足利義満はなぜ金閣寺を建てたのか?その理由と金閣寺の歴史を徹底解説!
京都名所の一つ、金閣寺。金色に輝く美しい建物には、金閣寺を建てた第3代将軍足利義満の野心が秘められていることはご存知でしょうか。将軍、太政大臣として室町時代を生き、日本国王と呼ばれた足利義満の生涯を追いながら、金閣寺の歴史を紐解いていきます。
目次
足利義満はいつ、何のために金閣寺を建てたのか?
1397年(応永4年)、足利義満は京都の北山に金閣寺を建てました。もとは別荘として建築され、足利義満没後の正式名称は鹿苑寺と言います。
しかし金箔があしらわれた見た目から、金閣寺という通称の方が有名ですね。
金閣寺はお寺にも関わらず、なぜこれほどまでに豪勢な作りなのでしょうか。
それには足利義満の野望が反映されていると考えられます。
足利義満が生まれたのは、天皇家が北と南に分かれて争っていた南北朝時代です。
足利義満は、父亡き後10歳で将軍職を継ぎ、室町幕府第3代将軍となりました。将軍としての才を発揮し、57年間続いた南北朝を統一します。
その後息子に将軍職を譲って太政大臣となり、1395年(応永元年)隠居・出家した後に金閣寺を建てました。
金閣寺は3階建てで、階によって建築様式が異なります。
1階は公家、2階は武家、3階は中国の禅宗の様式です。
このうち金箔が貼られているのは2階と3階だけです。
つまり公家よりも武家の立場が上である、さらにその上に中国皇帝がいるという主張が表れているのです。
足利義満は、貿易相手である明(当時の中国)から、日本国王と呼ばれていました。金閣寺を建てることによって、「日本国王である自分は公家や武家よりも偉い存在なのだ」と示したかったのでしょう。
足利義満の野望が込められた鳳凰
金閣寺の屋根には、金色の鳳凰が据えられています。
鳳凰は中国の伝説上の生き物で、権力や永遠の命の象徴であり、徳のある天子の世に現れるとされています。
天子は日本で言う天皇です。
鳳凰を掲げた足利義満は、自分が新たな天皇に相応しいと示したとも、息子を天皇にして自分は太上天皇になろうとしていたとも言われています。
金閣寺を建てた当時、足利義満はすでに将軍職を辞しており、出家して隠居しています。
それでもなお、朝廷に君臨することを目指していたのでしょうか。
金閣寺の屋根に施された美しい鳳凰には、足利義満の強烈な野望が込められていたのですね。
【金閣寺の歴史】足利義満の没後、金閣寺はどうなった?
足利義満は1408年(応永15年)に51歳でこの世を去ります。
没後、金閣寺は足利義満の遺言通り禅寺となりますが、1467年(応仁元年)応仁の乱に巻き込まれて消失。
1649年(慶安2年)と1906年(明治39年)に大規模な修復工事が行われましたが、1950年(昭和25年)放火によって全焼しました。
放火の犯人は金閣寺の見習い僧侶です。
「世間を騒がせたかった」と動機を供述しましたが、参観料で運営される金閣寺に対して複雑な感情も抱いていたようです。
作家の三島由紀夫は、この事件を題材に長編小説『金閣寺』を著しています。
放火事件後、金閣寺は1952年(昭和27年)から1955年(昭和30年)にかけて再建されました。
その後劣化が見られたため、1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)に昭和の大修復が行われました。この時に漆の塗り替えや金箔の貼り直しが行われましたが、総工費は当時の金額で約7億4千万円かかったそうです。
1994年(平成6年)にユネスコの世界文化遺産 古都京都の文化財の一つとして登録され、京都観光の名所の一つとして今も存在を示しています。
【金閣寺の歴史】
1397年(応永4年) 足利義満が金閣寺を建設する
1467年(応仁元年) 応仁の乱に巻き込まれ消失
1649年(慶安2年) 修復工事
1906年(明治39年) 修復工事
1950年(昭和25年) 放火により全焼
1952年(昭和27年~) 再建工事
1986年(昭和61年~) 修復工事(昭和の大修復)
1994年(平成6年) ユネスコの世界文化遺産に登録
まとめ:足利義満が建てた金閣寺は、義満の野望と権力の象徴だった
南北朝を統一し、さらに天皇の座を狙っていた足利義満。金閣寺は、誰よりも上に君臨することを示そうとした足利義満の野望と権力の象徴でした。
金閣寺を訪れた際は、ぜひ頂上の鳳凰を仰ぎ見ながら、足利義満が抱いたその野心を感じてみてください。