藤原道長の死因は何?蘇生した?お墓はどこ?最期の姿などを簡単に解説!
藤原道長(966(康保3)〜1028(万寿4))は、平安時代中期に活躍した公卿です。
2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、柄本佑さんが演じられることでも話題となっています。
そんな藤原道長はどのようにして亡くなってしまったのでしょうか?
この記事では、藤原道長の死因について簡単に解説していきます。
目次
藤原道長の死因は何?
藤原道長の死因は、病死だと言われています。
どのような病気で亡くなったのでしょうか?
ここでは、藤原道長の死因について簡単に解説していきます。
藤原道長の死因は糖尿病?
藤原道長の死因は糖尿病だと言われています。
藤原道長は、50歳を過ぎた頃から、様々な体調不良に悩まされ始めます。
その症状は、藤原実資の『小右記』に詳しく書かれていました。
- 喉が渇いて水を大量に飲んでいる
- 痩せて体力がなくなった
- 背中に大きな腫れ物ができた
- 目が見えなくなった
以上のように書かれていたことから、藤原道長の死因は、糖尿病による合併症であろうと推定されています。
また、藤原道長の叔父・兄・甥・孫も同様の症状で亡くなっているため、藤原道長の家系は糖尿病の遺伝子を持っていたとも考えられます。
藤原道長の糖尿病の原因は?
それでは、なぜ藤原道長は糖尿病になってしまったのでしょうか?その主な原因は3つ挙げられます。
・運動不足
まず1つ目に挙げられるのが、運動不足です。
平安貴族は、ほとんど外に出ることがなく、室内での生活が中心であったため、どうしても運動不足になってしまいます。
それに加えて、藤原道長は重要な役職に付いていたため、体を動かすような機会を余計に作りづらかったということが考えられます。
・ストレス
次に挙げられるのが、ストレスです。
先程もお伝えしたように、藤原道長はとても重要な役職に付いていました。その座を狙う人物は跡を絶たないのです。
自分の地位を守るために、常にライバルたちを牽制する日々。ストレスがたまらないわけ無いですよね。権力闘争は、藤原道長にとってものすごいストレスだったのでしょう。
・食生活
最後に挙げられるのが、食生活です。
平安時代の貴族の食事は、味や栄養よりも盛り付け方などの見た目の美しさが重要視されていました。
さらに、全国各地の珍しい食材を使おうとすれば、魚や貝は保存の効く干物や塩漬けなどの加工品が中心となります。
このように、当時の食事は栄養が考えられておらず、ただでさえ塩分が多い料理に、さらに自分好みに味付けを加えるような食事だったのです。
このような食事を毎日食べていたら、当然不健康になってしまいますよね。
以上、3つの原因により、藤原道長は糖尿病になってしまったと考えられています。
藤原道長の最期の姿はどうだった?
糖尿病にかかってしまった藤原道長の最後の姿はどのようなものだったのでしょうか?
まず、目が見えないことはかなり深刻だったようで、『御堂関白記』には、
「60cm〜90cm先の人の顔がよく見えず、手に持ったものだけは判別できる」
という状態であったと書かれています。
さらに、亡くなる数日前には酷い下痢が続き、自力では排泄もできなくなり、どんどん衰弱していきました。
背中の腫れ物も、女性の乳房ほどの大きさになっており、医師が針を刺してみるものの、中身はほとんど出てきません。
こうして、藤原道長は、重体に陥り、意識を失うこともあったようです。
亡くなる少し前、死期を悟った藤原道長は、屏風を開け北枕にし、9体の阿弥陀仏の手を蓮の糸で作った組紐で自分の手と繋ぎました。
そして、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したと言われています。
藤原道長は蘇生した?
藤原道長は、死後に蘇生したのではないかと噂されることもありました。
その要因となったのは、死後硬直ではないかとされています。
死後硬直によってわずかに藤原道長が動いたため、周囲の人達が
「道長様が蘇生したぞ!」
と希望を持ってしまったのです。
しかし、その後藤原道長は動くことはなく、そのまま死亡が確認されたのでした。
藤原道長は晩年をどう過ごした?
藤原道長は、糖尿病が原因で亡くなりました。だいぶ辛い症状だったようですが、晩年はどのように過ごしていたのでしょうか?
ここでは、藤原道長の晩年の過ごし方を簡単に解説していきます。
藤原道長は出家するも心身ともに疲弊していった?
栄華を極めていた藤原道長でしたが、体調不良に悩まされるようになってから、出家しています。
しかし、出家した藤原道長に待っていたのは、さらなる不幸でした。
藤原道長の周囲に訃報が続き、1025年には寛子と嬉子、続いて1027年には顕信と妍子を亡くしてしまうのです。
自身の体調不良に加えて、身内の溺愛していた子どもたちの訃報。
藤原道長は心身ともにどんどん疲弊していったのでした。
藤原道長は寺院の創設に熱心だった?
出家した藤原道長は、実は寺院の創設も熱心に行っていました。
若い頃から、
「藤原北家の墓所である木幡が荒廃しているのを目にして心を痛め、浄妙寺を建てる」
といったように、藤原道長は仏教を大事にしていましたし、建築も熱心に行っていたのです。
そのため、体調不良になってしまったときに、藤原道長自身も仏教にすがりたかったのかもしれません。
出来上がった寺院は法成寺といい、平等院鳳凰堂のモデルとなりました。
藤原道長の墓所はどこにある?
藤原道長の遺体は、鳥辺野にて火葬され、遺骨は現在の京都府宇治市木幡の「宇治陵」と称される墓地群に埋葬されました。
宇治陵は、古墳時代以降造られた300以上点在している古墳・陵墓の総称で、平安時代には、藤原北家一族の埋葬地となっていました。そのため、藤原道長も例に習ってここに埋葬されたわけです。
この中でも、藤原道長の墓とされているのが、宇治陵32号墳です。しかし、これは、あくまでひとつの説であり、確定はしていません。
藤原道長の子・藤原頼通が浄妙寺の南大門から藤原道長の墓に参ったとの記述が残されており、その後発見された浄明寺跡の位置関係からそのように推定されています。
また、藤原氏の衰退とともに、この宇治陵も荒廃・放置されていき、それぞれの被葬者が不明となったまま現在に至っているのです。
宇治陵32号墳(藤原道長の墓)
住所:京都府宇治市木幡檜尾25-2
利用時間:常時
定休日:無休
料金:無料
まとめ:藤原道長は糖尿病のせいでつらい最期を迎えた
藤原道長は、食生活の乱れや運動不足、権力闘争によるストレスによって、糖尿病にかかってしまい亡くなりました。その最後は、肉体的にも精神的にもとても辛いものでした。
今回の内容をまとめると、
- 藤原道長の死因は糖尿病
- 藤原道長が糖尿病になった原因は、食生活の乱れと運動不足とストレス
- 藤原道長は、晩年は様々な症状に苦しんでいた
- 藤原道長の墓は、京都府宇治市木幡の「宇治陵」にある
意識がなくなるような重体であったにも関わらず、亡くなる間際には読経を口ずさんでいたというのですから、いかに藤原道長の仏教への信仰心が厚かったのかということが伺えますね。