八月十八日の政変をわかりやすく解説!原因は?中心人物は?その後の影響は?
八月十八日の政変とは、幕末の1863年(文久3年)に起こった、公武合体派が尊皇攘夷過激派を京都から追放したクーデターのことです。
会津藩・薩摩藩と長州藩が対立するきっかけとなったこのクーデターは、なぜ起こってしまったのでしょうか?
また、これによってどのような影響があったのでしょうか?
この記事では、八月十八日の政変について簡単に解説していきます。
目次
八月十八日の政変をわかりやすく解説!
八月十八日の政変は、尊皇攘夷過激派に対して行われたクーデターでした。
なぜ八月十八日の政変が起こったのでしょうか?
また、具体的にはどのようなことがあったのでしょうか?
ここでは、八月十八日の政変について簡単に解説していきます。
八月十八日の政変とは?原因は何?
八月十八日の政変は、尊皇攘夷過激派に対して行われたクーデターでした。
このクーデターは、尊皇攘夷過激派である長州藩と、公武合体派である会津藩・薩摩藩の対立から生まれました。
尊皇攘夷過激派が天皇を巻き込んでクーデターを企んでいたので、公武合体派と孝明天皇が手を組みそれを阻止しようとしたのです。
八月十八日の政変はなぜ起こった?
八月十八日の政変が起こった原因には、長州藩の暴走があります。
黒船来航後、天皇を奉じて列強を追い払おうとする尊皇攘夷運動が盛り上がります。
それに対して、弾圧を仕掛けた大老・井伊直弼が桜田門外の変で殺されると、幕府の威信は失墜してしまいます。
この頃から朝廷に長州藩士などの尊王攘夷派が入り込み実権を握り始め、幕府に攘夷を迫ったり、将軍の上洛を求めるようになりました。
1863年(文久3年)に将軍・徳川家茂が上洛すると、朝廷は幕府に攘夷を命じます。
それに対して幕府は仕方なく
「文久3年5月10日をもって攘夷を決行せよ」
と諸藩に通達しました。
ただし、このときの幕府の考える攘夷とは、
「列強と交渉して日本から退去させること」
でした。
しかし、長州藩はこれを攘夷の正式な許可が降りたと解釈し、関門海峡を通過する外国船に砲撃を繰り返してしまいます。
長州藩は、日本全国で一丸となって挑めば外国にも勝てると考えていました。
そのためには天皇自らが攘夷親征しなくてはならないとも考えます。
そこで、8月13日に、朝廷は長州藩の策略によって、天皇の孝明天皇の大和行幸を発表するのです。
これは攘夷祈願という名目で行幸させて、そのまま攘夷軍を結成して欧米人を駆逐しようとしたのでした。
しかし、孝明天皇はこうした過激な攘夷活動を嫌っていました。
そのため、公武合体派である薩摩藩などに相談。
これを受けて、薩摩藩と京都守護職であった会津藩が協力して長州藩を朝廷から追放することにしたのです。
これが八月十八日の政変です。
八月十八日の政変の結果は?
長州藩などの尊皇攘夷過激派を追放することを目的とした八月十八日の政変でしたが、結果はどうなったのでしょうか?
8月18日の早朝、主要人物が御所に入ると、御所の門は全て閉じられ、そこを薩摩・会津藩を中心とした藩士たちが警備しました。
このとき、政変に参加し、兵を動員した藩は、薩摩藩や会津藩の他にも、備前、阿波、因州、米沢、淀などを含んだ約30藩近くに上りました。
そして、尊皇攘夷過激派が御所に入らないまま会議が開かれます。
会議での決定事項は事前に決められていました。決定したのは以下の通りです。
- 行幸の中止
- 急進派の公卿たちの政治関与の禁止
- 長州藩の御所警護の任の解任
こうして、尊皇攘夷過激派の面々は、御所に入ることもできないまま、朝廷から追放されてしまうのです。
八月十八日の変と禁門の変との違いは?
八月十八日の政変は、長州藩などの尊皇攘夷過激派が朝廷から追放された事件です。
これと同じ時期に行われた政変に、「禁門の変」というものがあります。
こちらは、八月十八日の政変によって追放された長州藩が、失われた地位を回復しようとして起こった事件で、長州藩と幕府軍が武力衝突しました。
つまり、八月十八日の政変を受けて起こったのが、禁門の変ということになります。
\禁門の変については、こちらの記事で詳しく解説しております/
八月十八日の政変の中心人物は?
八月十八日の政変は、会津藩・薩摩藩と長州藩が対立することとなりました。それでは、このクーデターの中心人物には誰がいたのでしょうか?
ここでは、八月十八日の政変の中心人物と七卿落ちについて簡単に解説していきます。
八月十八日の政変の中心人物:孝明天皇
長州藩は幕府の威信が失墜したのをいいことに朝廷に入り込み、そのまま急進派の公家と手を組み、朝廷の実権を握り始めます。そして、攘夷を進めるために、孝明天皇の神武天皇陵・春日大社などへの行幸を、孝明天皇の許可なく勝手に決定するのです。
しかし、孝明天皇はこの決定に不満を持っていました。
なぜなら孝明天皇は元々、攘夷思想を持っていたものの、その思想は穏便・佐幕派に近いものだったからです。
つまり、孝明天皇からしてみたら、長州藩を始めとする急進派の攘夷の仕方は過激すぎてやりすぎだと考えていたわけですね。
そんな折に、会津藩や薩摩藩と手を組んでいて、孝明天皇が信頼していた「中川宮」という人物から、
「長州藩ら急進派が朝廷を利用しようとしていますが、どうお考えですか?」
と内意を聞き出されます。
そこで、孝明天皇は
「急進派の公卿らは「幕府は無能だから天皇自ら攘夷すべき」だと言うが、公武合体のために私の妹が将軍に嫁いでいるのだからそれは無理な話だ。それに、自らが軍の指揮をとってまで外国を打ち払う気はない。今戦争をしても異国に勝てるはずがないのだ。時期尚早である」
とし、中川宮に長州藩ら急進派を京から排除せよと密命を出したのでした。
つまり、八月十八日の政変は、孝明天皇が公武合体派の人々にお願いした結果、起こったというわけですね。
七卿落ちとは?追放された公家は誰?
八月十八日の政変の結果、長州藩を始めとする急進派は京から追放されることとなりました。その際に、三条実美ら公家たち15人に対し禁足(外出禁止)・他人との面会禁止などの命令が下ります。
しかし、そのうち7人の公家は命令に背いて長州藩士らと共に長州へと向かってしまうのです。
【追放された公家の7人】
- 三条実美
- 三条西季知
- 四条隆謌
- 東久世通禧
- 壬生基修
- 錦小路頼徳
- 澤宣嘉
追放されてしまったのならばいっそのこと長州藩士らとともに長州へと落ち延びて、復活の機会を伺おうとしたのかもしれません。
7人の公家が長州藩へと落ち延びたことから、これを「七卿落ち」と呼んでいます。
なお、朝廷は禁足の朝命を無視して京を出奔したとして、七卿の官位を停止しています。
八月十八日の政変のその後の影響は?
八月十八日の政変によって、長州藩といった尊皇攘夷過激派は、京都から追放されてしまいました。
それでは、その後どのような影響があったのでしょうか?
ここでは、八月十八日の政変のその後の影響を簡単に解説していきます。
参預会議が開かれた?
八月十八日の政変によって、朝廷は政治を主導できる人材を多く失ってしまいました。
そこで、朝廷は混迷を極める政局の安定を図るために有志大名に期待し、参預会議を開きます。
この際に招集された人物は以下のとおりです。
【参預会議に召集された人物】
- 徳川慶喜
- 松平春嶽
- 山内容堂
- 伊達宗城
- 松平容保
- 島津久光
以下、追任
- 長岡護美
- 黒田慶賛
なお、徳川慶勝も参預に命じられたが、辞退しています。
この参預会議での当面の議題は、長州藩の処分と攘夷問題(主に横浜港鎖港)でした。しかし、参預間(特に徳川慶喜と島津久光)の対立が激しく、参預会議は早速行き詰まってしまいます。
そこで、それを見かねた中川宮が酒宴の席を設けるも、泥酔した徳川慶喜が
「この3人(島津久光・松平春嶽・伊達宗城)は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」
と暴言を吐いてしまいます。
それを受けて、島津久光は機嫌を損ねて参預会議を見限ってしまいます。
こうして、そのまま参預会議はほとんど何の成果も挙げられないまま、瓦解してしまうのでした。この期間、わずか2ヶ月のことでした。
池田屋事件・禁門の変が起こった?
八月十八日の政変によって追放された長州藩でしたが、一部の勢力は京に潜伏し地位回復の機会を伺っていました。
その情報を聞き出した新撰組が、池田屋にて会談していた長州藩士を始めとする尊皇攘夷志士らを一掃します。これが池田屋事件です。
この池田屋事件で同胞を多く殺された長州藩は激怒し、京へと攻め込んできます。
そして、御所の門(禁門)あたりで、薩摩藩ら幕府軍と衝突するのです。
これが禁門の変です。
八月十八日の政変によって追放されてしまったが故に、長州藩は幕府や朝廷を敵に回すこととなり、地位を回復するどころか朝敵とみなされるようになってしまうのでした。
\池田屋事件に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております/
\禁門の変に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております/
まとめ:八月十八日の政変によって、長州藩は朝廷から追い出され、次第に朝廷と敵対していくこととなった
八月十八日の政変では、長州藩を始めとする尊皇攘夷過激派が、激しい攘夷活動を行った結果、孝明天皇に不満を持たれ、そのまま京から追放されることとなってしまいました。
今回の内容をまとめると、
- ・長州藩は関門海峡を通る異国船に向けて砲撃するなど、過激な攘夷活動を行っていた
- ・急進派の過激な攘夷活動に不満を持っていた孝明天皇が、急進派の追放を密命する
- ・会津藩や薩摩藩といった公武合体派が、クーデターを起こし急進派を追放する(八月十八日の政変)
- ・追放された長州藩は地位回復を狙うが、作戦は失敗に終わり朝敵とみなされるようになってしまった
この後起こる池田屋事件は新撰組の知名度を大きくした上げた事件ですし、禁門の変は長州藩が朝敵とみなされるきっかけとなった事件です。
2つの大きな事件のきっかけとなった八月十八日の政変は、ある意味で大きな分岐点であったと言っても過言ではないでしょう。