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弁慶の最後!源義経を守った弁慶の最後の言葉は?墓所はどこにある?

弁慶(?〜1189(文治5))は、平安時代末期に活躍した僧衆です。
源義経の忠臣として有名で、怪力無双の荒法師として知られています。

また、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、元ラガーマンの俳優・佳久創さんが演じられたことで話題になりました。

そんな弁慶はどのような最後を迎えたのでしょうか?この記事では、弁慶の最後の姿を簡単に解説していきます。

弁慶の最後の姿を簡単に解説!

弁慶は源義経の忠臣であったことから、その最後も源義経と共にありました。

それはどのような最後だったのでしょうか?
ここでは、弁慶の最後の姿について簡単に解説していきます。

弁慶の最後の戦いは衣川の戦い

弁慶の最後の戦いは、衣川の戦いです。

衣川の戦いとは、源頼朝に追討され、なんとか平泉に逃げてきた源義経に、奥州藤原氏当主・藤原泰衡が奇襲を仕掛けたという形の戦いでした。

このとき、命からがら奥州に逃げてきた義経には、十分な軍隊を用意できるはずもなく…。
兵力は、義経側がわずか10数人なのに対して、泰衡側は約500人もいたそうです。

弁慶を始めとした義経の家臣たちは、主君を守ろうと奮闘します。しかし、圧倒的な兵力差を前に為す術もなく、義経側は全滅してしまうのでした。

弁慶の最後の姿は?死因は?

弁慶の最後の戦いは衣川の戦いでした。追い詰められた義経を守るべく、弁慶は敵の前に立ちはだかります。

そして、喉笛を切り裂かれ出血するなど、満身創痍の状態になってしまうのです。
普通の人間であれば死んでいるところですが、弁慶はいっそう力を発揮し、次々に敵をなぎ倒していきます。

この際、弁慶は最後の別れをしようと、義経のもとに向うと、義経は法華経を読経していました。
そして、弁慶に
「読経はもう少しで終わる。読み終わるまで、(弁慶が死んでも)私を守れ」
と言ったので、弁慶は再び敵兵を討つべく立ち上がります。

義経が籠もっている堂の入り口に仁王立ちし、敵を睨みつけました。

その姿はまるで金剛力士のようで、弁慶は痴れ笑いをしていたと言います。

薙刀をふるって防戦していましたが、敵の無数の矢を一身に受けて、立ったままそのまま絶命してしまいました。

これは、「弁慶の立ち往生」として後世に語り継がれていくことになります。

弁慶の最後の言葉は?

弁慶は最後に、源義経に向けて辞世の句を残していました。

【弁慶の最後の言葉】

「六道の 道のちまたに 待てよ君 遅れ先立つ 習いありとも」

(現代語訳:義経様、どうか冥途への道の途中で待っていてください。先立つ順番に後先があったとしても)

これに対して、義経も弁慶に向けての句を読んでいます。

「後の世も また後の世も めぐりあへ 染む紫の 雲の上まで」

(現代語訳:後世も、そのまた後世も巡り逢おう。あの紫に染まった雲の上の浄土まで共に行こう)

このように、弁慶の辞世の句と義経の返歌は、主従の固い絆をよく表していますね。

弁慶と源義経の関係は?

弁慶は義経を守り抜いて最後を迎えたのですが、何故そこまで義経に忠誠を誓っていたのでしょうか?ここでは、弁慶と義経の関係について簡単に解説していきます。

弁慶が源義経の家来となった経緯は?

弁慶と源義経の出会いの場所は、京都の五条大橋の上でした。

この場所で、弁慶は自分の怪力無双を試すべく、この道を通る武者を襲っては太刀を奪うということをしていました。

999本集まり、残り1本で1000本になる、というところで現れたのが、源義経(牛若丸)です。

義経は、美しい女性を思わせるような細身で、弁慶は簡単に倒せると思いました。

さらに、腰には立派な刀を佩いていたので、これこそ1000本目にふさわしいと、義経に攻撃をしかけます。

しかし、義経は欄干を飛び交うなど身軽な身のこなしで、弁慶の攻撃を次々に避け、弁慶は返り討ちにされてしまうのです。

弁慶を倒した義経は、自分が平家に殺された源氏のトップ・源義朝の息子であることを弁慶に話します。

すると、弁慶は、義経のその強さと高貴な血統に惚れ込み、家来にしてくれと頼み込みました。

これ以降、弁慶は義経の忠臣として活躍していくわけです。

弁慶の忠臣ぶりを表すエピソードは?

弁慶の忠臣ぶりを表すエピソードとして有名なのは、歌舞伎の演目にもなっている『勧進帳』でしょう。

頼朝に追討され、義経は昔お世話になった奥州へと逃げることにします。

この際、義経一行は山伏の格好に変装していました。

奥州までの途中にある加賀の安宅の関を通る時に問題が起こります。

ここの番人・富樫左衛門に変装を見破られてしまうのです。

富樫左衛門は義経たちに、山伏の証明である「勧進帳を出せ」と迫りますが、義経たちは当然そんなものは持っていません。

しかし、ここで弁慶が持っている巻物を広げて、スラスラと勧進帳を読み上げるのです。

実はこの巻物は、何も書かれていない白紙の巻物でした。

弁慶は何も書かれていない巻物を、あたかも本当に文字が書かれているかのように読み上げたのです。この弁慶の芝居のおかげで、関所の責任者は彼らを通すことにします。

しかし、さらなる問題が。

後列にいた義経の顔を見た役人が、「義経に似ている!!」と疑い始めるのです。

ここで弁慶は驚くべき行動に出ます。なんと咄嗟に義経を棒で殴りつけたのです。

「お前が義経に似ているせいで、あらぬ疑いをかけられてしまったではないか!!」

と何度も何度も打ち据えました。それを見た役人たちは、義経たちへの疑いを晴らし、関所を通過させることにします。

関所を通過した後、弁慶は義経に涙ながらに謝罪します。

それに対して義経は、弁慶の行いを真の忠義だとして褒めたと言われています。

義経を守るためならば、なんでもするという弁慶の気概を感じることのできるエピソードですね。

弁慶の墓所はどこにある?

衣川の戦いで最後を迎えた弁慶ですが、その墓所はどこにあるのでしょうか?
それは、弁慶が立ち往生した衣川の近く、中尊寺表参道、月見坂の登り口に存在しています。

そこには、弁慶の図体の大きさを想像させるような、大きな墓石が置かれているのです。

そして、その周りには数本の松が墓を囲むように立っており、その松は弁慶松と呼ばれています。

松の下には円形の句碑があり、

「色かへぬ 松のあるしや 武蔵坊」

という、中尊寺一山中の俳人・素鳥(そちょう)の句が掘られています。
こちらは、弁慶の最後まで変わることのなかった義経への忠義の心を、色を変えない松の緑に例えた句です。

弁慶の墓

住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関地内

まとめ:弁慶は源義経に忠義を尽くし、最後まで戦い抜いて亡くなった

弁慶は、忠誠を誓った源義経が源頼朝に追討されたため、最後の地・平泉まで共に逃亡しました。そして、そこで襲撃にあった際に、義経を守り抜くべく命をかけて最後まで戦い抜きました。

今回の内容をまとめると、

  • 弁慶は義経に勝負を挑み、返り討ちにされたために家臣になった
  • 弁慶は、義経が頼朝に追討されたため、一緒に平泉まで逃亡した
  • 弁慶は、衣川の戦いにて、義経を守るべく最後まで戦い抜いた
  • 弁慶の、立ったまま死んだその姿は「弁慶の立ち往生」と言われている

死んでもなお立ち続けた弁慶の姿は、その忠誠心の高さをとてもよく表しています。

この姿に心を動かされた人は数多くいるのではないでしょうか?

ここまで命をかけることのできる主君に巡り会えたということは、弁慶にとってこの上ない幸せだったのかもしれませんね。

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