源義経の家系図をわかりやすく解説!兄弟は?子供は?子孫は現在まで続いている?
源義経(1159年(平治元年)〜1189年(文治5年))は、平安時代に活躍した武将です。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟でもあります。源氏と平氏の戦いである源平合戦において、大活躍し最大の功労者となりました。
また、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、菅田将暉さんが演じられたことで話題となりました。
そんな源義経の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、源義経の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。
目次
源義経の家系図を簡単に解説!
源義経の家族構成は?
【源義経のプロフィール】
源義経(みなもとのよしつね) 1159年(平治元年)〜1189年(文治5年)/享年:31歳
出身地:京(現在の京都市)
父:源義朝/母:常盤御前
正室:郷御前
妾:静御前、蕨姫
子:娘、男児
源義経は、1159年(平治元年)に京で源義朝の九男として生まれました。
そして、1184年(元暦元年)には、源頼朝の媒酌により河越重頼の娘・郷御前と結婚します。
郷御前の父親・河越重頼は頼朝に忠義を尽くした人物であり、また、郷御前の祖母は頼朝の乳母・比企尼でした。
つまり、この結婚は、頼朝が義経との関係強化を狙った政略結婚だったわけです。
郷御前との間には娘を1人授かりました。
また、妾も数人迎えており、その間にも子供をもうけています。
源義経に子供はいた?
源義経は妻が何人かおり、それぞれの妻との間に子供がいたという噂はあるものの、はっきりと義経の子と判明しているのは2人のみです。
1人は、正室・郷御前との間に授かった娘、もう1人は、妾・静御前との間に授かった男児です。
また、義経最期の地である平泉に、郷御前は子供とともについてきていたのですが、その際に娘だけではなく、男児もいたという記録があるのです。
この男児は『清和源氏系図』に記載されている千歳丸ではないかと言われています。
しかし、『吾妻鏡』で衣川の戦いで死亡した子は4歳女児のみとなっていることから、この男児が本当にいたかどうかの真偽は不明のままです。
源義経と源頼朝は異母兄弟?
鎌倉幕府を開いたことで有名な源頼朝と、源義経はどのような関係だったのでしょうか?
2人の父親は、源義朝という人物です。しかし、2人は母親が違います。義経の母親は常盤御前で、頼朝の母親は由良御前です。
つまり、義経と頼朝は異母兄弟だということですね。
ちなみに、源頼朝は義朝の三男で、源義経は九男でしたので、頼朝のほうがお兄さんということになります。
源義経の子孫は現在まで続いている?
源義経には子供が何人か存在していました。
その子孫は現在まで続いているのでしょうか?
ここでは、源義経の子孫について簡単に解説していきます。
源義経の先祖は清和天皇?
源義経の先祖は遡っていくと、第56代天皇・清和天皇にあたります。
源義経が属している源氏というのは、天皇の血を引く一族で、清和天皇の流れになることから『清和源氏』とも呼ばれています。
しかし、時代が流れるにつれて、天皇の末裔であった源氏は、いつの間にか武士という低い身分に落ちていたのです。
そんな落ちぶれていた源氏の名を、もう一度歴史に刻んだ人物が現れます。
それが、源義家です。義家は後三年の役という戦いで活躍し、その名を歴史に刻みつけました。
このように、源義経は天皇の子孫であり、また源氏の伝説の名将・義家の子孫でもあるのです。
源義経の子孫は途絶えてしまった?
源義経のはっきりと判明している子供は2人います。
その子孫は続いているのか見ていきましょう。
一人目は、正室・郷御前との間に授かった娘です。
この郷御前と娘は義経が平泉に逃げた時に、一緒に平泉に向かっています。そして、義経を匿ってくれていた藤原秀衡が亡くなるまでは、衣川館で家族仲良く暮らしていました。
しかし、秀衡の子・藤原泰衡によって衣川館は襲撃を受けます。最期を悟った義経は、この妻子を自ら手にかけるのです。この時、郷御前は22歳、娘は4歳とまだまだ若い2人でした。
つまり、正室の子孫は全く残らなかったということになります。
二人目は、妾・静御前との間に授かった男児です。
静御前は義経の都落ち後、義経に付き従って移動していました。しかし、最終的に義経の命で別れることを余儀なくされます。
その後、鎌倉方の手に落ち、鎌倉まで連れて行かれることになるのですが、その時にはすでに静御前のお腹の中には義経の子がいたといいます。
この子は、女の子であれば助命されることが決まっていたのですが、運悪く産まれてきたのは男の子でした。
静御前は泣いて抵抗したそうですが、息子は頼朝家臣の手によって、由比ヶ浜の海の中に沈められてしまいました。
以上のことから、義経の子孫は途絶えてしまったということになります。
源義経は実は生存説が存在する?
源頼朝に追討され、平泉にて亡くなったとされる義経ですが、実はそこで死なずに生き残ったとする説が存在するのです。
その場合、子孫が続いていた可能性はあるのでしょうか?
ここでは、源義経の生存説について簡単に解説していきます。
源義経はチンギス・ハーンになった?
源義経の生存説として有名なのが、義経=チンギス・ハーン説です。
「義経は衣川の戦いで死んでおらず、生き延びて大陸に渡った後、皇帝チンギス・ハーンとなり、ユーラシア大陸の半分を支配する大帝国を繰り上げた」
とする逸話です。
この逸話は江戸時代から噂されていた話なのですが、明治・大正時代に爆発的に広まります。その原因として挙げられるのが2冊の本です。
- 『義経再興記』
- 『成吉思汗ハ源義經也』
これらの本が爆発的大ヒットをしたおかげで、義経=チンギス・ハーン説が日本に広がったのです。
しかし、現在ではチンギス・ハーンの父親の名前や生年が判明していることから、この説は学会で完全に否定されており、事実ではないとされています。
そのため、海外に源義経の子孫が生き残っているということもないでしょう。
源義経はアイヌの王になった?
もう1つの生存説として挙げられているのが「義経北方伝説」です。
この説では、源義経は平泉では死なずに、北の地・北海道へと逃亡し、そこに住んでいたアイヌ民族の王になったと言われています。
そして、この説が本当だとすると、江戸時代前期のアイヌ民族の長・シャクシャインは、義経の末裔であった可能性が高いのです。
しかし、こちらの説も、現実的に考えて源義経が逃げ延びて生き残った可能性は低いとされ、事実ではないと考えられています。
まとめ:源義経の子供は全員亡くなり、子孫は続かなかった
源義経は、きちんとわかっているところだけでも2人の子供を授かっていました。しかし、正室との間の子は自ら手をかけ、静御前との間の子は頼朝によって殺されてしまいました。そのため、義経の子孫は現在まで続くことはありませんでした。
今回の内容をまとめると、
- 源義経には、判明しているだけで正室との間に1人、静御前との間に1人の子供がいた
- 源義経は、兄の源頼朝に追討され、平泉にて自害。その際に、自ら正室とその子を手にかけた
- 源義経と静御前との子は、頼朝によって殺されてしまった
- 源義経の子供は全員亡くなってしまい、子孫は途絶えてしまった
静御前との子が女の子だとしたら、頼朝は生かす約束をしていました。しかし、実際女の子が生まれていたとしても、その子孫が復讐しに来ることを恐れて殺していたでしょう。
そう考えると、源義経は頼朝という時の人を敵に回してしまった時点で、子孫が続いていくことはなかったのかもしれませんね。