楠木正成と足利尊氏は仲が悪かった?二人はなぜ対立することになったのか?

楠木正成と足利尊氏は仲が悪かった?二人はなぜ対立することになったのか?

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鎌倉幕府が滅亡し、室町幕府が始まる過渡期に活躍した2人の名将は、しばしば対照的な人物として描かれます。
最後まで後醍醐天皇に仕え命を散らした楠木正成くすのきまさしげと、鎌倉幕府の家臣から北朝の天皇派、そして南朝天皇派へと次々に仕える主を乗り換えて室町幕府をつくった足利尊氏あしかがたかうじ。どちらもとても魅力的な人物です。
今回は、時代に翻弄された二人の名将はどのような人物だったか?また二人の関係性にも注目していきます。

楠木正成はなぜ悪党と呼ばれるのか?

楠木正成はしばしば、出自が「河内の悪党」であったとされます。
現在の「悪党」の意味は、「悪人やならず者」といったものですが、当時の悪党」は、土地の権威の命令や規則に従わないものという意味でした。
悪人やならず者の意味は当時の悪党の中には含まれず、社会の上流階級に位置する人物でも、権力者のルールに従っていないものは「悪党」とよばれたのです。権力者の決めた税や規則に従わず、しばしば荘園から略奪を行っていたため、いつしか略奪を行う行為の方が注目され、現在の悪党の意味になったと考えられています。
楠木正成も、1331年に河内の荘園で略奪を行い、金品を奪ったとの記録が残っています。しかし、楠木が略奪行為を行った記録はこの1回のみです。
その時期が、後醍醐天皇の元弘の変の1ヶ月前だったことからも、その資金集めだったのでは?との見方が有力です。

楠木正成の出自は不明点が多く、専門家の中でもさまざまな意見が分かれています。しかし、後の知将ぶりからも、今の「悪党」の意味にはそぐわない、礼儀正しく知的で高い教育を受けた人物であったことは間違いないでしょう。

楠木正成は後醍醐天皇に信頼されていた?

楠木正成は後醍醐天皇からの信任は非常に高かったと思われます。
その根拠の一つとして、鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が京の都へ戻る時の出来事があります。
天皇が都へ戻る際の華々しい行列の中で、楠木正成はその行列を先導する栄誉ある役割を任されていたのです。
また、後醍醐天皇が行った、建武の新政の中でも楠木正成は側近として重要なポストを与えられ、重用されていました。
つまり直接、後醍醐天皇に自分の意見を提案できるほどの信頼を得ていたのです。

足利尊氏はなぜ鎌倉幕府を滅亡できたのか?

六波羅探題(Wikipediaより)

鎌倉幕府を滅亡した人物として有名な足利尊氏ですが、じつは鎌倉幕府を滅亡させたのは、足利尊氏の力だけではありません。
鎌倉幕府の滅亡は、多くの有力武士たちが立ち上がった結果なのです。

鎌倉幕府を滅亡させるためには、鎌倉だけでなく、京都に設置された、鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題ろくはらたんだいを壊滅させなければいけません。
この六波羅探題という機関は、鎌倉幕府の重職であり、朝廷の動きを監視するだけでなく裁判や京都周辺の治安の維持も行っている機関でした。
今で言うところの、警察と検察と自衛隊と裁判所が全部集まったイメージでしょうか。武力でも権力でも一般的な武士たちはとても歯が立たない存在だったのです。

鎌倉幕府の家臣であった足利尊氏は、後醍醐天皇の討伐へと幕府が京へ向かわせた中で、天皇派へと転向し、この六波羅探題へ戦いを挑みます。
ちょうどその時、他の有力武士たちも六波羅探題へ反旗を翻していたのです。
足利尊氏が京都の西方面から六波羅探題に対峙していた時、京都の南西方面からは赤松軍が京都の南方面からは後醍醐天皇の近臣の千草軍が、次々に六波羅探題に戦いを挑みます。

どの軍も特に連携を取っていたわけではなく、それぞれが単独で行っていたようです。
権力と武力と猛者をそろえた六波羅探題は、その全てで壮絶な戦いを繰り広げますが、いずれも敗退します。
その結果、六波羅探題の幹部と南朝の天皇たちは京都を脱出し、鎌倉へと逃亡を図ります。逃亡中の道中も戦いの連続で、ついに六波羅探題の幹部は全滅し、南朝の天皇たちは捕らわれ京都へ戻されます。
こうして六波羅探題は滅亡したのです。

足利尊氏らが六波羅探題を破ったころ、鎌倉幕府の家臣であった新田義貞にったよしさだが寝返り、鎌倉の地を討伐します。こうして、鎌倉幕府は滅亡したのです。

鎌倉幕府は足利尊氏が滅亡させたというよりも、多くの武将たちの活躍もあり滅亡したのです。

足利尊氏は初めは後醍醐天皇と一緒に倒幕していた

足利尊氏は鎌倉幕府滅亡に向けて動いていた時は、後醍醐天皇の推進派として一緒に討幕していました。
鎌倉幕府を討幕したいという同じ目的であったからです。
後醍醐天皇からの信任も高かったようです。
討幕後のほうびの一つとして、足利尊氏は後醍醐天皇の名前の一文字を賜っています。
当時のヒトは、いみなとよばれる、親や君主などの限られたヒトだけが呼ぶことのできる名前をもっていたのですが、その諱の一文字を足利尊氏は賜ったのです。
後醍醐天皇の諱は「尊治」といい、足利尊氏は「」の文字をもらったというわけです。
それまで、足利尊氏は足利高氏と名乗っていました。
後醍醐天皇と足利尊氏は、名前の一部をもらうほど、親密で信頼のあつい関係だったんです。
その頃は、二人が南北に別れて対立することになるとは、誰も思っていなかったでしょう。

足利尊氏はなぜ後醍醐天皇と対立したのか?

そんな足利尊氏は建武の新政後わずか約1年後に、後醍醐天皇と対立することとなります。
対立の決定的な決め手となったのは、1335年に北条家の残党が鎌倉を占領した中先代の乱なかせんだいのらんが勃発したことでした。
京都から制圧のための軍を出すことになったのですが、足利尊氏は自分を征夷大将軍に任命し、自分に対応させるように後醍醐天皇に主張します。

しかし、後醍醐天皇は首を縦にふりません。
後醍醐天皇は天皇の元に政治権力を招集する政治を行いたかったです。
そのため、関白や征夷大将軍の設置には否定的でした。

しかし、鎌倉の地へと赴き、制圧後正式な権力を使って鎌倉を制定しなければいけません。そこで後醍醐天皇は自分の息子を征夷大将軍に任命します。
足利尊氏の主張を完全に拒否したのです。

足利尊氏らは当然不満を募らせます。そして、天皇の許可を得ないまま鎌倉へ進軍し、制圧してしまいます。
その後も、後醍醐天皇側の再三の帰京要請をはねのけます。鎌倉では、建武の新政で待遇が悪かった武士階級に独自に恩赦を与えたりと、後醍醐天皇の意にそぐわない動きを行います。
そしてついに、後醍醐天皇が足利尊氏への討伐軍を出すことになりました。
足利尊氏は、一度は後醍醐天皇の怒りを鎮めるべく、寺に入り断髪をして許しを得ようとします。
しかし、足利尊氏の周囲は尊氏に後醍醐天皇との対立を促します。
一族や配下を救うためには、もはや対立の道しか残されていないことを知る足利尊氏は、ついに完全に後醍醐天皇と対立する立場となったのです。

楠木正成と足利尊氏は仲が悪かった?

同じ時代にともに過ごした楠木正成と足利尊氏ですが、2人の仲が悪かったという記録は残っていません。それどころか、直接2人が交流を深めていたという記録もないのです。
それでも、どちらも名将と名高い人物同士ですから、お互いの存在は認めあっていたようです。
例えるならば、学校一秀才な生徒と、親分肌の人望の厚い運動部部長といった感じでしょうか。直接話したりしなくても、お互い「すごいやつだなぁ」と認めあっていた感じでしょう。

楠木正成と足利尊氏の出会いは「笠置山の戦い」

楠木正成と足利尊氏の出会いは笠置山の戦いかさぎやまのたたかいでした。
この笠置山の戦いは、楠木正成の名が全国に轟いたきっかけとなる戦いです。
10万人ともいわれる幕府軍に対し、楠木軍はわずか500人。圧倒的な兵力差です。
そんな絶望的な状況の中、楠木軍は赤坂城に籠城し、奇襲戦法を駆使して幕府軍を翻弄します。
太平記という当時の戦いを書いた軍記物語の中では、大石を降らせたり、熱湯を撒いたりと驚くべき戦法が次々と繰り広げられています。
籠城の途中では、笠置山から逃げてきた後醍醐天皇の息子である護良親王を擁護することにも成功します。

幕府軍が兵糧攻めをし、いよいよ苦しくなると、楠木正成はなんと籠城していた赤阪城に自ら火をつけるのです。焼死したとみせかけ、炎上する城の中から護良親王と共に、幕府の大群の中落ち延びることに成功します。

足利尊氏はこの時、幕府軍として出陣しています。
といっても、あまり芳しい働きはみせなかったようです。
それもそのはず、この出陣に足利尊氏は乗り気ではなかったのです。
実は、出陣要請が鎌倉幕府から来た時は、足利尊氏の父親が亡くなって3日しか経ってませんでした。
尊氏は喪中を理由に出陣を辞退しますが、幕府はそれを許さず、しかたなく出陣したのでした。
これにより、足利尊氏の鎌倉幕府への嫌悪感が高まったといわれています。

現在でも、親族が亡くなったすぐ後なのに、考慮の余地なく絶対に仕事をしろといわれたら、その会社に嫌悪感を持ってしまいますよね。足利尊氏の気持ちにもとても納得です。

この戦いで足利尊氏は、楠木正成の存在を知り、後の千早城の戦いで楠木正成が幕府軍に徹底抗戦している間に、感化され討幕派へと変わったきっかけとなったと考えられています。

楠木正成と足利尊氏のすれ違いは「建武の新政」から始まった

共に鎌倉幕府を滅亡へと導いた楠木正成と足利尊氏ですが、最終的には対立する立場になってしまいます。二人の立場のすれ違いは建国の新政から始まりました。
すれ違いの要因を一言で言うならば、それぞれが大事にしているものの違いだったのだといえると思います。

楠木正成は、当時の中国のような君主独裁制を目指していたのではと考えられています。つまり後醍醐天皇の目的と楠木正成の目的はほぼ同じです。
未来への大きな理想を掲げる楠木正成と違い、足利尊氏の動力源はもっと身近な部分にありました。家臣の幸せのために動いていたのです。
足利尊氏の性格は
「朗らかで声が大きく、名声や財産には興味はない。ほうびは中身も見ないで、配下のものに周りに配ってしまうほどだ」といったような内容が残されています。
非常に豪快で、男気に溢れた魅力的な人物ですよね。

そんな足利尊氏にとって、建武の新政で行われている、不公平な報酬や武士への冷遇処置によって苦しむ家臣たちの姿は、心苦しいものであったと思います。
結果的に天皇に背く形になってしまった、中先代の乱の鎮圧行為も、その後の鎌倉で独自に恩赦を与える行為も、足利尊氏にとっては、天皇に盾突く行為をしたかったのではなく、ただただ困っている現状を少しでも良くしたいと思った行動だったのかもしれません。
鎌倉幕府を滅亡させるまでは、同じ目的に向かって進んでいた楠木正成と足利尊氏でしたが、その後の目的が異なっていることが明白になっていったことこそが、楠木正成と足利尊氏のすれ違いの原因なのではないかと思われるのです。
そしてそのターニングポイントとなるのが、建武の新政だったのです。

楠木正成と足利尊氏最後の戦い「湊川の戦い」

対立関係になった楠木正成と足利尊氏は湊川の戦いで、楠木正成が敗北することで終焉をむかえます。

とはいっても、知将と名高い楠木正成がすんなりと敗北をしたわけではありません。後醍醐天皇と対立関係になった足利尊氏が率いる足利軍が、1336年に鎌倉から京へと進軍したときは、楠木正成は足利尊氏を京から追い出すことに成功しています。
その時、足利尊氏は九州まで逃げていきました。完全なる楠木正成の勝利です。
勝ち戦となった直後、
楠木正成は後醍醐天皇に、「足利尊氏は力をつけて必ずや脅威となって戻ってくるので、今のうちに和睦した方が良いだろう」と主張します。
通常のヒトならば、勝ち戦の直後に負けた相手に対して和睦を提案することは、なかなかできないと思います。
この冷静さと先を見通す慧眼を持っている非凡な思考力こそが、楠木正成の最大の武器といえるのではないでしょうか。また、足利尊氏の実力を認めていたことがうかがえます。

しかし後醍醐天皇は、その主張を拒否。

しかし楠木正成の読みどおり、足利尊氏は再び戦いを挑んできます。
その時も、楠木正成は後醍醐天皇に奇策を主張します。
なんと、都を一度捨ててしまおうというのです。
そして、敵が入京したところで包囲することで、殲滅する作戦が最も効果的であろうと考えたのです。

残念ながらこの案も後醍醐天皇をうなずかせることができませんでした。
こうして、真っ向勝負をすることになった楠木正成は湊川の戦いで敗れ、自害することになりました。
楠木正成の自害を知った足利尊氏は、その死を悼んだと言われています。

楠木正成「最後まで忠義を尽くした男」と足利尊氏「鎌倉幕府を開いた男」

楠木正成が自害する際、七生報国と弟と誓い合ったと言われています。
七生報国とは、「私はたとえ七度生まれ変わっても、国に尽くします。」という意味です。
君主を次々に変えるのが当たり前だったこの時代に、最後まで天皇に仕え、さらにこのような逸話も加わったため、楠木最後の最後まで忠義を尽くした男としてのイメージが強く残っているのでしょう。

一方、足利尊氏は、鎌倉幕府を滅亡させ、15代続く足利将軍家を築いた人物として語り継がれています。
しかし、室町幕府をひらいた足利尊氏よりも、最後まで主君に忠義を尽くした楠木正成の方が人気があるのは、やはり主君を裏切らず、主君のために命を賭したその人間としての魅力ではないでしょうか?

まとめ:楠木正成と足利尊氏の関係には後醍醐天皇が大きく関わっていた

このように、楠木正成と足利尊氏の関係には、後醍醐天皇が大きく関わっていました。歴史に「もしも」は存在しませんが、
もしも中先代の乱の時に後醍醐天皇が足利尊氏を征夷大将軍に任命していたら、
もしも足利尊氏を京から退けた時に後醍醐天皇が楠木正成の主張を受け入れて足利尊氏と和睦をむすんでいたら…
その後の日本の歴史が大きく変わっていたかもしれませんね。
大きな時代の変換期に生き、時代に翻弄された二人ですが、知将の楠木正成とカリスマ足利尊氏という魅力的な人物であったことは間違いありません。

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