足利義満のエピソード!意外すぎる性格や、金閣寺を建立した理由などを簡単に解説!
足利義満は、室町幕府の3代目将軍です。金閣寺を建立した将軍としても有名ですよね。
アニメ一休さんにでてくる「将軍様」としても有名な足利義満は、おおらかなトンチ好きなイメージもあるかもしれません。室町時代の全盛期を築いた足利義満はどのような性格だったのでしょうか?
実際は、足利義満は権力が大好きで、我の強い性格だったといわれています。
今回は、足利義満のエピソードをもとに、意外な性格や、金閣寺を建立した理由などを解説していきます。
目次
足利義満は武士?公家?
足利義満は、「武士」と「公家」そして「僧」という三つの顔を持つ人物です。
足利義満は、日本の歴史上で初めて、「将軍(武士)」でありながら「公家」として朝廷を完全に支配した人物なのです。
そしてその後、出家して「僧」となりました。
足利義満はなぜ、「武士」でありながら「公家」でもあったのでしょうか?
足利義満は、1358年(正平13年/延文3年)に室町幕府二代目将軍の足利義詮(あしかが よしあきら)の敵男として誕生します。
つまり、足利義満は「武士」として生まれたのです。
1367年(正平23年/応安元年)足利義詮が死去し、足利義満は僅か10歳で室町幕府の三代目征夷大将軍となります。
「武士」の頂点の地位に就いたのです。
時は南北朝時代、朝廷が南朝と北朝に分かれており、争いを度々繰り返していました。北朝を支持していた室町幕府も、組織としては不安定であったことは否めません。
そこで足利義満は、「武士」ではなく「公家」として昇進する策を講じます。
足利義満は将軍でありながら公家社会の一員として官位の昇進を続け、1383年(永徳2年/弘和2年)に源氏長者になります。
つまり、「武士」としても「公家」としても「源氏の頂点」に登り詰めたのです。
武家出身者が「源氏長者」になったのは、足利義満が初めてです。
足利義満はその後も権力を強めていき、ついに1395年(応永2年)に「太政大臣」となります。
太政大臣は「公家(朝廷)」の頂点に値する地位です。
こうして、足利義満は「武士」と「公家」のトップに君臨したのです。
足利義満はその後、、1395年(応永2年)に出家しています。
この出家は、現世に満足したためではなかったと言われています。
つまり、「武士」と「公家」の勢力を手中に治めた足利義満は、今度は「宗教」の勢力もわが物にするために出家をしたというのです。
足利義満が、「武士」と「公家」そして「僧」という三つの顔を持っているのは、不安定な室町幕府を安定させるために奮闘した結果だったのですね。
足利義満の飽くなき野心には感服させられます。
足利義満は天皇になろうとしていた?
足利義満は、「天皇になろうとしていたのではないか」という説が存在しています。
足利義満が、「天皇になろうとしていた」という説の証拠とされるもの、それは足利義満の建てた金閣寺の上の鳳凰です。
金閣寺の屋根の中心には、伝説の鳥「鳳凰」が羽を堂々と広げて立っています。
鳳凰は中国では、
「現れると、徳のある天皇の世が始まり、良い世の中になる」とされる吉鳥です。
しかしながら、
「鳳凰が現れると、天皇が交代する」ことも同時に暗示しているといえます。
足利義満は、そのような意味を持つ「鳳凰」を、自分が建立した金閣寺の屋根に置いているのです。
これは、「新しい天皇に相応しいのは自分である」と示しているのではないか?というわけです。
皇族の出身ではないものが、天皇になることは通常考えられません。
常識もタブーも配慮も気にせず、自分の野望に忠実な行動をとる人物像が、足利義満の人生からは感じられるように思います。
足利義満は天皇を自殺未遂に追い込んだ?
足利義満は北朝第5代天皇である後円融天皇を自殺未遂に追い込んでしまったとのエピソードが残されています。
1383年(永徳二年)の出来事です。
三人目の出産を終えたばかりの妻のところに、後円融上皇が押し入り、刀の峰で力いっぱい打ち据える事件がおきました。出血が止まらない程の大怪我だったといいます。
朝廷内での孤立で追い詰められていたためとも、足利義満と妻が密通していたのではないかと疑った末の凶行だったともいわれています。
事件を知った足利義満が話を聞くため、使者を送ります。
足利義満を過度に恐れた後円融天皇は、配流されると思い、面会を拒否し禁裏に立てこもって自殺を図る事案になったというわけです。
そもそも後円融天皇には、自分が天皇になれたのは、将軍の足利義満と従兄弟の関係であったからと思いがあったといわれています。
そして、武士としての立場を越えて、容赦なく朝議に介入してくる足利義満に対立しても、常に譲歩を余儀なくされ落胆の日々をすごします。
延臣たちも足利義満に取り込まれていきます。
壬申の乱(日本最古の内乱)の弘文天皇と、平家物語の安徳天皇以外に自殺を試みた天皇は他にいません。
足利義満の躍進の影で、後円融天皇がいかに孤立を深め悩まれていたかを表している事件といえるのではないでしょうか。
足利義満は日本国王だった?
足利義満は、日本国王として明と貿易をしました。
足利義満はなぜ、日本国王名乗っていたのか?
1401年(応永8年)、足利義満の元に、明から勘合符が送られてきます。
勘合符とは、日明貿易等に用いられた割符です。
勘合符が明から発行されることで、通交船は明に認められたものであることの証明となるものでした。
その手紙に、足利義満のことを日本国王と記してあったのです。
つまり、足利義満は明の皇帝から、日本国王であると認められていたのです。
こうして始まった日明貿易は、室町幕府に大きな利益をもたらしました。
実際のところ、日本に国王は存在しませんが、足利義満がそれだけ大きな権力と影響力を持っていたということを表していますね。
足利義満が金閣寺を建てたのはなぜ?
足利義満は、金閣寺を建てたことで有名です。
足利義満が金閣寺を建てたのは、「自分の権威を誇示したかったからだ」との説があります。
足利義満が建てた金閣寺は、じつはその造りが非常にユニークな造りなのです。
三階建ての金閣寺は、一階ごとに様相がガラリと異なり、非常に特徴的です。
1階は公家式の寝殿造りとなっており、金箔は貼られていません。
2階は金箔仕様の武家造りに、3階も金箔仕様で中国風の禅宗様のつくりになっているのです。
【金閣寺の階層ごとの造り】
1階:寝殿(公家)造り(金箔なし)
2階:武家造り(金箔仕様)
3階:中国風の禅宗様(金箔仕様)
これは、足利義満が
「公家よりも武家が上であり、更に上に中国皇帝がある」
ことを示しているのではないかといわれています。
そして、武家出身であり、明と交易をしている自分こそが、「最大権力者である」ことを示しているというのです。
金閣寺は、ただ黄金に輝くだけでなく、足利義満の権力を誇示するための象徴だとも言えますね。
足利義満は貿易で莫大な利益をもたらした
足利義満は積極的に明との貿易を行い、莫大な利益をもたらしました。
日本からは、刀や槍、扇、銅、硫黄などを送り、明からは、銅銭や絹などが送られてきました。
日本の刀は明では大変な人気があったと言われています。
また、日本の銅には少し銀が混ざっていたため、高値で取引されました。
当時の日本にはまだ、銅から銀を取り出す技術はなかったので、銅が高値で売れることは、双方にとって有益なものだったとされています。
足利義満は幼少期からわがままだった
強い野心で公家としても上り詰め、室町幕府の全盛期を築き上げた足利義満ですが、小さいころのエピソードからも足利義満の性格が伺えるものが残されています。
南北朝時代に産まれた足利義満は、幼少時代に、南朝の勢力が強まり一時的に京を離れて過ごしていました。
京に戻る際、明石の辺りの景色を気に入った足利義満は、
「ここの景色は美しいから持って帰ろう。お前たち、担いで帰れ」
と命じたというのです。
景色ですら自分が欲すれば、手に入れようとする足利義満の人並外れた度量の広さは、幼少期から健在であったことが伺えますね。
足利義満は、日本で初めて酒税を課した
足利義満は、日本で初めて酒税を課した人物でもあります。
一つのツボで200文の税金が掛けられたそうです。
今のお金で2万円くらいとのことですので、相当な額ですね。
足利義満は、室町幕府の財政難の解決策として酒税を取り入れたといわれています。
足利義満自身も大酒豪だったようですから、酒税を課した背景には、
お酒が好きな人は税金をかけてもお酒を買うにちがいないとの目算もあったのかもしれませんね。
足利義満と一休さんの関係は?
足利義満は、アニメ 一休さんにでてくる、よくとんち対決をしている愉快な将軍です。
実際には、一休さんの生まれた時には足利義満は出家し将軍の座を降りています。
なので、アニメ一休さんに出てくる「将軍さま」の年代と、実際にはややズレが生じています。
しかし、意外にも実際の一休さんは、もしかすると足利義満の孫かもしれないのです。
「一休さん」のモデルとなっているのは、一休宗純という僧です。
一休宗純の父親は北朝の後小松天皇だといわれています。
そして、一休宗純の父親の後小松天皇は、後円融天皇の皇子です。
後円融天皇は、足利義満と自分の妻の密通を疑っていました。
その結果、出産直後の妻を刀の峰で殴って出血させたり、自身も自殺未遂したりしたと言われている人物です。
実際に密通があった記録は存在していませんが、もしも、後円融天皇の疑いの通りであるならば、後小松天皇は足利義満の子供ということになります。そのため、一休宗純は足利義満の孫であるかもしれないというわけです。
アニメでは、愉快にとんち対決をしていますが、その二人がもしかしたら血縁関係があると思うと、孫と遊ぶおじいちゃん、という見方もできますね。
一休さんに出てくる、とんち対決のエピソードを紹介します。
【とんち対決「屏風の虎」のエピソード】
ある日、「将軍さま」は「一休さん」に、屏風に描かれた虎を指して、
「毎晩、あの虎が屏風から抜け出して悪さをするから縛り上げてほしい。」
と一休さんに、とんち対決を仕掛けます。
一休さんは縄を持ちながら言いました。
「承知しました。虎を縛るので、虎を屏風から追い出してください。」
それを聞いて、将軍さまは手を叩き喜びました。
「なるほど!出てこなければ縛れないな。あっぱれなトンチじゃ!褒美をつかわす!」
こうして一休さんはたくさんの褒美をもらって、満足そうにお寺に帰りました。
なんとも微笑ましいエピソードですね。
まとめ:足利義満は権力への固執が強いわがままな人物だった
足利義満は、権力への固執がつよく、常識にとらわれずに自分の野望を叶えようとする人物であることがわかりました。明の皇帝などの強い者には下手に出、弱い者には強気に出る性格でもあり、それが足利義満の権力を維持し、室町幕府の黄金期を築いたとも言えるでしょう。
今回の内容をまとめると
- 足利義満は、「武士」と「公家」、「僧」の三つの顔を持っていた
- 足利義満は、「天皇になろうとしていたのではないか」という説が存在する
- 足利義満は、天皇を自殺未遂に追い込んだことがある
- 足利義満が金閣寺を建てたのは、自分の権威を誇示したかったから?
- 足利義満は日本国王として明との貿易をおこない、莫大な利益をもたらした
- 足利義満は、幼少期に景色を持ち帰りたがった
- 足利義満は、日本で初めて酒税を課した
- 足利義満は、実際の一休さんの祖父の可能性がある
足利義満のエピソードには、人間性が垣間見え、将軍といえども一人間なんだと、身近に感じますね。