角形がピラミッド状に三つ並んで、大きな三角形を形成している比較的シンプルな形状の紋です。
任天堂ゲームの「ゼルダの伝説」シリーズに登場する秘宝「トライフォース」の形との説明の方が、イメージしやすい方も多いかもしれません。
鎌倉時代の執権北条氏と、戦国時代の小田原北条氏はこの三つ鱗を家紋として使用していました。
鎌倉時代の執権北条氏と、小田原北条氏は違う一族
戦国時代に活躍した小田原北条氏は、鎌倉時代を支えた執権北条氏の子孫だったのでしょうか。
現代では、この二つの北条氏は直接の血縁関係はなかったという見解が有力です。
戦国時代の小田原北条氏の初代当主は、伊勢宗瑞(北条早雲)といい、「北条」ではなかったのです。
「北条」と名乗るようになったのは、二代目の北条氏綱からでした。
ではなぜ、二代目当主の氏綱は「北条」と名乗るようになったのでしょうか。
この理由を説明するためには、まずは、執権北条氏が「北条」と名乗るようになった背景からお伝えしていこうと思います。
- 執権北条氏が「北条」と名乗るようになった理由
- 小田原北条氏が「北条」と名乗るようになった理由
なぜ執権北条氏は「北条」と名乗るようになったのか?
執権北条氏が「北条」と名乗るようになった理由を一言でいうと、「北条の地出身だから」です。
そもそも「北条」というのは、伊豆にある場所の名前でした。
今の神奈川県の伊豆長岡駅の奥の山間が「北条」という地名だったようです。
ちなみに、そこから少し南に歩くと「中条」という地名になり、さらに南に行くと「南条」となります。
そして、伊豆国の「北条」地区は、執権北条氏が最初に管理していた土地でした。
つまり、北条の地を管理していた平家のとある豪族が、他の平家と区別するために、自分の一族を「北条」と名乗ったわけです。そして、伊豆国に流刑されてきた源頼朝の味方となり、勢力を拡大し、後の鎌倉幕府の執権北条氏となったのでした。
鎌倉時代や戦国時代の名字は、各々の家を区別するために付けられるもので、自分で自由に決められるものだったというわけです。
今でも、「東京のおじいちゃん」や、「福岡のおばさん」などと住んでいる土地名で親戚を区別することってありませんか。当時の名字は、それと同じような感覚だったのだと思われます。
なぜ小田原北条氏は「北条」と名乗るようになったのか?
戦国時代になり、小田原北条氏の初代当主の伊勢宗瑞(北条早雲)は小田原地方を領地として手に入れます。
そこには、「執権北条氏の発祥の地」である「北条」が含まれていました。
二代目当主の氏綱の時、名字を「北条」に改めます。「北条の地を治めるもの」には間違いないので、北条を名乗ることに筋は通っているわけです。
しかしながら、北条氏綱が自分の領地の中から、「北条」を選んだのには大きな理由がありました。
鎌倉幕府を支えた執権北条氏の知名度や威光は、鎌倉時代から100年後の戦国時代でも抜群です。特に関東一体の武将たちの中には、覇者「北条氏」のイメージが強く残っていました。
そのため、「北条」を名乗ると、関東の他の武士たちが自分たちに権威や畏怖を感じてくれるのではというイメージ戦略があったようです。
そして、「北条」に改姓した影響もあったのかその後五代にわたって小田原北条氏は、次々と周囲を平定し小田原城を本拠地に関東一円を支配する有力大名となるのでした。
こうして、直接的な血縁関係がないと思われる、二つの一族が「北条」を名字とするようになったのです。
北条氏の家紋「三つ鱗」の由来
家紋に注目してみると、どちらの北条氏も「三つ鱗」で、ほぼ同じです。
この二つの北条氏の三つ鱗の家紋の由来は何だったのでしょうか。
「三つ鱗」の家紋は、執権北条氏の家紋だった
三つ鱗は、執権北条氏の代表紋として有名です。
「太平記」や「蒙古襲来絵詞」にも「三つ鱗」の存在を確認することができます。
執権北条氏から使用し始めた代表紋であったようで、北条氏以外の他氏ではほとんどみることができない紋でもあります。
今では、先祖代々変わることのないイメージの強い家紋ですが、戦国時代では家紋も自由に変えられるものでした。家の紋だけでなく、個人でも独自の紋をもっていたりと、複数の紋を使っている武将も珍しくなかったようです。
当時の家紋は、今でいうところの、幼稚園生などが自分の持ち物に同じうさぎさんマークを付けているような感覚だったのかもしれませんね。
なお、正三角形の三つ鱗が執権北条氏のもので、二等辺三角形の三つ鱗が小田原北条氏のものとする見解もありますが、鎌倉の地でも二等辺三角形の三つ鱗がみられることなどから、明確な分類はできないものとする見解が今では有力です。
鎌倉時代の執権北条氏の紋の中にはあまり形がキチンと整っていないものもあり、「三角形が三つ並ぶ」というルールにのっとっていれば「三つ鱗」の紋としていたようです。
「三つ鱗」の家紋の由来
執権の北条氏が家紋に「三つ鱗」を用い始めた由来は、江の島にあるとされています。
北条政子の父、北条時政が、江ノ島弁財天に子孫繁栄を祈願していました。
祈願をし続けていく日も経ったある夜のこと、北条時政の目の前に神秘的な衣をまとった美女が突然現れました。弁財天です。そして、厳かな声で北条家の未来についてお告げをしたそうです。
「あなたの前世は箱根の法師です。修行して徳を積み、この世に生まれ変わりました。素晴らしい前世を持つあなたの子孫は、末永く日本の主となり繁栄することでしょう。しかし、正しい行いをしなければ、七代以上は続きませんよ。」
弁財天はお告げの後、大蛇(龍)に変身し、海中へと消えていきました。
弁財天が現れた場所には、三枚の鱗が残っていたそうです。
そして北条時政は「所願成就した」と喜び、残された三枚の鱗を家紋とすることにしました。
こうして、北条家の家紋は「三つ鱗」となったといわれています。
なぜ小田原北条氏は、執権北条氏の「三つ鱗」の家紋を使用したのか?
小田原北条氏の家紋「三つ鱗」は、執権北条氏の「三つ鱗」を模範したものでした。
なぜ、小田原北条氏は、執権北条氏の「三つ鱗」の家紋を使用することにしたのでしょうか?
小田原北条氏が「三つ鱗」の家紋を使用し始めたのは、北条氏綱から?
小田原北条氏は、初代当主の伊勢宗瑞の家紋は、「三つ鱗」ではありませんでした。
小田原北条氏が家紋を「三つ鱗」としたのは、二代目の北条氏綱の時からだったのです。
では、初代の伊勢宗瑞(北条早雲)の時は、どのような家紋を使用していたのでしょうか。
「対い蝶」という紋を使用していました。
蝶々が向かい合って描かれた、平家に伝わる優雅なで複雑な紋です。
小田原北条氏は、二代目当主の北条氏綱の時に、今までの「対い蝶」紋から、「三つ鱗」もんに、家紋を変更したのです。
執権北条氏の知名度を利用して、「三つ鱗」の家紋と北条という名前を利用した
なぜ、二代目当主の北条氏綱は、家紋を変更したのでしょうか?
戦国時代の小田原北条氏が、「北条」と名乗ったのは、執権北条氏の威光を借りたイメージ戦略のためでした。
家紋を変更した理由も同じであると考えられています。
小田原北条氏は、執権北条氏と同じ「三つ鱗」の家紋を使用することで、周囲の戦国武将たちに向けて、「小田原北条氏は執権北条氏の後継者」とのイメージを強固にしていったのです。
まとめ:北条家の家紋「三つ鱗」は、鎌倉時代の執権北条氏がルーツだった
小田原北条氏の家紋「三つ鱗」は、鎌倉時代の執権北条氏に由来していることが分かりました。
今回の内容をまとめると、
- 鎌倉時代の執権北条氏と、小田原北条氏は違う一族
- 三つ鱗の家紋の由来は、初代執権の北条時政が江ノ島の弁才天に祈願したことが由来
- 小田原北条氏が執権北条氏の知名度を利用するために、「三つ鱗」の家紋と北条という名前を使用した
- 小田原北条氏は、北条という名前と三つ鱗の家紋を利用し、勢力を拡大していった
血のつながりのないが、日本の歴史に大きく影響を与えた執権北条氏と小田原北条氏。
二つの氏族が同じ三つ鱗の家紋をしようした理由が、イメージ戦略であったことには驚きでしたが、テレビやインターネットも無い戦国時代だからこそ、今よりもイメージ戦略の影響力は大きかったのかもしれませんね。
武田信玄の赤備えをはじめとして、確かに優れた武将はうまくイメージ戦略を活用しているように感じます。