後白河天皇の系図|どんな人だった?平清盛や源頼朝との関係はどうだった?

後白河天皇の系図|どんな人だった?平清盛や源頼朝との関係はどうだった?

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後白河天皇(1127(大治2)〜1192(建久3))は、平安末期の第77代天皇です。
この平安末期という時代は、武士・貴族・天皇・上皇の勢力が複雑に入り乱れていました。
しかし、この激動の時代でありながら、後白河天皇は30年もの間上皇として君臨し続けました。
そんな後白河天皇はどのような人物だったのでしょうか?

この記事では、後白河天皇の系図を見ながら、後白河天皇はどんな人だったのか?平清盛や源頼朝との関係はどうだったのか?簡単に解説していきます。

後白河天皇の系図を簡単に解説!

後白河天皇の系図

後白河天皇の家族構成

後白河天皇は、1127年(大治2年)に鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の第四皇子として生まれました。
兄弟には、崇徳天皇と近衛天皇がいます。
天皇は後継者を絶やすわけにはいかないので、後白河天皇も例に漏れずたくさんの妻と子供がいます。

妻は、中宮・藤原忻子、皇太后・平滋子、女御・藤原琮子など、全部で14人。

子供は、二条天皇や以仁王、高倉天皇など、全部で17人いたと言われています。

後白河天皇とはどんな人?

後白河天皇

1127(大治2)〜1192(建久3) (享年:66歳)

出身地:京(現在の京都市)

父:鳥羽上皇  母:藤原璋子

子:二条天皇、亮子内親王、好子内親王、式子内親王、守覚法新王、以仁王、円恵法親王、定恵法親王、休子内親王、惇子内親王、恒恵、高倉天皇、静恵法親王、道法法親王、承仁法親王、真禎、覲子内親王

後白河天皇は、平安時代末期という皇族、貴族、武家の誰が権力者になってもおかしくない時代に、30年以上政治の中心にいた人物です。

後白河天皇の年表

激動の時代を上皇として君臨し続けた後白河天皇とはどんな人だったのでしょうか?
ここでは、後白河天皇の年表を参考に、どのように法皇へと駆け上がっていったのかを簡単に解説していきます。

【後白河天皇の年表】

  • 1127年(大治2年):0歳
    鳥羽上皇の第四皇子・雅仁親王として誕生
  • 1155年(久寿2年):29歳
    異母弟の近衛天皇が亡くなり、雅仁親王が後白河天皇となる
  • 1156年(保元元年):30歳
    保元の乱が起こる
  • 1158年(保元3年):32歳
    後白河天皇が譲位して二条天皇が誕生する
    →後白河上皇となる
  • 1159年(平治元年):33歳
    平治の乱が起こる
  • 1169年(仁安4年):43歳
    出家して、後白河法皇となる
  • 1177年(安元3年):51歳
    鹿ヶ谷の陰謀が起こる
  • 1179年(治承3年):53歳
    治承3年の政変で平清盛が後白河法皇を幽閉する
  • 1181年(治承5年):55歳
    平清盛が亡くなり、後白河法皇の院政が再開される
  • 1183年(寿永2年):57歳
    後白河法皇が源義仲に平氏追討の院宣を出す
  • 1185年(元暦2年):59歳
    壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡する
    →源義経に源頼朝追討の宣旨を出す
    →後に源頼朝に源義経追討の宣旨を出す
  • 1190年(建久元年):64歳
    源頼朝と初めて対面を果たす
  • 1192年(建久3年):66歳
    崩御

後白河天皇は朝廷内で最低の評価を受けていた?

実は後白河天皇は、雅仁親王時代朝廷内で最低の評価を受けていました。

それには、きちんと理由があります。後白河天皇は、第四皇子で皇位とは到底無縁な立場にいました。
そのため、自由奔放、気楽に遊んで暮らしていたのです。特に今様(いまよう)という歌にのめりこんでいました。

このハマり方が常軌を逸脱していたようで、朝廷の人々は後白河天皇はぶっ飛んでるヤバいやつだと思っていたわけです。

父親である鳥羽上皇と、兄弟である崇徳天皇も、後白河天皇についての評価は同じだったようで、

「即位の器量にあらず。文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」

と、ひどい言いようでした。

さらに、評価が低すぎたゆえに、崇徳天皇の次の後継者として鳥羽上皇が指名したのは、後白河天皇とは12歳も離れた生後3ヶ月の弟の近衛天皇でした。

赤ちゃんにすら負けるくらいの評価だったというわけですから、相当低い評価を受けていたということが伺えますね。

後白河天皇はあまり期待されずに即位した?

近衛天皇が亡くなったとき、次の後継者は後白河天皇の息子である守仁新皇(後の二条天皇)にしようという声が上がりました。守仁親王は、後白河天皇とは違い、デキる人物であると評価されていたのです。

ただし、守仁親王は、父親の影響で皇族から離れて寺に入れられていたり、まだ12歳で若かったり、また父を飛び越えて即位するのはおかしいだろうということで、その話は一旦保留になります。

そこで登場するのが後白河天皇です。
守仁新皇が成長するまでの繋ぎ役として即位することになります。繋ぎ役としての即位ですから、今までの悪評もあり、誰も期待していない即位となったわけです。

後白河天皇から上皇、そして法皇へ

後白河天皇が即位した翌年、鳥羽法皇が亡くなります。
そして、亡くなった次の日に崇徳上皇がクーデターを起こすのです。(保元の乱)
即位していきなりの戦いでしたが、武家の代表とも言える平清盛、源義朝・頼朝が天皇派であったこともあり、結果としては天皇派の圧勝で終わります。

この時、後白河天皇は武家の力の強さを思い知り、武家の力に頼って政治を行っていくことにするのです。

後白河天皇は、信西しんぜいという人物に政治を任せていました。

この信西は、非常に博識で政治に精通しており、天皇親政を目指していました。
(後白河天皇を通じて自らの望む政治を行うため)

そのため、後白河天皇は繋ぎ役で終わられると困るわけです。
なんとか後白河天皇が長く続けられるようにと必死に政治を回していきます。
しかし、その甲斐も虚しく、即位から4年後に二条天皇に譲位することになるのです。

ここで問題なのは、上皇となった後白河上皇が政治を行うのか(院政)、それとも二条天皇が政治を行うのか(親政)ということです。この議論で朝廷は大きく分かれ、再び京で戦が起こることとなります。(平治の乱)

この戦の勝者は二条天皇側でした。
そして、後白河上皇は信西が亡くなってしまったことも重なり、力を失ってしまいます。

一方、せっかく勝利した二条天皇派もその後の内ゲバのせいで有力者がいなくなり、両者は結局膠着状態に陥ります。

そこで2人を救ったのが平清盛です。

当時の清盛は、人も金も武力も持ち揃えていましたから、助け舟をだすのになんの苦もなかったのでしょう。
その見返りとして平一族への官位を求めるのです。
その後、後白河上皇は平家との結びつきを持つようになります。

その最たる例が、平滋子です。

後白河上皇は平滋子に一目惚れし、子供まで作ってしまいます。(後の高倉天皇)
子が生まれるやいなや、後白河上皇はこの子を皇太子にしようとしますが、それをあまりよく思わなかった清盛は激怒し、後白河上皇に近かった貴族たちを要職から外してしまいます。

こうして、後白河上皇は再び力を失うことになるのです。力を失った後白河上皇は、仏教にのめりこむようになります。その影響で、1169年(仁安4年)に出家し、法皇となります。

二条天皇は非常に優秀な人物でしたが、20歳あまりの若さで亡くなってしまいます。

その次に即位したのが六条天皇でしたが、当時なんとまだまだ乳飲み子の状態でした。
そのため、国政を担えるのは、後白河法皇しかいない、ということで、再び政治の表舞台に立つことになるのです。その後、何度か幽閉されることもありましたが、後鳥羽天皇までの34年間に渡り院政を行っていくことになります。

後白河天皇と平清盛、源頼朝との関係は?

後白河天皇と同じ時代を生きた有名な人物として、平清盛と源頼朝がいます。
後白河天皇はこの2人とどのように関係を築いていたのでしょうか?
ここでは、後白河天皇と平清盛、源頼朝との関係を簡単に解説していきます。

平清盛とは始めタッグを組むが、後に対立することに…

後白河上皇は、平治の乱の後、自分の勢力を失ってしまいます。

そこで、二条天皇に味方していた平家に近づいて取り込むことにするのです。
ここから平清盛と後白河天皇はタッグを組むことになります。金と人と武力を持ち合わせていた平清盛と、権力を与えることのできる後白河上皇はお互いに利用し、されることで、互いの権力基盤を固めていったのです。

その結果、平清盛は武士として初の太政大臣に就任します。

さらに、六条天皇を退位させ、高倉天皇を即位させることにより、後白河上皇は後見人として自分の院政を強化しました。また、この高倉天皇の母親は平滋子、つまり平清盛の妻の妹にあたる人物になります。
そのため、平清盛も後見人といってもいい立場になったわけです。

こうして、後白河・平家体制が完成しました。

しかし、共通の敵がいなくなってしまった今、お互いの存在が邪魔だと感じ、次第に関係が悪くなり始めます。
それを決定づけたのが、後白河法皇が平清盛を追い落とそうと計画をした鹿ヶ谷の陰謀です。

後白河法皇は、そんなことは知らないと言わんばかりにしらばっくれたおかげで追放されることはありませんでしたが、平清盛との関係は急激に悪化したのでした。

その後、平清盛の嫡男である重盛が亡くなった際、後白河法皇は重盛の所領を没収して自分のものにしました。

このことに激怒した平清盛は、数千の兵を率いて上洛し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉してしまいます。

そして、院政を停止し、高倉天皇と自身の娘である徳子との間に生まれた安徳天皇を即位させるのです。
こうして、平清盛は日本の歴史上初めての武家政権を誕生させました。

自分の権力を維持しようと利用していたはずが、いつの間にか政権を乗っ取られ、史上初の武家政権を誕生させることになってしまったということですね。

源頼朝とも始めタッグを組むが、やはり対立することに…

平清盛との関係が冷え切ってしまった後、それでも後白河法皇は政権復帰を諦めていませんでした。

平清盛が亡くなると、平家は急激に勢力が衰えていきます。そこで、後白河法皇は院政を再開し、平家を捨て、今度は源氏と接近することにします。

まず最初は、当時いちばん勢いの合った木曽義仲と手を組みました。
しかし、義仲は京での評判があまりよくなく、仕方なく今度は源頼朝に近づきます。

そして、源頼朝に平家追討の宣旨を出すのです。
平家を倒すという共通目的があったために、タッグを組んだということですね。

しかし、壇ノ浦の戦いで平家が滅ぶと、今度は新たな武家政権を樹立しようと奔走している源頼朝の存在は邪魔にななり、後白河法皇は源義経に源頼朝討伐の宣旨を出します。

しかし、これは失敗に終わり、逆に源頼朝に抗議される事態となってしまいました。

仕方なく、後白河法皇は今度は源頼朝に源義経討伐の宣旨を出しました。

これにより、源頼朝は自身に匹敵する軍事力を持った勢力を全て排除することに成功。

こうして、鎌倉幕府の下地が出来上がりました。

このように、平清盛と同様、源頼朝にも利用され、いつの間にか政権を奪われてしまうのです。

しかし、後白河法皇も武家政権樹立をさせないようにと、ほんの少しの抵抗を見せていました。

それは、自身が死ぬまで源頼朝に征夷大将軍の地位を与えなかったことです。

後白河法皇がもっと早く源頼朝にその地位を与えていたら、鎌倉幕府成立の年ももっと早かったかもしれません。

後白河天皇が最後の最後まで、武家政権に対抗した証と言えるでしょう。

まとめ:後白河天皇の系図には、当時の覇権争いの図が現れていた

後白河天皇の系図を見て、どうして近衛天皇のほうが弟なのに先に天皇になっているんだろう?と思った人もいるでしょう。それには、新皇時代の悪評が原因で、天皇に押されなかったという背景がありました。
このように、系図には様々な思惑が隠されていたのです。

今回の内容をまとめると、

  • 後白河天皇は若い頃遊びすぎて、朝廷内での評価がとても低かった
  • 最初は二条天皇が成長するまでの繋ぎ役として即位した
  • 平清盛や源頼朝といった武家の力を借りて様々な困難を乗り越えていった
  • 仏教にハマり、出家したため法皇となった
  • 最終的に、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽と5代34年に渡り院政を行った

父親にも兄弟にも最低の評価をされ、実の息子とも対立することになるなど、後白河天皇の生涯は波乱万丈そのものでした。しかし、その環境こそが、長く頂点に君臨し続けるためのスキルを培ってくれたのかもしれません。

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